恐怖のポニョループ(レビューのようなもの)
このところ大気の状態が不安定であるが、この日は夕方から大雨だった。
あまりに激しい降りで奥さんが駅まで車で迎えに来てくれた。その後夕食を外で採る予定だったのもある(本当は僕が学生と食事に行く可能性があったのだが、学生の気まぐれか深層心理での嫌悪の表れか当日キャンセルになったので、その場で奥さんにメールして二人で外食に行くことにしたのである)。
そのまま、調子に乗って近所のシネコンで『崖の上のポニョ』のレイトショーを観てきた。
内容と感想について書く前に、この映画について友人のcicaさんから課題をいただいたのでまずそれについて書く。
それは、なぜ幼児はこの歌を歌うのか、それも「崖の上に、やってきた♪」までのところを無限ループで、さらにいうと歌詞も間違ったままで歌うのか、について考察せよ、というものである。
というのも、都並自身もcica女史も、ごく最近お互いに別々の場所で(たまたまどちらも新幹線の中だったが)このような大変うっとうしい(僕は子供は大好きだが、際限なく繰り返される過ちというものには不寛容だ)経験をしたのであった。
とはいえそんな課題を出されても、都並は発達心理学とか音楽教育の専門家ではないので、何を言おうとそれは所詮推察の域を出ないのだが、けれどもcica女史との長年の人間関係には有無をいえないものがあるので、やむなく考察してみる。
これには問題点を三つに分ける必要がある。その上でそれぞれに解答を考えてみる。
問題点①:なぜ幼児はこの歌を歌うのか。
解答(1):幼児は常日頃からオノマトペ(擬音・擬態。ポーニョポニョポニョ)に慣れ親しんでいる。そういう音楽教育を受けている。例)ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、ぶんぶんぶん、ハチが飛ぶ
解答(2):同じ幼児(大橋のぞみ)の歌声にシンクロしている。発達心理学の世界では、赤ちゃんは別の赤ちゃんの泣き声に誘発されて/共鳴して泣く、という可能性が指摘されている。
解答(3):「きらきらぼし」と同じで、4小節で上がって下がる旋律が覚えやすい。これは都並が音楽的素人の癖にいきがって考えたことなので、厳密には間違っているかもしれない。いやきっと間違っているだろう。都並の音楽的素養は小学校で止まっているのである。
問題点②:なぜ幼児はこの曲を無限ループで歌うのか。
解答(1):そこしか予告編でやっていない。
解答(2):運悪くそこまでで循環するメロディである。
解答(3):新幹線の車内はひまだ。
問題点③:なぜ歌詞を間違うのか。
解答(1):幼児の言語能力の限界。歌詞を覚えられない。
解答(2):「崖」という単語が、幼児の日常の語彙の中にない。「お母さん、今日幼稚園で先生と崖を見に行ったよ」という文章の非日常性を考察せよ。
解答(3):「崖の上にやってくる」という行動が幼児の日常生活のスクリプトの中にない。幼児はもし日常生活の中で崖に何らかのかたちで接しているとしても、たいていの場合崖の上にてそうするのであり、崖の下にてそうすることはまずない。したがって、「崖の(下から)上に」というスキーマが幼児には理解できない。
ということである。いかがだったでしょうか。
肝心の課題を果たした後で、『ポニョ』について考えてみる。
まず、ジブリ・アニメ全般を論じる難しさについて触れておきたい。
ジブリアニメというのは今も昔も基本的には(『ナウシカ』なんて僕が小学生のときだ)賛否両論を誘発するものである。尤も、昔は一般的には高評価だったのが昨今では一般的にも票が割れる、ということはあるにせよ、映画ファンにとってはなんとなく「ひとこと言いたい」しかも「他人とは違うことを言いたい」という気分を誘発するものなのである。
それはおそらく、見かけの分かりやすさ/ポピュラリティと、その裏側に隠れている(つもりでまるで隠れていない)得体の知れなさみたいなものが共存しているからだ。これはとりわけ『もののけ姫』以降に顕著な傾向だ。
こういう前提に立ったとき、ジブリアニメは「『ポニョ』は大人気だけど本当は失敗作だ」とか「『ポニョ』は批判されているけど絶対的に素晴らしい」という議論がしやすい作品だということになる。なぜかというと、ジブリアニメは、上述の相反性を持っているために、どちらの議論にも証拠を提供する作品となっているからだ。
しかしこういう議論をすることは(なんとなくそれが知的な身振りだということになっていたりするけれど)、物事を単純化しすぎる危険がある。
だからここでは基本的に「いいところもあるし悪いところもあるんじゃないの『ポニョ』」という姿勢をとるつもりである、と予め言っておきたい。その上で、みんなが気になるだろうところについて自分なりに考えたことを書く。
①アニメーションの技法について。
今回、原点回帰とも言える手書き風アニメーションを選択したわけだけれども、これは個人的には成功だったと思う。エリック・クラプトンが『アンプラグド』をやったときのように、CGI全盛のこの時代に、この技法の持つ可能性を示してくれたと思う。
特に、手書き風でありながら、しっかりとその空間の中にいる雰囲気を感じさせてくれたことには驚きを感じている。そんなことを言っても個人的な印象に過ぎないわけだが、この一見矛盾するふたつの効果がどうして達成できたのか、ちょっと考えてみたくなるものであった。
②音楽について
監督自身が製作中にワグナーの『ワルキューレ』を聴いていたからだとは言うものの、今回久石譲さんの音楽が全面的にオペラで、しかもそれが全編を通して鳴りまくっていたのにはびっくりした。クインシー・ジョーンズじゃなかったのか。
③ストーリーの説明不足について
あちこちで指摘されているように、明らかにいろんなことが説明不足だ。
しかしこれは好意的に捉えたい。東浩紀さんが著書『動物化するポストモダン』で述べていたところによると、我々の世代の物語消費というのは「データベース型」だという。
難しい議論は置いておいて、東さんの議論を僕なりに解釈すると、つまり我々は、どんな物語でも物語内の個々のディテールを検索し、それに自らの物語的データベースから情報を補って物語を理解している、ということになる。
逆に言うと、そういうデータベース内の情報を参照させてくれるかぎりにおいて、ディテールが歓迎される、それが「データベース型消費」なのである。
たとえば「眼鏡」というディテールがある登場人物に用いられたとき、それはあらゆる「眼鏡男子」「眼鏡女子」というカテゴリー内の情報を想起させる。
同様に、大きくなりすぎた月や世界の破滅、命の水といった説明不足なディテールも、我々が自らの物語経験の中から情報を補って楽しめばいいのである。
簡単にいうと、自由に想像を膨らませればいいのである。
この点においてこの映画は黒澤明の『夢』に似ているな、と思った。どちらも名監督が老境に至って作った映画、というところも似ている。年を取ると夢幻的なものを志したくなるのだろうか。
④ポニョがかわいいかについて
この映画はなんといっても、ポニョ(と宗介)がかわいいか、ふたりの感情に乗っていけるか、に大きく左右される映画だと思う。それによって映画の評価が大きく変わってくる。こんなにも説明不足な映画なのだから。
個人的には乗っていけた。おかげで映画館を出たときに心が洗われた思いがした。でもその一方で、他の人のレビューを見ると「ポニョが気持ち悪い、生理的に怖い」という人もけっこういるみたいである。
これはなぜなのか。例えば僕がキティちゃんやスヌーピーをまったくかわいいと思わないのと同じで、「かわいさ」のツボが個人個人で違うのだろう。でもそれがゲシュタルト心理学で説明できるものなのか、先天的なものなのか、後天的なものなのかについてはわからない。
が、映像の造形が観客の受容に影響を及ぼすということの好例にはなるだろう。例えば昨日(8月26日)『ダーク・ナイト』を観てきたのだが、マギー・ギレンホールが個人的にはきれいだと思えないので、どうしてもこの映画の恋愛のプロットに乗っていけなかった。同様のことは『スパイダーマン』のMJ(クリスティン・ダンスト)にもいえるのだが。
…などと小難しいことを言いながら、恒例の評価であるが、80ポニョ。たぶん子供ができたらDVDを購入するだろう。






















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