思えば遠くへ来たもんだ

ただいま深夜1時少し前です。

今僕は義弟の結婚式に参加するために福岡は海の中道公園にあるリゾートホテル兼結婚式場に来ています。

窓の外には真っ青なプールとウッドデッキ、そこにドミノのようにずらりと並べられたデッキチェアと折り畳まれたパラソル(モエ・エ・シャンドンのロゴ入り)が見えます。

その向こうには闇に沈んだ湾があり、水平線の位置に埋立地の工場の明かりがオレンジ色に霞んでいます。そこから少し上方には巨大クレーンの頂点を示す警告灯が瞬いています。

部屋の中では奥さんと娘が深い眠りに沈んでいます。

娘はベビーベッドの中で周期的に体をひねり、そのせいで反時計周りに回転し、今8時くらいの位置に頭を向けています。

奥さんは奥さんで、いざという時に、自分のベッドの足元の位置にあるベビーベッドの中の、まだ二ヶ月半の娘の様子がすぐに見られるように、ベッドを逆方向に使って仮眠を取っています。

そんな中、僕だけが寝付けずに起きています。ホテル全体が静まり返っており、何だか不思議な時間です。

とか言っているうちに、もうすぐに娘が目覚めそうなんだな。長旅の疲れとはいえ、かれこれ連続6時間半寝ているから。

娘が起きたらまたお世話をして、それから寝たいと思います。せっかくだから日の出の頃に起きて、海の向こうの朝日を見たいと思ったけど、無理っぽいです。

それでも明日は親子三人で海辺を散歩しよう。

なんて生活にいつの間にか慣れている。思えば遠くへ来たもんだ。

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知らないということ

「教える」という仕事をしていると、「知らない」ということは資源である。相手が何かを「知らない」からこそ「教え」られるのであり、全てを「知」っていれば「教える」仕事は成り立たない。

いわば、理科は詳しくないけれど、電池の陰極と陽極のように、欠損があることが循環を生み出すのである。

だから、たとえ教え子がジョン・ウェインを知らなくても、『グラン・トリノ』のパンフレット表紙を指差して「クリント・イーストウッドってこの人ですか」と尋ねてきても、悲嘆に暮れる必要はないのだ。「『プリティ・ウーマン』の時には生まれてませんでした」と言われても、「ベルリンの壁崩壊?知識としては知ってます」と言われても、嘆き悲しまなくてよいのだ。

「知らない」と言えば、今もっとも身近なところに、もっとも「知らない」人がいる。我が家のポニョである。

彼女はまだまだほんとに何にも「知らない」わけだから、これから全部「教え」てやらないといけない。そのことは、当たり前だとわかっていても、時に父を驚かせる。

例えば「桃太郎」すら知らないのだ。そのうち語って聞かせてあげないといけないのだ。なんてことだ。

でも…そういえば自分の時はどうだったかと思い出して見るに、初めて「桃太郎」を理解した時にどうだったか、どんなふうに感じたか、ちっとも記憶が定かでない。物心ついた頃には、人間世界のやり取りのための一通りの道具のひとつとして、「桃太郎」も知っていた気がする。

だから、そのお話に何らかの感想を持ったかと言うと、もっと覚束ない。蓋し感想などというものは、相対的な評価の基準がなければ成立しないものだ。昔話というものを何も知らないところに「桃太郎」を一つだけぽつーんと渡されても、「ふーん」と思うのが関の山で何とも言いようがないわけだ。「そうなんだ〜。犬と猿とキジだったんだ〜。」これが限界だ。

そんなことを考えるにつけ、我が家のポニョがこれからまた「ふーん。そうなんだ〜」と思うかと思うと…何かしら不思議でしかたない。

なんというか…巨大な工場の製品のひとつひとつにぬかりなく同じ部品が取り付けられるイメージを想起してしまうのだ。この巨大にして精密なシステムの壮大さには、やはり畏怖を感じずにいられない。

アルチュセールさんが「国家のイデオロギー装置」と名付けたのは、これのことかしらん。

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不思議な兄弟その(3)

で、つい昨日のこと。

この日僕は少し朝が遅い日で、10時頃にまだ家にいた。

そしたら、一階玄関のオートロック前から(つまりキッチン壁面のインターホンから)「ピンポ〜ン」と呼び出す音がする。

何だろう、と思いつつモニターを見ると、そこに例のお兄ちゃんが、かろうじて頭から顎の辺りだけ写っていた。

僕はびっくりして、なんとなく通話をためらい、そのまま彼の動向をモニター越しに見ていた。

すると彼は、画面左奥にある玄関ホールのドアを注視している。

どうやら、またもや僕に開けて欲しいらしいのだ。

しかしそうは言っても、先日と同じ理由で、開けてあげるのはためらわれた。

そうこうしているうちに、一定の時間が過ぎ、モニターの映像は消えた。

…話は今のところここまでである。何せ昨日の話だ。

しかしそれにしても…何なんだお兄ちゃん。どうして僕を見込んだんだ。初対面の時といい…今回といい…。

そもそも今回は、何故うちの部屋番号を呼び出したのかが気になる。

初対面の時のことを覚えていて、部屋番号も分かっていて押したのか(僕が彼くらいの時はそのくらいの知恵はあった気がする)、それとも家が同じ階だから間違えたのか、誰でもいいから開けてほしくて順番に部屋番号を押していたのか。

いずれにせよ、いつも会う度に何か気になる兄弟なのである。

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不思議な兄弟その(2)

その兄弟にはまた別の日に会った。今度ははじめからお母さんらしき人物といっしょだ。

まだ朝早い時間だったが、僕は一階の集合ポストで新聞を取って部屋に戻るところで、その親子は出掛けるところのようだった。

お兄ちゃんがすれ違いざまに

「こんにちは」

といったので、時間帯的には微妙だなと思いつつも僕も

「こんにちは」

と返した。すると後ろからついてきたお母さんが

「おはようございます」

という。そこで僕も

「おはようございます」

と返した。なんだか間抜けな挨拶になったな、と思っていたら、お兄ちゃんの方が遠ざかる背中越しに

「そうか、おはようございますと言えばいいのか」

と言うのが聞こえた。先日の件といい、なかなか言葉が達者なお子さんだ。

その二人の後ろを、さらに弟くんがついていく。

僕はその時ふと気になって彼の足元を見た。

やっぱり裸足だった。

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不思議な兄弟

不思議な話をもうひとつ。

先日、朝1時限から授業がある日のこと。僕は少し出る準備に手間取り、遅刻しそうだった。

慌てて玄関のドアを開けると、そこに松本大洋の漫画に出てきそうな兄弟が立っていた。

お兄ちゃんの方は五歳くらい、幼稚園に行くようなかっこうをして、帽子をかぶって、かばんを襷掛けにしている。

が、何故か手荷物が変わっていて、「熊本メロン」と書かれたメロンの箱を持っている。

弟の方は二歳くらい、丸坊主が伸びた髪形をしていて、しかも何故かこっちは裸足だ。

その兄弟が、ドアを開けたところに道祖神のように立っていて、兄の方が開口一番こういう。

「すみませんが、しばらくこの子(弟)を抱っこしててもらえますか?」

朝一番に、その日はじめて他人と交わす会話で、これほど面食らうものもない(だいたい「ちょっと」っていつまでだ)。そんなわけで僕は

「え、あ、えっと…僕ちょっと急ぐんだよね」

などとしどろもどろになりながら、兄弟を気遣いつつ、ちょっとずつエレベーターホールに移動した。

そしたらその兄弟もついてきて

「すみませんがこの(エレベーターの)ドアを開けてください」

と兄が言う。そんなこと言われても、もしエレベーターを呼んで、この子達がいっしょに乗り込んできて、地上にいっしょに降りちゃったりして、それで保護者とはぐれたりしちゃったら大変だ。

しかし逡巡している間にも時間は過ぎていく。

いよいよ兄弟を連れて降りようかと思った頃、同じ階の廊下の遠くの方からお母さんらしき人物が接近してきた。

彼女がエレベーターホールに辿り着いたところで一安心、これで一件落着とエレベーターを呼び、四人で乗り込んだ。

しかしその後がまた奇妙なのだ。

お母さんはこのどさくさに対して一言のコメントもなく、静かにエレベーターに乗っている。しかも下の子を裸足で立たせたままで、抱き上げもしないのだ。

僕はそれを見て「不潔だし危険だな」と思ったが、他所様の家庭にあまり差し出がましい口を利くのも憚られたので黙っていた。

で、その日はそのまま、エレベーターを降りてしまい、もう他に語るべきことは起こらなかった。僕だって仕事に遅刻するわけには行かないので、駅への道を急いだのだ。

(つづく)

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帰還

1214529173_246気がつけば、いや自分でもわかっていたんだけれど、約二ヶ月間このブログを放置していました。

その理由はというと、何せ忙しかったのです。

誇張ではなく、この3ヶ月間というもの、寝ている時間(たぶん、一般人の平均より睡眠時間は長いけれど)以外は常に何か「仕事」をしている、という状態で、これは僕みたいな、もとがマイペースかつ牧歌的な人間には、とってもきついことでした。

僕は、できれば毎日笛を吹いたり羊と遊んだり、歌を歌ったり釣りをしたりして過ごしたい、そしてできればきれいな夕焼け雲や砂浜の貝殻や木々の梢の葉のかたちを、まるで初めてこの世界で出会った美のように、はっという驚きをもって愛でつつ暮らしていきたい、という「走れメロス」かムーミン谷のスナフキンみたいな人間なのです。

それがこの3ヶ月というもの、人が違ったように働いています。いやはやまったく、とんでもないことだ。「若い頃に無駄に過ごした時間が、人生で唯一の自由であるかもしれない」という名言がありますが、何となくこの言葉の重みが理解できる今日この頃です。

しかしこれから先、直ちにこのワーカホリックなスタイルを改善できそうな見込みもないので、これと折り合いをつけていかなければならないんだろう。ひとかどの人間になりたい、とは思わなくても、せめて人並みでいたい、と思ったら引き受けなくてはならないことなんだろう。

…などと繰言を言っても仕方ないので話題を変えて。

この忙しさの中で、父親になりました。

6月7日、晴れ渡る五月晴れ(6月だけど)の日に、娘を授かりました。

これは、当然のことながら、僕の人生観というか世界観にとって大きな衝撃で、彼女の存在は、その誕生の直後から、我が目で眺める世界の意味合いを完全に変えてしまいました。

この、まずまずありきたりな人間に起こったまずまずありきたりな事件が、これもまたありきたりな感じで当事者に及ぼすインパクトというものが、ありきたりであるがゆえにそれだけいっそうものすごすぎて、それがしばらく日記に向かえなかった理由でもあります。

このありきたりな衝撃をどう伝えればいいのか、うまく表す言葉がないのですが、それでもよく覚えていることを書いておきたいと思います(きっとそれもありきたりな文章になるだろうけど)。

6月7日、朝方に娘が生まれて、僕と奥さんは産院の個室に帰ってきて、まだ娘は新生児室にいるので、仮眠をとろうとしていたときのことでした。

この日の空は、先ほども書いたように清々しく晴れていて、部屋の窓からは故郷の田んぼの青々とした苗が一面に広がり、それが風に波打つのが見えました。窓を網戸にすると、その田んぼの上を吹き渡った風は、僕らのいる部屋の中にも入ってきました。

そこで僕は部屋のソファー・ベッドに寝っ転がって、エアコンなんかつけずに、このなじみのある、故郷の町の春の風に吹かれながら、仮眠を取ろうと思いました。

そのとき、その風が、においや湿度までよく知っているはずの風が、今までとは全く違ったように感じ、僕はびっくりしました。

これまで、僕と奥さんは、春秋の気候のいい時期には、よく連れ立って公園にピクニックに出かけてきました。そこでこの日のような春の風を感じると、なぜかしら懐かしく感じたものです。つまり春や秋の好天は、自分史の中の、そしてたぶん幼い頃の、同じような好き日の記憶を思い起こさせる「よすが」というか、ノスタルジーをかき立てる記念品のような機能を担ってきたのだと思います。そしてそのノスタルジーには、もう遠い日に帰ることはできないんだ、という諦念がつねにない交ぜになってもいました。

それがこの日の風の感じ方は、全く違っていました。今までのように郷愁の念を誘うものではなく、今この瞬間のための全く新しいもの、まだこの風についてよく知らない、生まれたばかりの娘の、今この日のために吹いているんだなあ、というように感じられたのです。

この感覚の違いは圧倒的で、単純な都並をある意味うちのめしました。

「ああ、これから毎日見聞きする全てが、すでに素性を知り尽くした陳腐なものであるにもかかわらず、まったく新しい感覚を伴ってやってくるんだ。…なんてことだ、あの退屈で垢抜けないショッピング・モールさえ、新鮮味をもって見られるに違いない」

この感覚に含まれていたのは、ある意味畏怖とでもいうべき感覚でした。

ブログを更新しないうちに僕自身はまたひとつ歳をとり、村上春樹の短編で「人生の折り返し地点」と言われる35歳になったわけですが、35年間かけてやってきたことを、またいちからはじめるルーキーが誕生して、なんだか巨大な運動場のトラックを一周して戻ってきたような気持ちになりました。一周してきたところで、その新しいランナーと併走することになったわけです。

この新しいランナー、まだ足取りも覚束ないのですが、この選手と併走していくのが取り急ぎ僕の使命なんだなあ、とそんなふうに感じた、6月の朝でした。

以上、まずまずありきたりな人間に起こったまずまずありきたりな事件がもたらした、まずまずありきたりな衝撃について書いてみました。まあしょうがないよ。ありきたりなところから非凡な結果が出てくるわけがないよ。

追記:娘のブログ・ネームですが、僕が鰤彦、奥さんが鰆、なので、悩んだのですが(魚偏の名前は世田谷区の長谷川さんにたくさん使われていることもあり)、「めろちゃん」にします。別名銀むつ、西京焼にするとおいしい魚です。

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二足目のデッキシューズ/靴との戦い

Sbsh01021 自分でもばかみたいだと思うんだけど、二足目のデッキシューズを買ってしまった。

一足目は昨年のちょうど今頃、原宿のキャットストリートなる名所に詣でたときに購入したトップサイダーのデッキシューズ。

で、二足目はパラブーツの茶色である。

他の人はどうか知らないけど、個人的に仕事用の革靴は春・夏用の茶と黒、秋・冬用の茶と黒(ブーツ)と四足あればいい、と思っていて、このうち「春夏・茶」が欠番中だったので購入を決意したのだった。

どうにも、各種媒体や店頭商品を見ていると「この夏はマリンが正解!」みたいなことになっていて、男子の足元はデッキシューズがずいぶんと煽られており、そこに乗っていくことに多少抵抗感もないではなかった。だって僕の日常の活動範囲に海なんてないのだ。埼玉県も群馬県も栃木県も長野県も海なんてないじゃないか。僕がふだんの生活で見る海はディズニーシーだけだ。こういう時に、日本のファッション業界の中央集権っぷりを如実に感じる。きっと、ミニスカートが流行ったときの北日本の女子とか、ダウンジャケットが着たい沖縄の男子も同様の辛い思いをしただろう。

などと小理屈をこねつつも、この白い紐とソールの使い方がかわいかったので、そこはあっさりと軍門に下ることにした。

が、このデッキシューズ、右足の革と僕の歩き方が合わないらしく、最初数日間は右足小指に食い込んでめっぽう痛かった。

それをがまんしてがまんして履いているうちに、ようやく革のほうが諦めたのか、ある日ふと気がつくとすっかり柔軟な姿勢に変化していた。いまや、かつての戦いはなんだったんだというくらいの蜜月期が訪れている。

こういうことはしかし、僕の場合よくあることで、先月リーガルのアウトレットで買った黒いプレーントウも同じように足に食い込んで、それは熾烈な戦争の日々が続いた。

僕はこういう痛い時期を「靴との戦い」と称しており、それは新品の購入時には必ずあるものとして諦めているのだけれど、他の皆さんはどうなんだろう。

オールデンとかジョン・ロブとか、僕の薄給ではとても買えないけれど、高級紳士靴を買えばこんな無益な戦いをしなくて済むのだろうか。

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レビュー:『グラン・トリノ』(ネタバレ注意)

休日を利用して映画に出かけた。オスカー総なめの話題作『スラムドッグ$ミリオネア』を観るためだ。

ところがさすがは話題作、少し時間に余裕を持って出かけたにもかかわらず、チケットカウンターの前に立った時にはもう、直後の回は残席僅少だった。

あんまり変な席ではつまらないのでもうひとつ後の回にした。そうしたらど真ん中の席が取れた。

と、そこまではよかったが、今度は映画までの時間がへんにできてしまった。そこでカウンターのお姉さんに聞くと、すぐ後の『グラン・トリノ』が、観る予定の回の『スラムドッグ$ミリオネア』の30分前に終わるという。

ということで急遽こちらも観ることにした。クリント・イーストウッドのファンには怒られてしまうような不純な動機だ。

でも、自己弁護をするようだが、この映画は、いかにイーストウッドの俳優としての最後の作品とはいえ、いささか地味に過ぎないだろうか。

御年80近いイーストウッドを除けば、一切スター俳優もおらず、物語の方もデトロイトの荒廃した住宅街に巣くうアジア系ギャングの話で、プロダクション・バリューを上げそうなものが何もない。

このことを反映しているかのように、開演時間が迫っていたにもかかわらず、こちらの方のチケットはまだ中央あたりも充分に残っていた(にもかかわらずいざ席に着くと、僕の左は杉作J太郎かパラダイス山元さんみたいな巨漢で、右はハワイとゴルフを愛する三遊亭楽太郎師匠みたいなおじさんで、その二人がしかもクライマックス近くでどちらも嗚咽し始めたので、こちらとしては相当に息苦しかったんだけど、それはまた別の話)。

しかしまあ、見方を変えればこの作品は、全くマーケティングを度外視した、市場も何もないところに球を放った作品といえなくもないわけで、そういう意味ではイーストウッドのインディペンデント精神には感嘆する。

たぶんイーストウッド御大も、アンジェリーナ・ジョリーを主演に据えた前作で、プロダクション・デザインも時代考証をしっかりした、いわばコース料理のような贅沢な作品を作った後だったので、本作品では自覚的に、手打ち蕎麦のようなストイックな作品を目指したのだろう。

ではその目論みは成功していたのかどうか。

私見では、三打数二安打というところだろうか。

安打の方から言うと、なんといってもイーストウッドが見た「アメリカの現在と来歴」がリアルに、明確に表出されているのはさすがである。

まずは『デスパレートな妻たち』なんかに見られるような、白人中心の(ヒスパニックもいるけど)コミュニティとしてのクリーンなサバービアでなく、白人住人が脱出した後にマイノリティの有色人種が住み着いた、荒廃した住宅街(こういう事態はアメリカの都市部では散見される)を大画面に登場させたことは功績に挙げられるだろう。

また自身のキャラクターを朝鮮戦争の退役軍人に設定しただけでなく、交流を重ねるアジア系を、アメリカのベトナム戦争への加担によって亡命せざるを得なくなったモン族に設定しているあたり(これは脚本家の功績だろうが)、「戦争」というアメリカ現代史を語る上で外せないポイントへの言及が明確である。

或いは同様に自身のキャラクターをフォードの熟練工に設定した上で、意志疎通の叶わない息子をセールスマンに設定するあたり、ものづくり・実体経済を離れて空疎な金融資本主義に走ってしまったアメリカをわかりやすく批評しているように見える。

(そういう意味では、『チェンジリング』と本作品に共通する、宗教に対する曖昧な評価も気になる)

こういった「アメリカの今」を明解に凝縮する手つきはさすがの職人芸だ。

二打めは、この「アメリカの今」に至る「過去」をしょった頑固な老人と、モン族の若者との心の交流を描くその手腕である。下手をすれば甘ったるいセンチメンタリズムに堕してしまうこの物語を、イーストウッドはきわめて的確なテンポと強度で描き切っている。その説得力にはうならされる。

しかも、パンフレット(イーストウッドのフィルモグラフィなど充実したお買い得な一冊である)で蓮實重彦氏が指摘しているように、イーストウッドはこの繊細な仕事を、自身が熱意を注いでいる伴奏音楽の助けをほとんど借りずに、やってのけている。これは、例えるならつなぎなしの十割蕎麦のような見事さだ。この点、やたらと音楽を使うわりに全く感情を動かされない『少林少○』のスタッフには血眼で勉強してもらいたい。

…と褒めておいて、最後にイーストウッドの三振についても書いておきたい。

前にも『チェンジリング』のレビューで書いたけれど、イーストウッドの好みはやっぱり、ありていな、陳腐なメロドラマとすれすれなところにあると思う。今回その思いを強くした。

どういうところにそれが現れていたかと言うと、例えばイーストウッドの喀血とか、モン族の少女が襲われた後の腫れ上がった顔とか脚を流れる血とか、その後のキッチンで暴れる演技とか、ところどころでいかにも俗っぽい演出が成されているのだ。

確かに喀血なんかは、イーストウッドが死期を悟る「気づき」の場面として必要なのはわかるけど、それにしてももっと手垢のついていない、新鮮かつ心に刺さるリアルな演出がなかったものかと思う。

登場人物にしても、ギャングスタたちの平板で単純な悪役っぷりは、まるであだち充の漫画の脇役たちを見ているかのようだ。

このあたり例えば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のラストシーンのような、説明は付かないけれどリアルな人間くささを感じさせるような、そういう斬新さがあってもよかったと思うのだ。

ここで指摘している場面の多くは映画の核心に関わる場面であることを考えると、よけいに惜しかった気がする。やっぱりイーストウッドの好みは、よくも悪くも古典的なんだろうか。

…というところで、書きたいことは書いてしまったので、最後に一言言っておくと、うちの学生はイーストウッドを知らなかった(!)。

パンフレットを見せたら、彼の写真を指差して「この人がクリント・イーストウッドですか」と言い放った。その時に「最近の若い者は」と、この映画のイーストウッドと同じ気分になった(というのは冗談だが、ついでに言うとこの「最近の若者は」という忿懣やる方ない気分は映画の冒頭に満ちており、この気分にどれくらいの強度でアイデンティファイ出来るかが、クライマックスでの「あれだけ憤慨していた若者のために死ぬなんて」という感動の強度に繋がるのかもしれない。だから、僕の両隣のJ太郎と楽太郎は、それだけ日常に憤ることが多いんだろうなと思った)。

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おろし金の洗い方

前から気になっているんだけど…みんなどうやっておろし金を洗っているんだろう。

スポンジと洗剤だとひっかかってボロボロになるし、といってそれだけのために束子を用意するのも何だし。

うちのキッチンにも束子はあるけど、もっぱらシンクや三角コーナーを洗うためのものだからそれで食器の類は洗いたくないし。

といいつつ、何をおろしても流水でさっと流すとそれだけでかなりきれいになってしまうところがおろし金のつかみきれないところだ。

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心機一転

なんだかんだでもう四月も半ばにならんとしている。気がつけば三月は三回しか日記を書けなかった。

ということで、全くの無内容だけれど、忙中閑ありで思いがけず時間ができたので、新年度の区切りの思いを込めて、とりあえず記事を記す。

やっぱり普通の働き盛りの(そうでもないけど)社会人にとって、このブログという装置を維持していくことは難しいんじゃないだろうか。それが生業になっている人はおいといて。

ともあれ、また新しい年度の始まりである。

今年はこれまでにない激動の年になるはずである。というのも、僕と奥さんにとってライフワークとなるべき一大プロジェクトがついに始動するからだ。

ついでにいうと、現在奥さんはその準備のために実家に帰っていて、都並はここ北関東で三年ぶりの独り暮らしをしているところである。しばらくは関西と関東の二重生活になる予定で、身体的にはきついかもしれないけど、刺激的な毎日が送れそうだとも期待している。

そのためには、なんだか心身のリフレッシュが足りない気もするんだけど、とにかく待ったなしである。さあはじめよう。四月をまたはじめよう。

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80sとおじさんのモード

ちょっと私事でばたばたとしていて一週間ほど更新ができなかった(しかしまあ、いろいろと実りの多い一週間だった)。

といいつつ、今もその「ばたばた」は続いているんだけど、あまり込み入ったことを書いてもしかたないし、このブログは基本的に軽いことを書くために作ったつもりでいるので、今日もどうでもいいことを書く。

ということで最近気になるのは、「ファッションのモードとしての1980sリヴァイバルは本当の高まりを迎えるか」ということである。

本当にどうでもいいですね。

いや、見方によってはことは深刻である。1970年代に生まれ、80年代に穢れもないままに少年から大人に変わる道を探していた人間にとっては、1980年代とは、それはそれは思い出したくもない恥ずかしい時代のはずだ。

例えば、デュランデュラン。

例えば、安全地帯。

例えば、度を越した肩パット。『セント・エルモス・ファイヤー』のデミ・ムーアの部屋着のピンクのシルクのガウンにまでつけられた、度を越した肩パット。

ケミカル・ウォッシュのスリム・ジーンズや、英字新聞のプリントシャツや、ブルース・ブラザーズみたいなサングラスはいうまでもない。

そんなものが再び流行るのだろうか。

どうもその手の雑誌や店頭の商品を見るにつけ、文化的焼畑農業が、そろそろ1980年代に刈り取った土地を再活用しようとしていることはわかるのだけれど、そして街中にもそういうファッションをてらいもなく身にまとっている若者が散見されるようになったのも事実だけれど、それを我々30代の人間は落ち着いて受け入れられるのだろうか。

100歩譲って、ビースティ・ボーイズとかワイルド・バンチみたいなヒップホップ路線の1980sというか、あのミクスチャー具合なら受け入れられなくもないけれど(それはリアルタイムの1980年代日本の大方の若者にとっては通過してきていない世界だろうからだ)、もしニューロマが再燃したりしたら僕ら30代のおじさんはどんな顔をして若者を見ればいいのだろうか。

とはいうものの、僕自身の個人的記憶で言うと、かつて同様に70sや60sのリヴァイバルがあったのは今よりずっと前のことで、1990年代中頃に一度70sブームみたいなものをファッション誌が仕掛けようとしていたのは記憶している。

そこでその間隔を計算してみると、90-70=20年、ということは、2009年の今、80sブームはとっくに来ていておかしくないはずだ。

それが未だに来ていないように思われるのはどうしてだろうか。

ひとつには、僕ら30代が未だ若者のふりを続けていて、そういったファッションへの拒否反応を示している、ということが考えられる。かつてミュージシャンのベックが

「いまや誰もが無理を承知で30代を若者の領域に入れようとしている。若者だけが全てを成し遂げられる、という思想がそこにはあるからだ。でもそんな文化はさっさと捨てた方がいい。じゃないと40代に突入したときに急にがくんと落ち込むことになるよ。40代になったらもうおしまいだって」

といった趣旨のことを話していたのはおそらく90年代の終わり頃だったと記憶しているけれど、ベックが憂慮していた傾向は、歯止めがかかるどころかいっそう拍車がかかってさえいる。

何せ、40代になったらおしまい、なんかじゃちっともなくて、「アラフォー」という珍妙な言葉で気分をごまかし、なんだったら40代も若者の仲間に入れる、というせこい裏技を駆使してさえいるからだ(実際は単に区切りを五年ずらしただけなのに)。

だから、たぶんアラサー、アラフォーの目の黒いうちは、なかなか1980sリヴァイバルは定着しない、ということが起こりうるかもしれない。

次に考えられるのは、景気の問題である。1980sというのは、ファッションの発信地はアメリカで、そのアメリカは当時、レーガノミックスという格差拡大を前提にした好景気の真っ只中にあった。その好景気の油断した気分を反映していたのが1980sのファッションだったとしたら、現代社会が経験している世界的な金融不安の中で1980sファッションがリヴァイバルすることは、単なるアイロニーか現実逃避でしかないだろう。

最後の理由としては、もう我々の服飾文化がとっくの昔にディケイドごとの焼畑農業を止めているということ、さらには、若者の服飾文化が多様化し、かつてのように一元化しえない状態にあるということ、が考えられると思う。

いや最後のは今思いついた戯言だけれど、逆に、30代真っ只中を生きてみてしみじみ思うのは、もうそろそろ10代20代との区切りをいろんな意味でしっかりつけたほうがいいんじゃないか、ということだ。先日書店で見かけた男性ファッション誌には「20代から40代まで読める」みたいなコピーが堂々と謳ってあってびっくりしたけれど、どうして20代の筋力があるけれど資金力がない、だけど贅肉もない人たちと、40代のおじさんがおんなじ服を着なきゃいけないんだろう。

どうして勝俣洲和はいつまでも半ズボンを穿かなきゃいけないんだろう。

いっそ、「30代の我々はもうシャツを必ずパンツにインにします。でもパンツをブーツにインしません」とか「ジャムをコンフィチュールと呼んだり、チョコレートのちっちゃいのをボンボン・ショコラと呼んだりしません。あ、でも40代じゃないのでパスタをスパゲッティとは呼びません」とか、「30代の領域」みたいなものをきっちりと作ったらどうだろう。

そして、30歳になったらみんな「もう僕は30なんだ。シャツをインにしなきゃ。パンツのすそをブーツから出さなきゃ。えへん。どうだ30歳だぞ」っていう気分になるとか、そういうふうにしたらどうだろう。

でもって、その30代の領域からは1980sは永遠に締め出しておくんだ。ハイカットのバッシュを穿いていたら「スパイ」としてマークされる、くらいのことにして、つかまったら拷問でクレイジー・パターンのシャツにスリム・ジーンズを穿かされる、とか。

…などと考えること自体が保守化というか、おじさん化の顕れなんだろうな。

じゃあ、無事に若者文化から抜け出せているということだ。よかったよかった。安心してバッシュを買いに行こう。

追記:ここまで書いてみて気がついたけれど、『LEON』という雑誌が作ろうとしていた「チョイ悪オヤジ」とか「コヤジ」っていうカテゴリーって、こういった発想だったのかもしれないですね。

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レビュー:『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2)(ネタバレ注意)

(1)からの続き

(1)に書いたように、僕個人はこの映画の全体に漂う詩情(と、それと背中合わせの諦念)が好きだし、標準以上の上映時間もここちよく味わった。

しかし、冷静に分析すればこの映画は、脚本家エリック・ロスの出世作、『フォレスト・ガンプ 一期一会』とうりふたつだ。それも単純に、「一人の女性を愛し続ける男性主人公の一生を、アメリカの現代史を織り込みつつ描く」という全体の趣向が似通っているだけでなく、物語の細部において酷似しているのだ。そういう意味ではこの二つの作品は、ほとんど同工異曲といっていい(だから『フォレスト・ガンプ』に『一期一会』なんてけったいな副題をつけるんだったら、『ベンジャミン・バトン』は『諸行無常』とでもしたらよかったと思う)。

具体的にどういう点が似ているかを以下に挙げよう。

・主人公の両親は健在ではない

・主人公は幼少期に足が不自由であり、そのことが何らかのかたちでステージ・パフォーマンスと関係する(エルビスと神父)

・主人公に新しい世界を教える(やや人種差別的な人物造型の)黒人の友人が登場する

・主人公は船に乗る

・○長(隊長/船長)といういささかぶっきらぼうな人物と奇妙な上下関係(友情)を結ぶ

・愛国的でも否定的でもないかたちで戦争に参加し、知らず英雄的功績を挙げる

・主人公は共産主義国家(中国とソ連)に渡る

・鳥(の羽根)が象徴的に用いられる

・主人公は棚ぼた的に資産を手に入れるので汗水垂らして働かなくてもよい

今思い付くのはこれくらいだけれど、探せばもっと見つかるだろう。これくらい似ていると、もはやエリック・ロスの作劇術の手札の少なさを感じてしまうくらいだ。

にもかかわらず、僕はこの映画を全く別のものとして楽しんだ。それはなぜかと考えるに、フォレストがいわば成熟を拒否したピーター・パンだったのに対し、ベンジャミンは生れつき老成した異邦人だからだろう。作家論的な言い方をすれば、ここにエリック・ロスの成熟を見ることができるかもしれない。

しかし唯一気になるのは、ベンジャミンが父親になることを諦めて、あたかもデイジーの子供のようにして死んでいったことだ。

僕はどうしてもここに脚本家のsexismを見てしまう。『フォレスト・ガンプ』でもヒロインの扱いの酷さは気になった(研究者にもそれを指摘している人がいる)が、今度は、ある程度は設定からしてやむを得ないこととはいえ、男性主人公にいささかマザコン的な退行が見られることは否定できまい。

そういえば、パートナーのアンジェリーナ・ジョリーは『チェンジリング』でシングル・マザーだった。その彼女は劇中、息子に「なぜお父さんがいないの」と聞かれて、

「あなたが生まれた日にお父さんのもとに小さな箱が届いたの。その中には『責任』が入っていた。お父さんはそれが怖くて逃げてしまったの」

というようなことを答えていた。

責任を回避して逃げる父親、それはまさにベンジャミン・バトンに外ならない。そんなところで呼応しなくても。

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レビュー:『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(1)(ネタバレ注意)

初めに全体的な感想を述べておくと、これは素敵な映画だった。事前に「バラエティ」のトッド・マッカーシーのレビューを読んでいて、感情的に冷たいところのある映画だというので、あまり期待せずに、それでも一歩引いた視点から論理的に話の筋を追う作業が楽しめればよいか、と思って観に行ったのだけれど、ところがどうして感情的にも密度と厚みのある優れた映画だった。

ただ、その感情表現がきわめて抑制が効いているために、観る人によっては少しよそよそしい感じを与えるのだろう。例えば僕は、主演の二人、ブラット・ピットとケイト・ブランシェット(ほんとに上手な女優さんだと思う。『アイム・ノット・ゼア』と『インディ・ジョーンズ』はどうかと思ったけど)が泣いている演技を見た記憶がない。深い愛情や悲哀といった感情を泣かずに伝える、そういう演技をしているのだ(泣いている場面があったらごめんなさい)。

しかし僕個人の好みとしては、絶叫し号泣するアンジェリーナとともに感情的に力強く揺さぶられる『チェンジリング』よりも、こちらの方が断然好きだ。DVDが出たら購入して、人生の折々に見返したいとさえ思った。とかくこの業界はオープニングの週末の興行成績ばかりが取り沙汰されがちだけれど、DVDが定着し個人が書籍のように「映画を所有する」ことがふつうになった現代、そういう鑑賞に耐える息の長い作品を、作る方も観る方も重視した方がよいのではないか、とそんなことまで思った。

そう思った理由のひとつは、やはり主題の違いだろう。『チェンジリング』のアンジェリーナは社会に闘いを挑み、自ら運命を切り開き希望を手に入れるが、この映画のブラット・ピットは初めから、生まれた時から運命を受け入れている。彼の前に立ちはだかるのは、同じ人間の集合体である社会ではなく、人知を超えた力であり、闘いを挑みようのないものだからだ。

それゆえに彼は、周囲の世界に対して距離を置いて生きている。英語でいうところのdetachedという状態である。このことは、上に述べたような抑制された演技と呼応関係にある。

こういった主題が僕の性に合っているのだろう、なんだか春の宵のような、幸福感と切なさを同時に味わった。上映時間はやや長いが、良質のアメリカ文学を読むような充実した時間を過ごした。

(2)では脚本家エリック・ロスの功績を、彼の出世作にしてこの映画と双生児的な類似を見せる『フォレスト・ガンプ/一期一会』との対比で論じようと思います。

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30年前

今日は久しぶりに何の予定もないオフ。奥さんの家事を手伝いながら、見るともなくびわ湖毎日マラソンを見ていた。

今でこそこの北関東の地で武者修行をしているけれど、滋賀県は故郷でもあり、なかでもマラソンのコースとなっている大津・草津の湖岸一帯は、3歳から7歳と16歳から18歳という、ある意味で人間の人格形成に最も重要な二つの時期を過ごした場所なので、ひときわ思い入れが深い。テレビの中でランナーの背中に流れる風景は、ほとんどすべて自分の足で歩いたことのある、まさに自分の庭のように身体が熟知した風景だ。もちろん今でも年に数日は、奥さんとともに里帰りをしている。それもあって、見ているとまるで、今自分が住んでいるこのマンションのドアを開けると、テレビの中のあの街に出られるような気がする。

びわ湖毎日マラソン自体も伝統のあるマラソンなので、子供の頃に父親に連れられて、沿道に応援しに行った記憶もある。当時はただ寒いだけで、特に愛着も贔屓もない薄着のランナーたちに紙の小さな旗を振ることの意味が全く分からなかった。これの何が面白いのかと思ったが、父親にはそれなりに「子供たちに珍しいものを見せてやろう」という思いがあったのだろう。幼心にそれだけは理解した。

そんなことを考えながら、勝手知ったる故郷の風景を眼で追っているうち、ランナーたちは7歳まで住んだ家の近所を通りかかった。

ああ、そうそう、そろそろ大きな結婚式場が見えてきて、その北側の細い脇道を50メートルも行けば、かつての我が家だ。

今は小さな駐車場になってしまったけれど、幼い僕と双子の兄とまだ小さかった弟が、今の僕より若い両親と住んでいた我が家だ。今から思うと小さな平屋だったけれども、幼い僕らには何の不満もない快適な住まいだった。

今思い返すとおかしいのは、僕と兄は二人とも、我が家の住所を番地まで暗記していたことである。好奇心旺盛にして注意力散漫な僕らが迷子になっても帰ってこれるように、学校にも上がらない僕らに、親が暗記させたのだ。

このことはおかしいけれど同時に、何だか気持ちを温めてくれる。小さな家屋に、若い両親と小さな兄弟がこぢんまりと暮らしていて、親は子供がどんなときでもこのささやかな基地に帰ってこれるように、住所を教え込んでいたのだ。

僕らは帰ってきてほしいと、いなくならないでほしいと、思われていたのだ。これは、ごく普通の親がごく普通に思うことかも知れないけれど、よく考えると嬉しいことだ。

などということを僕は、まるで『東京大学物語』の主人公のように、わずか数秒のうちに考えた。

やがて結婚式場が見えてきて、北側の脇道も視界に入ってきた。

そうそうそう、この道を…と思ったときに、僕の眼に予期せぬものが飛び込んできた。

「○○医院」

それは、幼い僕や兄が体調を崩したときに、母親に連れられて何度も通った開業医の看板だった。

まだやってるんだ。あのお医者さん(母は敬意と親しみを込めて苗字をさんづけで呼んでいたが、これは母方の祖母の家の習慣だった。○○さんに行ってくる、というように使うのだ)。あそこに通ったのは何年前かな…と算数をし始めてびっくりした。なんと、かれこれ30年も経つではないか。

30年といったらちょっとした歴史である。生き別れになった親子が再び再会し、孤島に流された復讐鬼が仇を討つくらいの時間である。

あれからもうそんな時間が流れたんだなあ…。まさに歳月人を待たず。そして何れの日か是れ帰る年ぞ。

日常生活の中で思わぬ驚異に出会った瞬間であった。

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レビュー:『チェンジリング』(ネタバレ注意)

水曜日に思いがけず休みが取れたので、『チェンジリング』を観てきた。

といっても、アンジェリーナ・ジョリーの演技を目当てに行ったわけではない(別にことわるほどのことではないけれど)。僕はどちらかというと、ブランジェリーナご両人の、見るからに製作費が高い感じのスター・ペルソナを積極的には好きではない。お二人とも達者だなあ、とは思うけれど、時にはしつこいなと感じることもある。もちろん、上質の和牛みたいなもので、それだからこそ体が欲する、ということもあるわけだけれど、体質的に常習的に摂取したいとは思わない。

けれども、今回のブランジェリーナは何せ、デイヴィッド・フィンチャーとクリント・イーストウッドの監督作での主演である。この監督であれば、二人の演技以外の部分での「いい仕事」は予め保証されているようなものだ。この二人は、僕の中では「機会があれば映画館で作品を観たい映画監督」フォルダに堂々と鎮座ましましている。だからかねがね観たいと思っていた。

とはいっても、いくらこちらが観たいと思っても、仕事の繁忙期と重なるとなかなか観に行く時間が作れない。とりわけこの北関東の僻地にあってはなおさらである。けれども今回に限っては、両者ともアカデミー賞狙いで公開してきた(※)ので、ちょうど仕事が比較的少ない時期と重なって、観ることができた。いやはや、こういう時にアカデミー賞が年度末に決まるシステムのありがたさを感じる。

※近年、アカデミー賞を狙う作品の多くは、できるだけ遅い時期を狙って公開される。時期が遅いほど審査する会員の印象が強く残るので選考に有利に働くのと、もし受賞でもすれば、そのときまだ映画館でかかっていれば、劇場での収益増が見込めるからだ(逆に、年度内の早い時期の公開作品の場合、DVDリリースをこの時期に合わせてきたりする)。

しかし、いくら時間が都合できたからといって、「水曜日の夜にこの映画を観る」ということに関しては、もう少し事前に慎重になっておけばよかった。ということを劇場に着いたときに思った。

しかも場所は有楽町・日比谷のTOHOシネマズ日劇。

映画館には開場の10分前に着いたのだけれど、その時点ですでに、劇場前のエレヴェーター・ホールには女性客の黒山ができていた。そのうちの大半が、銀ブラを楽しんでいそうなマダムか、丸の内辺りの可処分所得の多そうなOLさんだった。逆に男性客は数えるほどしかいない。

まさに、言葉のいろんな意味で「レディース・デー」になっていたのである。

それはそうだよな。映画の内容からして、もっぱら男性客よりも女性客を集めそうな作品であるのは間違いない。このことを予想していなかった僕がばかでした。

いや、別に女性客ばかりだからといって僕個人は、単に気圧されるというだけで、特に困ることはないんだけれども。

ただ、観る前に予想していた映画の内容に照らしてみると、若干居心地の悪い気持ちがしないこともなかった。つまり、アンジェリーナ・ジョリー演じるシングル・マザーが、母性愛の気高さ、美しさをあふれんばかりに表現していて、それを観た観客席の女性客の皆さんが一様に

「そうよね。やっぱり母は偉大だわ。子供を生み、愛し育てる、という能力は、女性だけに与えられた神様からのプレゼントなのだわ。私もああなりたいわ」

という反応をするとしたら、なんとなく落ち着かないではないか。

こういうものの考え方、つまり、映画(館/産業)が観客を特定の思考の型に押し込んで、製作者の都合のいいように鋳造する、というようなものの考え方を、1970年代の映画理論では「装置理論」と言った。また、映画研究者ではないが、フランスの思想家・哲学者であるルイ・アルチュセールは「イデオロギー装置」という言い方で、同じようなことを言った。

そういう「母性」に関わる「イデオロギー装置」として、『チェンジリング』が働くとしたら、それはなんとも居心地の悪いことだ。少なくとも、このポスト・フェミニズムの時代にあって、手放しで賞賛できるものではない。人によっては、イデオロギー的な反動だとさえ言うだろう。

しかも、監督はクリント・イーストウッドである。僕は『パーフェクト・ワールド』以来、この人の監督としての才能を高く評価しているし(なんかえらそうだけど)、細部まで精度の高い作品を作る人だと思い、新作が出るのを楽しみにしてきた。

けれども1970年代に生まれカウンター・カルチャー世代の両親に育てられた世代の一人としては、心のどこかで、彼の作品に漂う「古臭さ」みたいなものに違和感を感じてもきた。

「古臭さ」というのは、いい意味では良質の古典趣味なのだろうと思う。彼の通過してきた映画史に存在してきた「古き良き映画」を彼自身が血肉化していて、それをいわば新古典主義的(※)に再構築しているのが最近の彼の作風なのかな、と思う。

※話は逸れるけれども、ここ数年のアメリカ映画を観ていると、コーエン兄弟、ショーン・ペン、ポール・トーマス・アンダーソンらの作風が、この新古典主義というか偽古典主義的な作風のひとつの潮流をなしているように思う。

けれどもその古典趣味は、一歩間違うとメロドラマになりかねないすれすれのものであって、すれすれのようでそれを微妙に回避したニュアンスのある物語であるところが、彼の作品の魅力であるわけだけれども、例えば『ミリオンダラー・ベイビー』ではそのような「すれすれ」の危うさを如実に感じた。しかもその傾向には、彼自身が劇中音楽をも手がけるようになって拍車がかけられてきた(メロドラマ=メロディ+ドラマなので)ようにも感じてきた。

だからこそ、この作品が「母性」を主題にした古臭いメロドラマに伍していたらいやだなあ、という危惧を感じながら鑑賞したわけだけれども、結果的にはこの危惧は杞憂に終わったように思う。子供を喪った母親の哀しみと子供を取り戻すための闘志とは、確かにアンジェリーナ・ジョリーの演技によって巧みに、力強く表現されていたけれども、それは決して感傷的なものではなかった。

むしろ、語義矛盾を承知で言うと、アンジェリーナ・ジョリーにはヒラリー・スワンクにも似た「マチズモ」を感じさえした。でも一方で『エイリアン』のシガニー・ウィーバーにはならない物腰の柔らかさもあって、見事な人物造形であったと思う。

付け加えて、「母性」というのはこの映画の主題のようであって実はそうではないのではないか、隠れた主題があるのではないか、という思いが強くした。

その隠れた主題とは「個人主義」である。

映画の中では一貫して、現代アメリカ社会における含意が非常に分かりやすい「腐敗した権力構造」「武力による恐怖政治」が強調される。そしてそれに対して一見無力な個人であるアンジェリーナ・ジョリーが戦いを挑む。

観客はそれを観て決して敵いっこないとはじめは思うのだが、アンジェリーナの意志は次第に周囲の別の個人へ、そして個人の集合体である団体へ、社会へと波及していく。そしてその力がついに体制に打ち勝ったとき、主人公は何がしかの獲得物を得る。この「個人が体制に勝利する過程」こそがこの映画の真の主題なのだろうと思う。

そしてこの「個人主義」の物語は、アメリカ映画史においてはフランク・キャプラ(アカデミー賞の歴史においても、アメリカ映画の戦時プロパガンダにおいても重要な人物である)という映画監督が最も得意としたものでもある。

だからイーストウッドは、映画の終盤で、そしてラスト・カットで、これ見よがしにフランク・キャプラ(の『或る夜の出来事』)に対する言及をしているわけだが(この件は物語の進行上、なくても全くかまわないものだ)、それはこの隠れた主題を明言しようとしているのに他ならないのだ。ま、だから結果的には全然隠れた主題ではないんだけど。

こういう「個人主義」のドラマとして観たとき、この映画はとても楽しめる。腐敗した体制に対する苛立ちや、最終的な勝利の感慨を、主人公とともに感じることができるし、個人の力を再確認することができる。そういう、エモーショナルに観客を乗せていく力は、とても優れた作品である。

もっとも、エモーショナルに観客を乗せていく、ということは、やはりメロドラマの主眼でもあるから、その力を本作品に認めるということは、「母性」が主題ではなかったにせよ、結局イーストウッド作品の「メロドラマすれすれ性」をここでも認めることになる、と言えるのかもしれない。

仮にそう考えてみるとき、別にメロドラマを頭ごなしに否定するわけではないけれど、例えば精神病院という道具の使い方とか、そこでの患者仲間の人物造形とか描写とか、あるいは猟奇殺人犯の死刑の描写とかに、どうも陳腐なものを感じてしまうことも否めないだろう。とするとますます、「すれすれ」の危うさは本作にも顕在であったと言いたくなる。

ただ、先にも述べたように、「すれすれ」でありながらありていなメロドラマに伍することがない、ということがイーストウッド作品のバンジー・ジャンプ的な妙技であるとすれば、今言った事をもう一度ひっくり返して、その「すれすれ」の妙技が今回も冴え渡っていた、と評価するのが正しいような気がする。

もっともそのせいで、映画館を出て行く観客が、「母性」の「イデオロギー装置」に巻き込まれないで済んだことと引き換えではあるにせよ、おなじみのメロドラマのような分かりやすいカタルシスを得られないことによる、ある種のフラストレーションを抱えて出て行くとしても。

追記①:全くノミニーにかすりもしなかったけれども、殺人犯の俳優さんの演技、NYの演劇畑の人だと言うけれど、助演男優賞をあげたいくらいの名演技でした。でも演じたのが非常に不快な人物だからあんまり評価されなかったのかな。

追記②:イーストウッドは、かつて自分が悪徳警官だったことを今はどう思っているのだろうか。

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ところ変われば

Sbsh00461そろそろ移住して二年になる北関東というところは、小麦の生産がさかんなところである。

以前の記事でも紹介したように、冷たい麺をねぎやしいたけや豚肉を入れて煮込んだめんつゆでいただく、この地方独特のスタイルの武蔵野うどん、という料理があって、それはそれで、関西人の思い描くうどんとはかなり違うけれども、けっこういける。

スーパーにならぶ製品のレヴェルでも、気に入っている銘柄の、地元の粉(地粉という)を使ったうどんがあって、やや浅黒いけれどもコシが非常にしっかりして気に入っている。

ということで、大阪に十余年住んだ似非大阪人にとっても、「こなもん」文化全般に対する飢餓を覚えるということはない。

が、その北関東「こなもん」文化の中でも、大阪人(似非を含む)には受け入れがたいものがある。

それは「ふらい」である。詳しくはリンク先のウィキペディアを参照してもらうといいのだが、「ふらい」とは何か?と聞かれれば、似非大阪人に言わせれば「キャベツの入っていないやっすいお好み焼き」「お好み焼き味のチヂミ」「壱銭洋食の上等なやつ(奥さん談)」としか言いようがない、主に埼玉県行田市~熊谷市地域のみで食べられているという、独特のB級グルメである。

この文章を読んだ大方の大阪人(一部広島人を含む)の皆様が即座に同意してくださるように、我々夫婦も初めてその存在を知ったときは「そんなものはもんじゃ焼きと一緒で関東のゲテモノに違いあるまい」と一笑に付して顧みなかった。そこには異文化に対する恐怖の念も少し含まれていたと思う。

しかしながら、この「ふらい」を拒絶したために、我々夫婦はしばしば、関西人特有の「お好み焼き食べたい」という「特殊飢餓状態」の回避策に悩まされることになった。「こなもん」自体に飢えることはないが、「お好み焼き」となるとこの地方は極度に手薄なのだ。

では具体的にどうして凌いでいたかというと、あまりに流行っているのでもう名前は出さないが、丸の内の某名店まで足を伸ばしていたのである。しかもそこで一時間以上行列に並んで食べてきたのである。

ここで小さな声で言いたいが、あの某名店に三人ぐらいで訪れて、お酒を飲みながらなんやかんや頼んで、結局食べ切れなくて残して出て行くOLさんたちには、あの味が我々にとってのコーシャーなのだということをどうか分かってもらいたい。あなたたちは興味本位で食べているかもしれないが、我々には死活問題なのだ。

閑話休題。ともかくそのように厳格なこなもん教徒である我々であるが、この日曜日、不信心の罰当たりとは思いつつも、ふらい屋さんに入ってみた。

そのお店は「慈げん」。熊谷市の地方ローカル百貨店「八木橋」の裏手にあるお店である。たまたま「八木橋」のデパ地下グルメに用があったので、そのついでの訪問である。

結論から言えば、この「慈げん」の「ふらい」が、美味しかったのである。食べたのは「野菜紅生姜ふらい」だったが、味は先ほども述べたように、たこ焼きがそのまま薄くなって、チヂミになったようなものを想像してもらうと分かりやすい。

生地がくちくち、もちもちとしていて、ソースもしつこくなくて食べやすい。異教徒の食べ物とはいえ、我々こなもん教徒にもこれなら食べられる。ということで、我々は即座にこれまでの「ふらい」に対する非礼を詫びたのであった。

Sbsh00471 ちなみにこのお店、15時までは出汁と粉にこだわった手打ちうどんが食べられるというので、そちらも頼んでみた。

頼んだのは「ねぎ醤油の和えうどん」。これが、メニューに謳ってあるとおり、もちもちとした焼きうどんのような、醤油ベースのカルボナーラのような絶品であった。聖地讃岐巡礼も果たした人間が言うのだから間違いない。あくまで「ふらい」がメインで、サイドメニュー的な意識で頼んだうどんであったが、実はこっちのほうが瞠目するくらい美味しかった。

メニューを見るとこのお店、他にも「クリームチーズうどん」「うどんの豆乳鍋味噌風味」「ミルクカレーうどん」「トマトスープうどん」など野心的なメニューがならんでいる(以上うろ覚えですので、正確な名称は細部違うかもしれません)。

これはぜひとも再来して試してみたい、と奥さんと意思を確認しあったのであった。

熊谷市の「慈げん」、おいしいです。興味のある人はぜひ(丸の内の某店はこれ以上流行るといやなので名前を伏せるけれど、この地方のお店は、国道沿いでも流行らないとすぐつぶれてしまう苛烈な環境にあるので、ぜひとも繁盛していただきたいと思います)。

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トマトが赤くなるとセレブがやってくる

Sbsh00211週末にかけて突然信じられないほど暖かくなったので、都並と奥さんも北関東の巣穴からのそのそと這い出てきて、いつものように東京へと買い物に出かけた。

いつものように、というのは、いつものように強行軍である、ということである。この日は代官山と表参道(どうして電車一本ですっといけないのか)と新宿伊勢丹とを半日で駆けずり回ってきた。

その強行軍の途中で昼食を採ったのは、代官山の「Celeb de Tomato」※。今話題の(?)徹底的にトマトにこだわって、トマトをフィーチャーしたお店である。

※青山と表参道にもお店があって、青山が本店らしいのだが、スケジュールの都合で代官山店さんにおじゃました。それにしても三十路のおじさんには気恥ずかしくなるネーミングだけど、なんだかここまで直球勝負で来られると逆にポップですがすがしい気もする。少なくともちっちゃいチョコレートのことを「ボンボン・ショコラ」と呼ぶほど恥ずかしくはない。

トマトといえば、僕の十年来の悪友のひとりはトマトがだいきらいで、「トマトなんて悪魔教の食べ物だ」と言い放ったことがあるけれど、その彼にとってみればここはきっと悪魔教の教会ということになるだろう。

しかし都並にしても奥さんにしてもトマトはむしろ好物だから、こういうこだわったお店はぜひとも詣でてみたいと思っていた。そう思いつつ、今までチャンスがなかったのだけれど、今回タイミングよく代官山でお昼になったので、ここを先途と(いや、それほどのことじゃないけど)いそいそとおじゃましたのだった。

Sbsh0023 いただいたのは1500円のランチのメニュー。前菜としてトマトのサラダが出てきて、その後にトマトソースのパスタ、デザートにもトマトのスイーツ、食後にコーヒーか紅茶というメニューである。コーヒー/紅茶には別にトマトは入っていない。

これはいちばんお値打ちのメニューで、このほか、メインディッシュが魚のコースとお肉のコースがあったけれど、そんなに食べれないのと、パスタが食べたかったのでこのメニューにした。けちったわけじゃありません。

サラダのトマトだけれど、なるほど、完熟で甘くておいしい。いやな青臭さはちっとも感じられない。けれども、これは奥さんと意見の一致を見たところだけど、今まであったトマト観を覆してくれる、というものではなかった気がする。

例えば、素人の僕が登山をしていたら、後ろからやってきたベテランらしき人物が「そっちじゃない!そっちに行くと滑落するぞ!」と言ってくれるような、コペルニクス的転回を期待していたのだけれども、そういうものではない、ということである。

といって美味しくない、というわけではない。

もう一度登山の喩えを使うと、ルートは間違っていないんだけど、後ろから来たベテラン登山家のおじさんが「俺は荷物要らないぞ!あ、それと靴も要らないの。じゃ、お先にー!」といって物凄いスピードで追い越していくような、そういう美味しさである。

わかりにくいか。

Sbsh0024 ともかく、そういう正統路線のトマトだから、パスタとなるとそのオーソドックスさがますます際立ってくる。「なるほど。こういう味になるだろうな」という味ではある。

けれども味付けがしつこくなく、いたずらににんにく臭くも塩辛くもないので、舌が喜ぶというより、胃袋が癒される感じがする。

僕の胃の中で誰かが「おっ、今来たコレいいぞ!もっとカモンカモン」と呼んでいるような気がする。そんな味である。

わかりにくいか。

Sbsh0025 期待を裏切るという意味では、もっとも意外性があったのがデザートで、この日はトマトのブリュレだった。

もっとも、隣で同じコースを食べていたお客さんのデザートはトマトのティラミスだったから、それが売り切れになってこれに変更になったのかもしれない。

いずれにせよ、クレーム・ブリュレのまろやかさとトマトの酸味がうまく調和して、これは新しい味だった。

ただ、トマトの味とブリュレの味が同時に舌の上にあることに対して、ちょっと脳が認知的混乱を覚えている気はしないでもなかった。

でもおいしい。これはおいしかった。

Sbsh00221 この店のもうひとつの売りは、トマトジュースである。全国津々浦々から集められた、一本1000円から5000円もするようなトマトジュースがずらりと並んでいて、店内でも飲むことができる。

しかしこんなにいたずらにセレブ価格なジュースが並んでいても、どれが美味しいのかわからない、という人のために、店内ではテイスティングもできるようになっている。四種類の、それぞれ糖度が違うトマトジュース(糖度6~12くらい)がショットグラスでテイスティングできて、1200円。

これは正しい趣向だと思う。トマトジュースが積極的に好きな人以外は、やはりどんなに美味しくても、料理を食べながら一緒にグラス一杯飲むのはちょっと大変じゃないかなあ、と思うからだ。

Sbsh00261 テイスティング4種が運ばれてくるときはこんな状態。順番にお店の人が説明してくれる。この写真では右上の黄色っぽいのが「太陽の王様(オレンジキャロル)」といって、黄色いプチトマトのジュースで、この中では最も糖度が低い。

そこから時計回りに「千歳の雫」「薫寿~KOTOBUKI~」「あいこ」という名称で、順に糖度があがっていく。いちばん甘いものが「あいこ」。

これを糖度の低いものからテイスティングする。「順番を逆にすると、糖度の低いものがただのすっぱいジュースになってしまうのでお気をつけください」とお店の人。丁寧なインストラクションでありがたい。

まとめて言うと、都並の舌にとっては、この写真の右半分と左半分で分水嶺があるような気がする。「千歳の雫」(右下)までが、もちろん香りがさわやかで飲みやすいけれども、我々の知っている「トマトジュース」の概念に当てはまるといえば当てはまるもので、一方「薫寿」「あいこ」になると、もう「トマトジュース」ではない気がする。

言い換えると、左半分のふたつ(「薫寿」「あいこ」)は、甘さも充分であると同時に、独特の芳香というか醗酵した香りみたいなものがあって、ワインを連想させるというか、「これ、あなたの知らない南国のフルーツです」といわれれば、「そうなんだ」と思ってしまうような味である。おいしいけれど、そのぶんなんだか戸惑ってしまう。

しかしながらこれは、「トマトジュース」観を刷新してくれる、という意味ではいい「アトラクション」じゃないかと思う。でも、例えば「薫寿」は大瓶で5000円もするので、ここから自宅に発送して飲むか、と言われると、そこまでしなくてもよいような気がする。

まあ、なんだ。「Celeb de Tomato」、とってもおいしいです。トマトの好きな人はぜひ。

なんか無難なまとめ方だな。

追記:我が家では毎朝トマトを食べる。今朝、セレブでもなんでもないトマトを食べたら、代官山のアレが立派にセレブであるということがよくわかりました。

この店の真価は、次にふつうのトマトを食べたときに現れるのかもしれません。

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夕方を通過する

しようやくこのところ、我が職場でも授業期間が終わり、秋口からの怒涛のような忙しさにも小休止が訪れた。

とは言っても仕事がない訳ではなく、まずは今年度中に行った研究発表を二本、論文にまとめなければいけない。その合間にいくつか研究書を読み、また来年度の授業準備もしなくてはいけない。

ということで、やはり研究者には休みはないのだ。

ただそうは言っても、一時期のような会議と締め切りの数珠繋ぎ状態からは解放されたので、その分だけの開放感を感じているということである。

時間が工面できたので、今日は日頃ならありえない時間に大学をおいとまし、ぼさぼさに伸びた髪を切ってもらいに行くことにした。

早い時間にオフィスを出たことによる奇妙な罪悪感と非現実感を味わいながら、いつものバス停に並ぶ。

程なくして、2月の夕日が真っ赤に空を染める方角から、できのわるい猟犬のように体を揺らして、古びたスクールバスが やってきた。

学生たちの列にに混じって粛々と乗車する。前のほうに一人がけの席が空いていたので座らせてもらう。鞄を膝に乗せてとりとめない考えごとをしているうちに、バスは何回か曲がり角を曲がり、もときた夕日の方角へ進み始めた。

前方のガラス越しにきれいな春の夕日が見える。それを見てはたと気がついた。思えばもう長らく夕日を見ていない。

この時間帯はいつも日当たりの悪い研究室でPCに向かっているか、授業をしているうちに通過してしまう。

けれども昔々のことを思い出せば、山村育ちで毎日野山を駆け回る生活をしていた僕は、毎日毎日、故郷のちっぽけな稜線に、夕日が飲み込まれるのを見ていた。

そこから四半世紀、ずいぶん暮らしぶりも変わったものだ。もちろん歳を取っていいこともあるから、昔に帰りたいとは思わない。でも次に転職したら、夕日の差し込む研究室にしてもらいたいなあ、なんてことをちょっと思った。

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疲労骨折

どうやら、右足を骨折した模様。

といってもたいしたことはなくて、わが右足を構成しているさまざまな骨の部品のうちでもおそらく最小クラスのものが、ふたつに割れてしまったらしい。

その骨の名は「種子骨(こちらのページに図解があります)」と言って、足の裏、より詳しくは右足の親指の付け根辺り(動物で言うと肉球に当たる部分)にあり、サイズは小豆大と実に小さな骨である。

この種子骨が、骨折の直前、激しいスポーツとか特に変わった行動をとっていたわけではないのだけれど、ごくふつうに生活している中で、それでもなぜか力尽きてしまったらしい。いわゆる疲労骨折という現象である。

経緯を具体的に説明すると、最初は月曜日、当該部分になんとなく痛みがあった。それが火曜日の夜、お風呂に入っているうちからなんだか痛くなってきて、その後ベッドに入ったら寝られないくらいの痛みになった。

いや、寝られないくらい、というのは大げさで、うとうとはしたんだけど、それでも何度も痛みで目が覚めてしまうのだ。

どうにもかなわないので(おまけに僕は普段お酒を飲まないのにも関わらず尿酸値が高いので、足の親指の付け根というと「痛風か!?」という恐怖もあり)、水曜日の朝に病院に行った。

そこでまず血液検査をしてもらう。痛風の発作では白血球数が増加しているはずだからだ。ところが結果を見ると、問題の白血球数はきわめて通常の数値だった。

一方、レントゲンを撮ってもらうと、件の種子骨がぱかっと桃太郎の桃みたいに割れて見えた。

これを見て先生いわく

「うーん、これかもしんないね。でもまだ痛風の可能性もあるから、尿検査しときます。一応土曜日も一回来て」

とのこと。

(なんだか釈然としない説明だったが、その後自己流でいろいろ調べてみた結果、これは種子骨骨折ではないか、という感触を得た。第一、僕は以前にも骨折をしているのだが、その時の疼痛と今回の痛みが極めてよく似ているからだ。これが痛風だと、靴下も履けないくらいの激痛だというが、そんな感じではなかった)

ともあれ、診察はそれで終了。特にギプスも何もしなかった。出してもらった薬も、強めの痛み止めであるロキソニンと、それとセットの胃薬(胃が荒れるので)、それから塗り薬の消炎剤というシンプルなもの。

帰宅後、水曜日はさすがに痛くて歩けなかったので、職場に一報をいれて休ませてもらった。仕事や国柄によっては「怪我したの?じゃあ、もう来なくていいよ」と言われるかもしれない時節柄、休みをもらえる職場に感謝感謝である。

しかしいつまでも休んでいるわけにはいかないので、本日木曜日、どうにか痛みが引いたので出勤してきた。

まずはだましだまし、普通の靴は履けないので2002年ごろに買ったナイキのスリッポン(エア・プレスト・チャンジョ)をはいて家の前のスポーツ用品店まで歩き、どうやら歩けたのでそこでテーピングを買い、昔中途半端にやっていた部活動のころのノウハウを思い出しながら足にそれを巻き、電車とタクシーを乗り次いでどうにかここまできたわけである。

今は完全に痛みは引いているので、なんだか拍子抜けだが、油断はできない。しばらく足を引きずりながらの生活になるだろうけれど、安静にして治癒に勤めたい。

追記:それにしても、当職場は今週ちょうど補講期間で、授業をしなくていいのが助かった。なかなか空気の読める右足である。

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とりあえずの帰還

1月の8日か9日には日記をつけると言っていながら、気がつくともう1月も終わろうとしています。

1月はお正月に鰤走の反動でのんびりしてしまった結果、休みが明けたら、やれセンター試験だ、やれ卒業論文の口頭試問だ、やれ研究発表だと怒涛のように忙しくなり、この忙しさを予測できなかった自分を恨み、恥じながらも必死で駆け抜けてきました。

で、それらのスケジュールがようやく土曜日の研究発表で一段落。ということで、あわてて日記をつけてみました。

なんだか、この一年、一月毎に等比級数的に忙しくなるのはなぜだろう。

とりあえず、皆様遅まきながら今年もよろしくお願いします。

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皆様よいお年を/2008年のベスト○○

今日は仕事納めですね。

都並は例によって年末年始モードに入ると電脳空間から遠ざかるため、今年は今日が最後の更新となります。次回は1月の…8日とか9日になるんじゃないでしょうか。

ということで、皆様(という名の仮想読者の方々)にはここでご挨拶を申し上げておきます。

今年一年間はまことにありがとうございました。大変に忙しい1年でしたが、なんとか乗り切れたのはひとえに皆様のおかげです。

また、2009年も何卒お引き立てのほどをお願い申し上げます。2009年は都並も、さらなる補強を行って、一回り大きな人材になりたいと思います。よろしくお願いいたします。

しかし今年はいろいろあったなあ…。学会の主催校・実行委員をやったり、名古屋では憧れのDB先生に会えたりスターウォーズの公開30周年記念イベントがあったり…なんとなくはじめたミニカーのコレクションもあっという間に増えたし…。

ということで、今までやったことがないのだけれど、極私的「2008年のベスト○○」をここに書きつけておこうと思う。もし来年も、それ以降もこの気まぐれが持続したら、それなりの備忘録にはなるだろう。

1)2008年のベスト・ムーヴィー

第1位 『イントゥ・ザ・ワイルド』

第2位 『潜水服は蝶の夢を見る』

第3位 『ノー・カントリー』

寸評)今年は結局忙しくて、『TOKYO』も『トウキョウソナタ』も未見、『アイアンマン』もこれから…という体たらくなんだけど、観たものの中で言うと、なんといっても『イントゥ…』の鋭利な仕上がりと、その製作姿勢の気迫が凄かった。かつてないほどインヴォルヴされた映画だった。第2位も詩的で美しく、人生の美しさを謳い上げた傑作だと思うけれど、『イントゥ…』が真正面から見据えたネガティヴィティのインパクトには勝てなかった。第3位は職人技の凄さを見せ付けられた。

2)2008年のベスト・ミュージック

第1位 リトル・ジャッキー『ザ・ストゥープ』

第2位 R.E.M.『アクセラレイト』

第3位 ローリング・ストーンズ『ラヴ・ユー・ライヴ』ほか

寸評)今年はあんまりポップ・ミュージックを積極的に消費しなかった。オアシスもコールドプレイも新譜を買わなかった。その中でも第1位のリトル・ジャッキーは、キャッチーさといなたさとが絶妙にミックスされて、ドライヴのBGMとしても最適。いいセンスしていると思う。

第2位は『モンスター』以来のピーター・バックのギターばりばり弾きまくりがうれしいR.E.M。でもこの人たちの場合、反対にスロウな曲はそろそろマンネリしてきた。

第3位は、恥ずかしながら(いや別に何も恥ずかしくないけど)職場のイギリス人の先生に勧められて初めて聞いたのだけれど、いや、凄い。特に「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」「ブラウン・シュガー」「悪魔を哀れむ歌」の流れが最高。そのほかはGラヴ、ベイカーズ・ブラザーズあたりが次点かな。

3)2008年のベストお茶菓子

第1位 松屋長崎のマドレーヌ

第2位 みよしやのみたらし団子かざりやのあぶり餅出町ふたばの豆餅

第5位 根津のたいやき谷中せんべい

第7位 おせんべいやさん本舗の黒胡椒せん/あげせん

寸評)お酒を家でほとんど飲まなくなったので、代わりにお茶菓子を食べることが増えた。移動の多い仕事を生かしてあちこちでお菓子を試してみるのだけれど、やはり自分が年をとったせいか、京都と東京の和菓子に軍配が上がる。ここにあげたのはどれも伝統のある老舗である。特に第1位の松屋長崎の、予約しないと買えないマドレーヌは、聞けばおじいさんが独りで作っているそう。絶対になくならないでほしい味である。

といいつつ今個人的には根津のたいやきが食べたい。あの薄い皮、たっぷりのあんこ…ああ、たまらないな。

…さてさて、などといいつつそろそろ2008年の太陽も沈みかけているようです。皆様それではまた来年お会いしましょう。

都並はこれから髪の毛を切ってもらいに行きます。今晩のごはんは奥さん手製の豆腐ハンバーグです。明日からは大掃除とたまったDVDの鑑賞に精を出し、大晦日からは日光・鬼怒川に出かけてきます。

年が明けたら京都に帰り、バーゲンでピーコートの掘り出し物を探し、リコーのGRデジタルⅡを買って、でもって帰りの新幹線ではそれをうれしそうにぱしゃぱしゃやりながら北関東に帰ってきます。

それまでごきげんよう。2009年が皆様にとってこれまで以上にすばらしい飛躍の年でありますように。

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クリスマス雑感

Vfsh0505今日はクリスマス。授業期間中忙しかった都並も、昨日、一昨日とは休みが取れたので、奥さんとのんびり過ごすことができた。

23日は奥さんと銀座~丸の内方面をぶらぶら。銀座ではハンズで奥さんのお肌のクリームを買って、丸の内では新丸ビルのカンペールでムートン・ブーツを買ってきた(これも奥さんの)。

夕食は例によって丸ビルのクア・アイナ。去年もこの時期に開催した「クアおさめ」という儀式である(※)。

※同様の儀式に「クア初め」というのがある。またTOKIAビルの某お好み焼き店で開催される「きじおさめ」「きじ初め」もあるのだけれども、これはちょっとスケジュール的に今年はできなさそうで残念である。

昨日のイヴは家にいて、奥さんとチキンのバスク風煮込みを作る。ル・クルーゼで作る料理のレシピ本に載っているもので、さして難しいことはないし特別な材料も使っていない、要は「チキンのトマト煮」なんだけれども、これがなかなかどうして、タイムが利いていて、チキンもやわらかくておいしかった。

このソースが残ったので、奥さんいわく今晩はこれにツナを加えてパスタ・ソースにするそうだ。それもなかなかおいしそうである。

サイドメニューは、僕の大好物であるルッコラとブロッコリーのスプラウトをたっぷり使ったグリーンサラダと、奥さんが京都の「黒メック」から輸送してきたオリーブのパンとジャガイモのパン。

日記を読み返してみて気がついたんだけど、これで我が家は3年連続、京都にいたときからずっと、クリスマスには「ル・プチメック」のパンを食べていることになる。石の上にも三年とはいうけど、こんなところでへんに継続の力を発揮している我が家って一体何なんだろうか。

それから飲み物は、成城石井で二番目に安かったハーフボトルの赤ワイン。これも毎年クリスマスには家で赤ワインを飲む習慣になっているので、23日に新丸ビルの地下で買ってきた。こちらも毎年の習慣になっているわけだけれど、これはいい習慣なんじゃない。続けるといいんじゃない。と個人的には思っている。しかも、昨年は開栓済みのワインだったので、今年のほうがその点ではグレード・アップしている。奥さんはお酒が飲めないので代わりにコカコーラ・ゼロ。

と、いろいろ書いてはみたけれど、日記を読み返してみると、自分でも驚くくらい過去のメニューとさして変わらない。だけど、いつものようにちゃんとチキンを食べて、ワインを飲んで、いちおうクリスマスらしいディナーを味わえる、ということは間違いなく幸せなことである。

そのほか、昨日はガトー・ショコラも二人で手作りした。ケーキとしては去年と一緒のものだが、今年はまだ使っていないシリコン型があったので、そのロールアウトを兼ねての製作である。先日佐野のアウトレットのボダムで、クリスマス・ツリーとふくろうのかたちのシリコン型を買ってきていたのであった。

ところがこれは、結論から言うと残念な結果に終わった。味も焼き加減も申し分なかったのに、シリコン型の微妙な成型のせいで、型からきれいにはずすことができなかったのである。おかげでかたちがぼろぼろのケーキになってしまった。

ということで、「この型は明らかに欠陥品とはいえないけど、でもアウトレットで売っている理由が分かったね」と奥さんと自らの健闘を慰労しあったのであった。

食後は昨年のクリスマス・プレゼントだった『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』のDVDを見て、「明石家サンタ」のはじめ一時間くらいを見て、就寝。

Vfsh0506 朝、目が覚めると毎年のように枕元にプレゼントが。

…と、ここまでしっかりクリスマスの行事を行ったわけだけれど、奥さんにしても僕にしても、今年はなんだかぜんぜん実感が伴わなかった。

厳しい寒さだった昨冬に比べて、今年が暖冬だからだろうか。それとも、十日ほど前にTDRに出かけてしまって、そこで気持ち的にピークを迎えてしまったからだろうか。

それともあるいは、自分たちがもうプレゼントをもらえる子供でもなんでもなくって、あげる側の大人の一員になってしまったからだろうか。なんか去年もその前の年も同じこと言っていたような気がするけど(そしてそういう諦念のもとに家族や親しい人たちにプレゼントを贈ったけれど<今年はしなかった。そのせいだろうか)、年々そういう感覚が増してきているのは事実である。やっぱり新しいフェーズに入ってきているんだろうなあ。

とりあえず、次は正月のバーゲンが待ち遠しいけどね。そこは変わらないけどね。

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犬ぞりと走り始めた車、あるいはサンタ肯定論

11月の学会が終わったら多少は楽になるはずだったのに、結局12月はいつものとおり、鰤走(ぶりわす)になってしまった。

というのも、4年生の卒論の提出期限が今日までで、それにかなりてこずっていたからだ。やはり類は友を呼ぶのか、僕のゼミの学生は僕同様にマイ・ペースな人間が多く、ぎりぎりまで卒論を書いていた。

それを、ざっと見ればいいのだけれど、やはりどうしても細かいところが気になってしまい、つい一生懸命指導してしまう。ワードの「変更履歴の記録」機能など使って、微にいり細をうがって指導してしまうのだ。

そこにはやはり、教員同士の競争意識というか、それほどのものではなくて「うちのゼミ生だけ卒論の出来が悪かったら…」という不安があり、ついつい一生懸命になってしまう。

しかし一方で当の学生たちはというと、当世気質の若者たちというか、こっちの気持ちなどいざ知らず、のんきに構えている。

これはけっこうやきもきするものだ。いや、やきもきを超えて、やんきーもんきーベイビーですらある。

「あのさ…君たちは自分のことだし、自分のポテンシャルに応じた時間配分をしているのかもしれないけれど、こっちは君たちの本当の意味でのポテンシャルなんてわかんないんだ。だから心配させないでおくれよ。それから連絡をまめにくれ。よしんば君たちが自宅で一生懸命論文を書いているとしても、こっちは大学にいてわからないし、『何してるのかなあ…寝てるのかなあ…諦めて泣いているのかなあ…』とか悪い想像をしてしまうものなんだ。一言『やってます』でいいからメールをくれよ…」

といいたい気持ちをぐっとこらえて、この半月ばかり心労に耐えた。

詳しいことは本人たちの名誉のために伏せるが、比喩を使うと、数日前まで僕のメンタル・イメージはまさに「犬ぞり」だった。

わんちゃんたち(決して見下しているわけではなく、ゼミの原動力という意味です)が、あるものは力いっぱい走ったり、あるものは引きずられていたり、あらぬ方向に走っていたり、という感じで、結局犬ぞりはどこにも進まないのだ。

しかも悪いことに、その「犬ぞり」のイメージが、昨日あたりから「戦地から撤退する幌付トラック」のイメージに変わった。理由は、卒論を提出する学生が出始めたからだ。

幌付のトラックは一人ずつ兵士(学生)を乗せ始める。もう今まさに出発しようとしているのだ。

ところが、期限ぎりぎりになっても現れない兵卒がいる。もうトラックはエンジンがかかっている。

それでも兵士は現れない。ついにトラックは走り始めてしまった。

その段になってようやく「あれ?撤退ですか?」という感じで彼は現れた。僕の脳内イメージではなぜか水筒を手に持ち、首からタオルを提げている。水場にでも行っていたのだろう。それを見て、すでに乗り込んだ兵士たちは愕然とする。

事態の深刻さに気がついた兵士は、あわてて、血相を変えて走り出した。トラックの兵士たちも立ち上がり、彼に向かって手を差し伸べる。

「早く!早く乗るんだ!」

…と、数時間前まで僕の心境はこんな感じだったわけです。

それがなんとか、水筒もタオルも落っことしたけど、おまけになぜか銃火器も、あまつさえヘルメットもブーツも身に着けていないけど、トラックに飛び乗りました。

セーフ。

…ああ、もういやだ。もうこんな思いは二度としたくない。郷ひろみ以上にもういやだよ。

Vfsh0499 と、異常なストレスを感じてた都並を、神様は見ていてくださったのか、先日帰宅すると思わぬプレゼントが。

もう何ヶ月も前にふと思いついてはがきを出した雑誌の懸賞に当選していました。思えば懸賞なんていうものに応募したのは優に10年以上前だ。

あたったのは、マッキントッシュのエディターズ・バッグ(コンピューターじゃなくてコートのほうです)。雑誌は「Begin」という一癖ある雑誌で、そのタグがついている限定品です(「Begin」についての僕の屈折した愛情は、また別の機会に)。

いや、サンタはいるな。マジでいる。

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年中行事なもので(二日目:プロジェクトTNT)

明けて二日目。

Fl010002 ホテル・ミラコスタで今回泊まった部屋は、ちょっと面白くて、窓の外にちょっとしたベランダというか中庭みたいなものがついていた。

面白かったのでその様子を写真に撮る。

どうでもいいけど(ま、このブログは基本どうでもいいことばっかりですが)、ミラコスタの寝具は僕の寝方にとても合っていて好きだ。あちこちでいろんなランクのホテルに泊まったけど、枕が固かったり、マットレスが柔らかすぎたり(新婚旅行で泊まったパリのスクリーブは、マットレスが柔らかすぎて、まるでハンモックみたいで、うつ伏せで寝る人には完全に無理な代物だった。きっとうつ伏せだとイナバウアーみたいにえびぞりになってしまうだろう)、決して寝心地がよくないホテルが多い中、ここはマットレスも程よく固く、枕は僕好みの羽毛で低く柔らかく、非常によく寝られる。

Fl010003 よく寝た後はミラコスタ内のオチェーアノで、おなかいっぱい、ばかみたいにブッフェを食べる。ここのブッフェは野菜ジュースとパンが充実していてすばらしい。特に、チョコレートの入ったデニッシュのおいしさときたらたまらない。それだけイクスピアリで販売したらきっと売れると思う。

ここでも朝食の内容を写真に撮ったのだけれど、あまりにばかばかしいのでレストランからの風景を貼っておきます。

Fl010007 二日目はその後TDSをぶらぶら。もうアトラクションはぜんぶ乗っているので、この日は日ごろ行かない場所を探して行く。

ということでいきなりゴンドラに。これはTDSの水面部分を一部周遊するだけのどうということのないアトラクションだけれども、よく晴れた朝に乗るとなんともいえない癒し効果がある。

Fl010010_2 水面からの景色も、別に地上からの景色と角度がちがうだけなんだけど、なんとなく写真に撮ってしまう。何度も来ているんだけど。

しかしまあ、最初にこんなのに乗ってしまうと、まったりムードが夫婦の間に蔓延してしまって、「さあ、タワー・オブ・テラーだ!」とか「センター・オブ・ジ・アースよ!」という気持ちにはなかなかならない。

Fl010018_2 ということで、これまで行ったことのないS.S.コロンビア号に入ってみた。

これがなかなかどうしていい感じで、夫婦して「なぜ行かなかったのか」と首をかしげてしまった。

食事時ではなかったのでテディ・ルーズベルト・ラウンジに入ったのだけれど、その薄暗い船内ラウンジっぽい感じが実に居心地がよい。もともと、TDRのグランマ・サラといい薄暗いところが好きな都並にはことのほか落ち着く。

写真には撮らなかったけれど、店内には暖炉を模したスペースもあり、そこにはツリーも飾ってあって、カップルで暖炉前のソファーなんかに座ったら不用意に盛り上がりそうだ。

バー・カウンターもあるので、将来子どもと奥さんがきゃっきゃと走り回るようになったら、お父さんはここで静かにビールでも飲みたいと思う。

ちなみにバー・カウンターの天井のひさし部分を支えているのは熊たちだ。一匹だけサボって鮭を食べていたり、それを隣の熊が舌なめずりして見ていたり(写真)、こういうところも芸が細かい。

Fl010022_2 さらに、コロンビア号は舳先にも出られるようになっているのだけれど、これもまた知らなかった。

しかもこの船の配置が見事で、舳先の向こうには本物の海が繋がって見えるのである。

きっとここで、これまで無数のバカップルがタイタニックごっこをしたのだろう。都並もばかでは人後に落ちないので負けじと、「世界一周旅行に出かけてはみたけれど、ブエノスアイレスあたりで図書室の本もぜんぶ読んでしまい、ちょっと退屈してしまっているふう」の写真を撮ってみた。

Fl010029 その後、一日とくに何らかのアトラクションにもフォーカスしないまま(マーメイド・ラグーン・シアターでアリエルを見てフランダーにお別れし、大きいお友達が力尽きて大量に眠りこけている夕方のビッグ・バンド・ビートで、いつものとおりドラムを叩きまくるミッキーさんに改めて尊敬の念をいだきはしたけれど)、夜は久しぶりのマゼランズへ。またもやコースをたらふく食べる。

その後、大多数の客がハーバーでのキャンドル・ライト・リフレクションズに見入っているころ、我々はぐれ者夫婦はまたもやパークの裏側へ。静かなケープ・コッドのクリスマスに「僕らはこれでいいや」としばし心を和ませ、友人のお子さんへのお土産のダッフィーを購入。

なんだかんだで家に帰ったのはいつもの電車で(TDRに行くのに「いつもの電車」が決まってきたのがこわい)、11時過ぎに帰宅。まったくがんばらないTDRだった。

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年中行事なもので(一日目:プロジェクトTNT)

Fl000035_2 9月に行ってきたばかりのTDRへ、またまた夫婦して出かけてきた。

自分でも「先日行ったばかりだしなあ…」とは思いつつも、クリスマスの時期は毎年出かけていることもあり、TVCMなど放映され始めると、「そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神(ならぬ富士額鼠)の招きにあひて取るもの手につかず」というやつでどうにも落ち着かない。

そこで「ももひきの破れ」はつづらなかったけどジーンズの下にタイツをはいて、「笠の緒(を)をつけ替へ」る代わりに奥さんのイヤーマフを押入れから出してきて、「三里に灸(きう)すうるより」「休足時間」を買い込んで、舞浜の駅「まづ心にかかりて」、「住める方(かた)」は別に人に譲らずにホテル・ミラコスタを予約して、出かけてきたのである。

が、これがまた初日は冷たい冬の雨で、クリスマスのTDRだというのにぜんぜんテンションがあがらず、どうにも参った。

着いてすぐ、クリッターカントリーとウェスタンランドの境界あたりにある売店で、1着500円のポンチョに身を包みながら、ターキーレッグとかいうものを買い求める列に並んでいるときは、あまりに自分がかわいそうで、本当にどうしようかと思った。なんとなく『地獄の黙示録』の完全版に追加されたプレイメイトのシーンを思い出したりもした。

Fl000006 けれども昼過ぎには雨は上がり、ようやくいつものテンションで年甲斐もなくTDRを楽しむことができた(写真はその時間帯のパークの様子。4月に稼動し始める『モンスターズ・インク』のアトラクションの外観がもうできていました)。

Fl000026 特にこの日は、雨でお客さんが少なかったのか、パレードもしっかり見ることができて、おまけに愛機LC-A+も好調で、帰ってきて現像したらいい感じに写真が撮れていた。

どうでもいいけど僕は『トイ・ストーリー』の中でもこの宇宙人がとても好きだ。クレーン・ゲームの中の人生/世界/宗教観みたいなものが短いシーンに凝縮されていて、しかもそれが、彼らにとっての超越的存在である我々からしてみたら「間違った世界の解釈」であるところがいいと思う。彼らを見ていると自分たちの人生/世界/宗教観っていうのも案外そんなものなのかもしれないな、と思わされるしくみになっている。そのせいか、「選ばれた」宇宙人の栄誉と悲哀はなんとなく『キャッツ』のジェリクル・キャットを彷彿とさせるものがあると思う。

それはさておき、パレードを観た後は、クリッター・カントリーのグランマ・サラズ・キッチンで夕食。ここも都並のTDLでいちばんお気に入りのレストランである。なんといっても『大草原の小さな家』ふうの、開拓者的インテリアと「あなぐら」という設定とのマッチングが三十路のおじさんの中の冒険心を掻き立ててやまず、本気でこういう家に住みたい、といつも思ってしまう。

おなかが膨れた後はミラコスタにて就寝。予約したのが遅かったためトスカーナ・サイド、つまりパークの裏側だったけれど(本気でポルト・パラディーゾ・サイド=パーク側を採るなら8月9月にはもう動いていないといけません)、もういい年なのでそのことには何の不平もない。

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メルセデスのすごいサイトとハミちゃんのドラム

(実はここ数年、最年少チャンピオンになった天才ドライバー、ルイス・ハミルトンの登場以来F1にはまっていて、よく深夜放送でレースを見ているのですが、今日はその話)

忙中閑ありて、偶然、メルセデス・ベンツの広告サイトを発見したのですが、最近のサイトはえらいことになっているのですね。動画のおねえさんが非常にスムーズに説明をしてくれるので面食らいます。

そのほかこのサイトには動画がいっぱいアップされているのですが、そのなかでわれらがハミちゃんことルイス・ハミルトンが、メルセデス・ベンツ・ミュージアムでの祝典で、ドラムをプレイしている映像が見られます。

見た感じとてもうまい、というわけではなさそうですが、個人的に過去にドラムをやっていたので、この最年少チャンピオンにますます親近感を持ってしまいました。

動画への行き方ですが、画面左下の「MENU」をクリックした後、右端に出てくる「ALL FILMS」をクリックし、動画の5ページ目、「Stars & Cars 2008」がそれです。

この動画ではちなみにハミちゃんと、その陰に隠れてしまっている控えめなヘイキ(・コバライネン)のインタビューも見られるのですが、ハミちゃんがいつもどおり、謙虚なように見せかけてかなり傲岸不遜な感じなのに対して、ヘイキはとっても快活な好青年、という感じで好ましいです。

さらにちなみにメルセデスのチェアマンはなんかクレイ・アニメに出てきそうな分かりやすいいい顔をしています。

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油断したらディッセンバー

先日、多忙な毎日から解放されたという憶測のもとに復帰宣言をしたら、なぜかそこからまた忙しくなり、またたく間に時間がたってしまいました。

ということで、もう鰤走(ぶりわす)です。

11月はなんだかんだで(学園祭、学会、入試と)週末が三回つぶれてしまい、ほとんど休みなく一月働いた感じでしたが、どうにか12月は週末に休みをとれそうです。

もっとも、1月にまた研究発表があるから完全に気は抜けないわけですが、ちょっと今月は仕事のペースを落として、研究室と自宅の大掃除などしつつ、心静かに年末を迎えたいものです。

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週末だけの帰郷その2(プロジェクトTNT)

明けて日曜日。この日はまったくのオフ。旅の空ということをのぞけば、完全オフは実に一ヶ月ぶりくらいではないかと思う。

定宿のホテルで遅い朝食を食べて(なぜかビュッフェが以前より充実しており、特にフルーツとジュース類が格段に拡充されていてうれしくなってしまった)、それから今晩の宿であるグランヴィアへと移動。トランクを預けた後、地下鉄に揺られて烏丸御池へ。

烏丸御池まで行ったのは、三条通に新しくできたジーンズ・ショップを見学するためだったけれど、これは意外とどうということはなかった。

仕方ないのでそのまま三条通~御幸町通あたりのお店をぶらぶら。そうこうしているうちにお昼になったので、久しぶりの「バスティーユ」へ。

久しぶりに行ったら、お店の奥が広がって、フロア自体が広く、席数も多くなっていた。流行っているようでなによりである(そんなにえらそうに言うこともないけれど)。

しかし流行っているせいで予約のないお客さんは待つか諦めるかしないといけないレヴェルに達しているようだった。予約しておいてよかった。

Vfsh0474 今回はここでランチのコースを堪能。かぶらとベーコンのスープにはじまり、アボカドと魚を使ったサラダ、帆立と魚介のペペロンチーノ、豚肩肉のローストとデザート、というコースである(どうして覚えているかというと全品写真を撮ったからなんだけど、スペースの都合上ここでは二品だけ掲載する)。

お店が拡張して客数が増えると、心配になるのは味が落ちることだけれど、今のところそんな心配はぜんぜん無用なようだった。どの品も、今までどおりのバスティーユの味で、しかもしっかりおいしい。久々の贅沢な食事に感激した都並であった。

写真はデザートのアールグレイのブランマンジェ。そこにティラミスとバナナのアイスが添えられている。見てもらってわかるとおり、あまりのやわらかさに自重で崩壊しかかっている。それくらいやわらかいので口の中であっというまに溶けてしまう。これをティラミスといっしょに口に入れると実においしい。

Vfsh0475 最後はエスプレッソで〆。ところでこの写メール、偶然なんだけど天井からの明かりがハート型になっている。なんだか縁起がよさそうだ。

食事を終えたら、昔のように四条界隈をぶらぶら。ナイキに入ってNSWのウインドブレーカー類を一応確認する。80sっぽい色彩が気に入ったけれど、「これはアウトレットに出るまで待とう」と思い購入を控える。

代わりに、というわけではないけれど、藤井大丸の「Wilson」のショップで、スタジャンふうのスウェットを発見。着心地もよく、アームホールの太さや肩幅なんかも今風だし、ショール・カラーとかウエスタン・シャツみたいなポケット周りのパイピングなど気に入ったので、仕事着として購入。北関東の田舎では見つけられないものはまよわず買っておかなくてはいけない。

081027wl1m こんなんです。しかしこんな感じで仕事していていいのだろうか。今も着ているけれど。

あちこち歩き回って、そのほかに奥さんの買い物とかもして、夜は再び京都駅へ。

京都駅では毎年恒例のクリスマス・ツリーを見学する。駅ビルの大階段にちょっとびっくりするくらいの人が座り込んで、このツリーを観ていた。それを横目で「おしりが冷たかろうに」といいつつ眺めながら、いちおう僕も写メールを撮る。

Vfsh0484 こういうのを観るといよいよ年末だなあと実感する。日々いろいろ忙しいけれど、この不況の折お仕事があって、平和な家庭があって、ゆっくりクリスマス・ツリーを見るくらいの時間があるというのは、ひとまずは幸せなことだ。

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週末だけの帰郷(プロジェクトTNT)

Vfsh0485 仕事は相変わらず山積しているけれど、家族の行事があったので、週末だけのタッチ&ゴーで京都に帰ってきた。

京都はちょうど観光シーズンの真っ只中(最近は気温が高いので、本来紅葉の見ごろの11月にもなかなか十分な紅葉を見ることができない。そこで勢い11月の最後の週末が混むことになる。みんなぎりぎりまで紅葉を待つからだ)だったけれど、新幹線は意外と空いていて、当日の朝に切符を買ったにもかかわらずすんなりと座れただけでなく、隣の席もずっと空いていた。

新幹線はあらかじめN700の窓際の席を指定しておき、コンパクトDVDプレイヤーを持ち込んで、窓のスクリーンも下ろして、ひたすら映画を観ながら移動した。といっても遊びではなく、悲しいかな仕事で観なければならないものが溜まっていたので、移動中も仕事である。

今の住まいは在来線も東京まで結構時間があるので、片道で都合2本の映画が観られる。そこで、小さい画面だけれど往復で4本の映画を観た。暗い内容ばかりだったのでやたらと気が滅入った。

気が滅入ったまま、窓のスクリーンをあげるともう山科で面食らう。いつも富士山など見ながらゆっくりと故郷のモードに頭を切り替えていたのが、今回は途中でスクリーンの中のアフガニスタンやらサウジアラビアを通過してから京都である。

京都についたらタクシーで定宿にしているホテルへ。そこで先に帰省していた奥さんとお母さんと合流。またタクシーを拾って今度は金閣寺近くの某神社へ。そこで家族の行事があった。短時間ではあったが、晩秋の静粛な空気が満ちている京都の神社での時間に、思いがけずリフレッシュする。こんなにのんびりと、心落ち着いた気分になったのは久しぶりのような気がする。

Vfsh0468家族行事を済ませたら、今度は北大路通りをずんずん東進。おいしいものを食べる喜びで固く結ばれている親子三人で、今宮神社の「かざりや」のあぶり餅を食べるためだ。金閣寺から今宮神社は歩くと結構あるけれど、結束力の固いチームなので根を上げたりはしない。

だいいち、今の時期の京都のバスは殺人的に混んでいてめったにオンタイムに来ない。といってタクシーを捕まえるほどではない。

僕も、時間を気にせず歩く、という自由さがうれしくって、似たもの同士の親子の後ろをついて歩く。

今宮神社そばのお店にたどり着いても、それからまだ行列に並ぶ。30分くらいは優に並んだのではないかと思う。しかし時期がいいのでさほど苦ではなかった。奥さんは「かざりや」に並びながら「四条のみよしやのみたらしが食べたい」というわけのわからないことをいう。

そんなこんなで、いよいよお目当ての品物にありつく。いつもながらおいしい。

といってもこれは、具体的な調理方法を考えると、なんてことない食べ物だと思う。お餅をついて、小さく丸めて竹串に刺し、きな粉をまぶして焼き、最後に白味噌のたれをかける。おそらくそんな感じでけっこう簡単に作れるんじゃないだろうか。

でも、こういうものはやっぱりシチュエーションが大事で、今宮神社の参道にあるお店に並び、お店の奥の座敷で出涸らしの薄い番茶をすすりながら食べるのが乙なんだろうと思う。

この喜びに親子三人して浸った後はホテルに帰り、しばし何をするともなく休憩。

それから夜、再度集合してホテル内の中華で舌鼓を打つ。餃子と杏仁豆腐がおいしくて、満足のディナーとなった。久しぶりに生ビールを二杯、紹興酒を一杯飲む。

それからまた部屋に帰って就寝。非常にのんびりした一日だった。

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たどりつけばノーベンバー

皆様ごぶさたしております。都並鰤彦でございます。

ここしばらく、思わずうっとりするほどの忙しさでしたが、なんとかこのたび無事に平穏な日常に帰還いたしました。

気がつけば前回の日記を書いてからまるまる一月。いやはや忙しかったです。

その間に次期合衆国大統領が決まったり、『僕らのミライに逆回転』を観に行ったり、色々書きたいことがあったのですがそれを書く時間すらありませんでした(忙しい最中にこともあろうにゼミの学生たちと学園祭で焼き鳥を1000本も焼いていて、そのせいで忙しさにターボがかかった、というのは秘密です)。

でもおかげさまで本務校主催の学会も無事終了し、たったふたりの実行委員会はほっと胸をなでおろしました。いや正確には万事順調ではなかったのですが、想定範囲内のハプニングで治まりました。

遠路はるばるおいでくださった会員の皆様本当にありがとうございました。

読者諸氏には、今後はまたバカなことを書き綴っていく所存ですのでお暇な時にでもお読み下さるようお願い申し上げます。

追記)『流星の絆』面白いね。

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ただいま忙殺中

ただいま都並は、来月に開催される研究会(学会)の準備作業やらなんやらで忙殺されております…。

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いとしのマドレーヌ/野営への郷愁

【この日記はフィクションです】

ここ二日間ばかり、入試関係で大学に詰めている。

しかも朝の8時半からだ。世間様には申し訳ないがいつもこんな時間に研究室にはいない。なので、自分が少しだけまともな人間になったような気がする。

Vfsh0424しかも我が家の近辺は今朝になってまたずいぶんと冷え込んだ。そこで喜々として先日アウトレットで破格で購入したブルゾンを出してきた。

防寒(というよりこの地方では防風だ)の用意を整えた後で、愛する奥さんの用意してくれた朝食を採る。

スターバックスの「エイジド・スマトラ」で淹れた熱いコーヒー。黒パンにペッパーシンケンとチーズを乗せたトースト、卵、プチトマト、バナナ入りのヨーグルト、それから、最近我が家のフェイヴァリットになっている、京都にあるのに「松屋長崎」という老舗洋菓子店のマドレーヌというのが今朝のメニュー。

Vfsh0460阪神・岡田監督の辞任騒動などショックな事件が多いが、それでも朝の光の中でしっかり朝ごはんを食べると元気が出てくる。

特に、このマドレーヌは都並の元気の素だ。昔ながらの洋菓子、といった趣の、芳しい風味としっとりした食感。

非常においしいんだけど、これを食べるには京都にいるお父さんお母さんに買いに行ってもらい、それを送ってもらわないといけない。だからいつでも随意にオーダーできるものではない。あくまで、何かのついでで我が家のぶんも買ってもらえたときの行幸である。

それにしても、このマドレーヌのおいしさは、マルセイ・バターサンドに匹敵するね。

おなかもいっぱいになって、前述のブルゾンをいそいそと着込んで、家の外に出たら案の定風がとても涼しかった。

その皮膚感覚で何かを思い出した。

キャンプだ。

大学生の時分、時間を見つけては友人たちと野営に勤しんでいた頃の記憶が、頬を撫でる冷たい風でふいによみがえってきた。

思えばこれくらいの気温の頃、アウトドア・ブランドの高機能なウインドブレーカーを着込んで、「これっくらいへっちゃらだぞ」という一種の万能感とともに、野へ山へ分け入り、浜辺の流木を拾い集めていた頃からもう十年。

もう久しく野営に行っていないなあ。近頃日常生活は日に日に安全で堅実になり、仕事も来るものから順番に着実に片付けるようになって、我が家は奥さんのおかげでいつも清潔で、食事はおいしく、学生の時分から比べたらずいぶんQOLの高い生活を送っている。

そのことはもちろんいいことだし、この生活をこれから守っていくつもりなんだけど、わが身一つとノースフェイスのブルゾンとヴィクトリノックスのナイフが一本あれば、それだけで万能で無敵だったあの頃(といっても浜辺を走り回って吠えていただけなんだけど)。

そこからずいぶんきてしまったことだ。

けれどもそんな思考は一瞬のこと。通勤駅の改札にスイカをかざす頃には、秋の風に飛ばされて消えてなくなっている。その代わりに都並の頭の中は、今日すべき仕事を反芻している。

研究室に着いたらまずメール・チェックして返事を書いて、それを受けてたぶんあの書類の直しが入って、残った時間で授業の準備をして、あの本をちょっと読んで、それから某ホテルに打ち合わせに行って…いまやこれが僕の野山である。

分け入っても分け入っても活字ばかりだ。

それにしても、さっき食べたのにマドレーヌの風味では何にも思い出せないところが、偉人マルセル・プルーストと凡人・都並との違いだ。

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レビュー:『イントゥ・ザ・ワイルド』(3)(ややネタバレあり)

【総力特集もついに(3)に突入です。でも(4)までいきそうです】

次に、この映画の物語構造の話をしておきたいと思う。

この映画には、実はそっくりな構成を採る作品があって、それはアメリカ映画史に残る傑作、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)である。

どういうことかをできるだけわかりやすく説明しよう。

まず、この二作はどちらも、「死んでしまった人物の生前の生き方を、彼の知己が語る」という構成を採っている。

もっとも、『市民ケーン』の場合は文字通り、ケーンの死んだ後の「現在」のシーン、新聞記者トンプソンがケーンの知己を順に取材して回るシークエンスが映画の要所要所に出てきて、ケーンの生涯はその「現在」からのフラッシュバックで語られる。

一方『イントゥ・ザ・ワイルド』では時間軸の構成はもう少し複雑になっているし※、実際原作の書き手クラカワーによる知人へのインタビューのシークエンスがあるわけではないので、そういった意味での差異はある。

※クリスの死後の時点から妹がヴォイス・オーヴァーで語ると同時に、映画はクリスがそこで死を迎えることになる「魔法のバス」でのシークエンスと、「魔法のバス」までの旅程のシークエンスとを交互に語る。

しかしいずれにせよ、このような構成のおかげで、我々観客は予め「この人は映画の結末で死ぬんだな」という(必ず的中する)予測をもって映画に臨むことになる。

すると、こういった映画では通常の映画の「結末はどうなるんだろうか」という関心の煽り方は成立しなくなってしまう。

では、その代わりに我々はどういう態度をもって映画を観るのか。それは、ケーン/クリスがどのように生き、何を経験し、何を考えたかを見届けよう、という観察者の態度である。別の言い方をすると、主人公の人となりに最大の関心を持つことになるのだ。

こういった態度は、例えば『クローバーフィールド』や『バンテージ・ポイント』のような映画に対する態度とは全く異なるものであるし、さらにいうと、最近のアメリカ映画ではまれなものだと言えよう。そこをあえて挑戦したところにこの映画の価値があるのかもしれない。

さらに、ロード・ムーヴィーというジャンルが、このような人間観察の趣を強化している。ふつうの映画とロード・ムーヴィーとの違いは、専門的な言い方をすると、因果的構造を採るか挿話的構造を採るかの違いとも言える。

ふつうの映画は、因果(原因と結果の連鎖)で物語を運ぶことが多い。「はじめに○○がおきて、その結果××があって、さらにその結果…」という連鎖が物語の出来事をつないでいるのだ。

一方、ロード・ムーヴィーは、そういった原因と結果の連鎖に縛られない、突然の、偶然の出来事を許容する。桃太郎が犬・猿・キジの家来に出会ったのはただの偶然で、犬に出会ったからその結果猿にも会ったわけではないし、猿に会ったからキジにも会ったわけでもない。ただ、犬に会い/猿に会い/キジに会っただけだ。こういった、ぶつ切りの出来事が挿話のように並べられている物語を挿話的構造を持つ、という。

このようにして、原因と結果の連鎖を断ち切ったところにある、いくつもの偶然の出会い。それがこの映画の大部分を占めているわけだが、こういった挿話的構造では、さらに「観察」の趣が強くなる。

我々は、ふつうの映画に対してするように、今目の前にある出来事を分析し、前の出来事の結果と次の事件の原因を探すわけではなく、まんべんなく出来事の全体を眺めようとするからである。

そこには、極端な喩えを使えば、イラストの「間違い探し」をする人と、絵全体を鑑賞する人のような違いがある。

では、このような「観察」でもって我々が眺めるのは何か。まさに彼が自分自身の旅を旅にしてしまった悲しみである。クリスは、留まろうと思えばどこにでも留まれたのに、あえてすべての出会いを断ち切って、孤独な荒野へ踏み入っていった。いわば挿話的な生き方を彼自身が望んだわけで、その悲しみを我々は観察するのだ。

さらにこのことを別の角度から見ると、クリスの生き方には、ふつうの映画に観られるような「目的」がない。ふつうの映画では例えば、「王子様と結ばれる」だとか、「ファッション業界で成功する」だとか、「連続殺人犯を逮捕する」だとか、様々な行動の目的があるのだが、クリスにはそれはない。

いや、こういう言い方は正しくなくて、彼は「生きのびる」ということを目的にしたのである。ふつうの映画では登場人物は生きているのが当たり前で、その上で何らかの社会的な目的があるのだが、そういった社会的目的をクリスは拒否したのだ。その上で、「生きる」ことを再度目的に設定したのだ。

その結果、彼は他人とのかかわりを断ってしまう。他人とのかかわりは、社会的な目的のためには必要だけれど(他人こそが社会だからだ)、「生きる」という目的には必要ない、と考えたのだ。

そのような実存主義的な目的のあり方が、ロード・ムーヴィーの挿話的構造へとつながっていく有様を我々は「観察」することになるのであり、ここにこの映画の痛み/悼みがあるのだろう。

しかも、映画の結末で我々はさらに、クリスが悲しい認識にたどり着くのを観る。文学からの引用を好むクリスが最後の最後にたどり着いた答えは、愛読書の中の「幸福は他人と共有したとき現実になる(Happiness is real when shared.)」という一節である。

つまり、幸福は他人=社会とのかかわりにしかなかったのだ。クリスの命がけの思考実験がたどり着いた先は、そんな当たり前の答えだった。そこにたどり着くまでのなんという長い、孤独な旅だろうか。

しかしともかくも映画は、こうして実在のクリス・マッキャンドレスの試みについて何かを考えさせるきっかけを与えてくれるわけであり、そういった意味ではクリスの人生は「共有された(shared)」ともいえる。我々はクリスの旅に同行したのであり、その意味で彼は孤独ではなかったのだ。これを映画による救済、と呼びたくなるのは、僕自身の身内びいきだろうか。

(4)に続く(次は、「実話に基づく(based on a true story)」映画と「実話」の関係について考えます)。

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レビュー・『イントゥ・ザ・ワイルド』(2)

まずは3人のミスター「E」がいい仕事をしているのは間違いない。

(1)であまりに青臭い恥ずかしい文章を書いた直後なので、照れ隠しに「E仕事」と書こうと思ったけれど、文体を見失いそうなので止めておく。

まずは、主演のエミール(Emile)・ハーシュ。

この人は何でこんなにすばらしいんだろうか。一昔前ならレオナルド・ディカプリオがやっていたような、知的で人懐っこくて、でも頑固で向こう見ずなところと繊細なところを兼ね備えている青年、クリス・マッキャンドレスを見事に演じている。まさに血肉化しているのだ。

きけば、先にウォシャウスキー兄弟の変な映画に主演しているとのことだけれど、あれは全く無視していたので、初めてこの人のことを知って驚愕している。シャイア・ラブーフと並んで、今アメリカ映画界で最も才能のある若手だろう。この人に比べればアシュトン・カッチャーなんか全然かすんでしまう。

次に、撮影監督のエリック(Eric)・ゴーティエ。『ポーラX』や『モーターサイクル・ダイアリーズ』を撮った人だというけれど、この人の撮影するアメリカの大自然ははっとするくらい精細で美しい。なんとなくぼかして撮って、映像をいじっていじってきれい、というのならいくらでもいるけれど、高精細で美しい、ということに驚嘆する。

そもそも僕はこの映画のようなロード・ムーヴィーを愛して止まないのだけれど、それはひとつには、アメリカのロード・サイドや自然の風景が味わえる、擬似旅行的な楽しみがあるからである。

この映画ではその擬似旅行の趣が、かつてないほどのヴィヴィッドさで味わえる。これは、撮影対象そのものの美しさもあるとはいえ、それでもすごいことである。昨今『私がクマにキレた理由』とか『プラダを着た悪魔』とか『魔法にかけられて』とか『SATC』とか、NYの紋切り型の風景ばかりが映画界を席巻していることを思うと、この映画がアメリカの自然美を再度見つめなおした功績は大きかろうと思う。

一部、アラスカの丘の上に立ったハーシュの周囲を一周するショットとか、ホーム・ムーヴィーのロウファイな映像を使う手法とか、ベタなショットもあったけど。

三人目はもちろん、エディ(Eddy)・ヴェダーである。僕はクリスと同世代で、グランジ・ブームのときにいちばん洋楽を聴く年齢だったわけだけれど、実はパール・ジャムは苦手だった。当時一番人気のニルヴァーナが、パンクなところとポップなところを併せ持っていて、それでもってオルタナとか言われていたのに比べると、ちょっとパール・ジャムは渋すぎたし器用すぎた。

けれどもこの映画ではその渋さと器用さが、見事に映画のBGMとして成立している。ちょっと野太い声が前景化しすぎる感もあったけれど(R.E.M.のマイケル・スタイプさんの声を太くしたような感じである)、それでも、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』のサントラをニール・ヤングが担当して成功したように、一人のミュージシャンが持つスタイルが、映画の雰囲気をぐいぐいと引っ張っている。

…と、こんなふうにそれぞれのプロフェッショナルの仕事を褒めるのはかんたんだ。でも、この映画の成功はそこだけにあるのではないはずだ、と思うとき、どう考えればいいかわからなくなる。

だから、いろんなことを考えてみよう。

ひとつは主題の問題である。

この映画は、全編をクリスの人生に喩えて章立てしたショーン・ペンの構成が如実に表しているように、人生の主題がいくつも詰まっている。そのなかには親子の確執、男女の恋愛、他人との出会いなどなど、普遍的なものもあれば、いかにもアメリカ的なものもある。

例えば初めに、クリスはトルストイとソロー(『森の生活』)、ジャック・ロンドン(『野生の呼び声』)が好きだと言っていて、そのあたりはアメリカにおける文学と思想の系譜みたいなことを考えるきっかけにもなる。

それから、時代遅れのヒッピー・コミューンと、クリスと親密な関係になるヒッピー・カップル※1が出てきて、「魔法のバス※2」が出てきて、ヌーディスト・キャンプとかも出てきて、まるで都築響ー的なアメリカ暗部ツアーみたいな趣も感じさせるところも(そしてそれが雄大で健全で美しいアメリカの自然と対置されるところも)面白い。

※1 どうでもいいけれど、このカップル、男の方は素人俳優で本職は海洋コーディネイターというから驚く。さらに女性の方は、個人的にその器用さに感服しているキャサリン・キーナー。『マルコヴィッチの穴』でのセクシーなレズビアン、『カポーティ』での母性を感じさせる女性作家ときて、この役どころだからまいってしまう。さらにまいってしまうのは、このプロの女優と素人俳優のカップルの演技が完全にマッチして成立していることだ。

※2 "Magic Bus"は、字幕では「不思議なバス」となっていたけれど、ザ・フーのアルバム名とか、ケン・キージーがカウンター・カルチャー全盛期に乗っていたアレとかに対する含意もあるのだから、パンフレットにあるように「魔法のバス」とするのが良いと思う。

そしてこのアメリカの裏側を通過した後で、最後の老人との出会いで明らかに「汝光あるうち光のうちを歩め」といったトルストイに帰ってくる構成は非常に巧みである。ここにきて、クリスの思考の流れを形成していた現代アメリカの様々な思想が、トルストイ的な素朴な信仰観、人生観へと還流されていくのである(トルストイは結末近くでももう一度言及される)。

こういった思想面からアプローチすると、アメリカ史を貫いてきた様々な思想の流れの結節点、その力がかかって押し出されるところにいた人物、としてクリスを捉えることもできるだろう。

さらにいうと、そういった抽象的な思想の原則と、彼の家族に起こった具象的な事件とがぶつかり合って、クリスにああいった行動を取らせた、とも考えられる。パブリックなものとプライヴェートなものの衝突というか、そういうことを考えさせるのも面白い。

(3)に続く。

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レビュー:『イントゥ・ザ・ワイルド』(1)

【あまりにも気に入ったので総力特集です】

別記事にも書いたように、急に気温が落ち込み、めっきり秋らしくなった日曜日のこと。この日はしばらく忙殺されていた都並には久しぶりの、ちょっとした解放感を味わえる休日だった(完全に解放されるなんてことはないんだけど)。

そこでこの日は朝はゆっくり起きて、最近お気に入りの豆※で淹れた熱いコーヒーを飲み、それから新しいワークシャツをはおって身支度をして、昼過ぎに家を出た。

※ なんてことはないスターバックスのアニヴァーサリー・ブレンド。でもカカオっぽいコクと香りが非常においしい。エイジド・ビーンズというのにはまりそうである。

東京まで約1時間半、のんびりと電車に揺られて、ついた先は青山。大学のすぐそばにある小さな工房みたいな靴屋さんで、真新しい革とゴムの匂いがまるでチョコレートのように匂う品のいいブーツを買った。

夕方、夕食には少し早い時間だったけれど空腹を感じたので、近くのハンバーガー店でお気に入りのアボカド・バーガーを食べて、それからまた日比谷まで移動し、午後19時からの映画をゆっくり観た。ずっと観たいと思っていたけれど、忙しくて観に行けなかったショーン・ペン監督の『イントゥ・ザ・ワイルド』である。

…という文脈で観たことを前提にしておきたいのだけれど、それにしても心を貫かれた。

観終わった後の余韻が今も抜けなくて、正直、こんな言い方をすると「かっこつけているなあ」と自分でも思うんだけれど、それでも、今日一日頭の中に回っていたフレーズはこんなものだった。

クリスが僕に憑りついている。

いや、恥ずかしいけれど実際そうなのだ。

ほんとに彼は一日中どんな時間帯でも、ふと気を抜いた瞬間に都並の心に忍び込んできて、都並の目の前に薄いヴェールを広げ、都並の物質的に豊かな、なにごともない微温の生活を見えなくしてしまう。薄いヴェールには、彼の観た荒野が、生存だけが目的だったぎりぎりの状態から観た野生の世界が、まるで映画のスクリーンのように映し出されているのだ。

こんなふうに映画の世界に(ここではとりあえずそう言おう。クリス・マッキャンドレスの実際の体験はおいておいて)インヴォルヴされたのは久しぶりというか、正直初めてかもしれない。

長い間映画を観てきて、曲がりなりにも映画に関する仕事に就いていると、なかなか自分の中の「オールタイム・ベスト10」を更新することができなくなる。歳を取ると、新しいものを受け入れるのが難しくなるのだ。

それでもこの映画は、どれか他の映画を1本押しのけてでもベスト10入りさせたいくらいに、心に文字通り食い込んできた。

この1、2年観たもののなかでも、『カポーティ』、『ゾディアック』※、『潜水服は蝶の夢を見る』、『ノーカントリー』に充分匹敵するくらいの傑作だし、もしかするとそれを凌ぐかもしれない。

※ これをここに入れるのは異論があるかもしれないけれど、どちらも実話を基にしたお話ということで、後の記事で共通性を議論したい。

実際、こうやって記事を書いている間も、どこかの荒野で、都並に見える風景の、視線の先をずっと辿っていった先にある土地で、クリスが生死をかけて戦っているような気がする。その彼のことを考えると、なんだか心臓に重たい石をねじ込まれたような気持ちになる。

…それにしてもこの映画のどこに、こんな素晴らしい力があるんだろうか。

(2)に続く。

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気になるストッキング

福助というもともと足袋を作っていた会社から押切もえさん、蛯原友里さんとのコラボで発売されている「f*ing」というストッキング…。

あのう…f-ingとかeffingって、"f***ing"のことなんですけど…。

これって天然なんだろうか。それとも意図的なものなのだろうか。

HPを見るかぎりだとFukusukeとかFashionableの意味だと書いてあるだけなので、天然なのかなあ、と思う反面、モノがモノだけに、そういうほのめかしは故意のものなのかしら、とも思ったりする。

もし作為的なものだとしたら、蛯原さんもずいぶん思い切った味付けをしたものだ。

30代英語教師の戯言でした。

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秋の日、新しいブーツを迎えに行く

Vfsh0461ここのところ僕の住んでいる町は急速に秋めいてきた。ついこの前まで真夏日だったと思ったら、いきなり気温が下がって、ここ数日20度前後をうろうろしている。

去年はどうだったかな、と思い日記(ブログ)を読み返したら、意外にも、と言おうか、9月30日の時点で同じようなことを書いている。読み返してみたら、「ああそうか、そういえばそうだった」と去年のことをぼんやり思い出した。それまで住んでいた関西が、秋らしい秋もないまま気づけば12月、というような気候なので、新鮮に感じたのだった。

ということで二年目の秋を迎える今年は、「この地域ではこれがふつうなんだな」と思い始めている。

もっとも、今年は去年と違って観測記録を更新するような炎暑ではなかった。その意味では去年よりもしみじみとしっとりと、秋を迎えている気がする。去年はなんだか、焼け付くような陽射しの下から慌てて木陰へと避難するような、そんな慌しい秋の始まりだったけど、今年の秋の訪れは去年よりずっと穏やかだ(まだ台風来てるけどさ)。

そんな中、このところずっと抱えていた(<そのせいでブログの更新もままならなかった)、ある学会の事務仕事と別の学会の研究発表が無事終わったので、東京までブーツを迎えに行ってきた。

ブーツとは、都並にとっては特別なカテゴリである。単なる靴とは違う。

もとより僕は人並み以上に靴好きなので、玄関のシューズボックスの半分以上を僕のスニーカーやら革靴やらが占拠しているわけだが(これは奥さんの靴よりも多い)、その中でもブーツは特別な位置を占めている。単にかさばる、という意味ではなく、象徴的な価値を持っているということだ。

たとえば、ちょっとやそっとでは壊れないタフさ(英語にはtough as old bootsという言い回しがあるそうです)、それからどこへでも、荒野にでもずんずんと踏み入ることのできる頼もしさ、力強さ、多少汚れてもなりふりかまわず突き進めばいいんだ、という美学、そういったものは「男の子」には不可欠なものだと思っているのだが、僕の中でそういったクオリティを象徴するのがブーツなのだ。

そう、「男の子」はみんなすべからく心の中に荒野を持つべきなのだ(うわーかっこいい)。

ということで、今も仕事場でもふつうにブーツを履いている。冬場はナイキ・エアの方が保温効果があるのでついついサボりがちだが、よっぽどいかついブーツでなければ、パンツの裾に隠れてしまえばふつうの革靴にも見えるので、講義でもゼミでも会議でもぜんぜんブーツで出動する。

ところがこの秋は、長年愛用していたブーツ(最上段画像)がそろそろ耐用の限界に達しつつあった。ヒールがずいぶんと磨り減り、そのままだと足腰を痛めそうになってきた。シューレースを引っ掛ける金具もひんまがり、パンツの裾に引っかかることが多くなった。アッパーの革もだいぶやれてきた。

ということで、後継者のブーツを探していたのだけれどもこれが一筋縄では見つからない。もとより上に述べたような思い入れがあるので、中途半端なものでお茶を濁したくない。本当に気に入ったものでないと、心が落ち込み、逆にエネルギーを奪われてしまう。

ということで今年は、夏のうちから雑誌と店舗で新人くんのスカウトを始めた。二ヶ月くらい、いろんなところのいろんなブーツを見て、ブーツにも男の子の美学にも何の思い入れもない奥さんの客観的意見を聞きながら思い悩んだ。

途中、いくつかの候補が都並の心中を回転寿司のように通り過ぎていった。CAUSE(コーズ)のマウンテンブーツ、ベタだけどティンバーランドの新作、10年の時を経て再び穿くかレッドウィング(ベックマン・ブーツのチェスナット)…。

どれもしっくりこない中、偶々「TO & CO.」さんのHPにて理想の相手を発見。気がついたら青山のお店に電話をして、取り置きをお願いしていた(今回、メディアに露出しているものが売っている店に直接アプローチできる、という東京圏の良さを実感した)

Vfsh0462 それがこのmontish bootsである。パンチングのメダリオンが一見遠目にはトリッカーズのカントリー・ブーツふうだけど、ところどころ小技が利いている。

ステッチ使いもかわいいし(とは奥さんの弁)、ソールは歩きやすいクレープソールになっている。くるぶし部分の切り返しはグレン・チェックになっていて、座ったときなんかにちらっと見えるようになっているのだけれど、これはクロスではなくスウェードへのプリントである。

そのほか機能的にも、くるぶし部分の内側に表革を張っているので、足入れがスムーズだ。靴下に革の繊維がついてくる、ということもない。この内側の表革は、先代のブーツにもあった仕上げなのだけれど、これがあるとないとでは履き心地が大きく異なるので、実に嬉しく思っている。

これで価格は予算内の4万円以内。クレープソールも、磨り減ってきたら張替えが利く(10000円くらいだそう)というし、これから先何年も、大事に履いていこうと思う。

ということで、全面的にお気に入りのこの一品、今年の買い物の中で№1の喜びである。

品物がお気に入り、というだけでなく、急に気温の落ちてきた9月の末に、これからの寒い季節に足首から先をがっちり守ってくれるブーツを買いに行く、というこの季節感もなんともいえず心地いい。

ちなみにこの日は青山でブーツを買った後、クアアイナでアボカド・バーガーを食べて、それから日比谷シャンテ・シネでショーン・ペンの新作『イントゥ・ザ・ワイルド』(大傑作でした。レビューは別記事で)を鑑賞。

ずっと観たかったのだけど忙しくて観られなかったこの話題作、その中でもエミール・ハーシュが頑丈そうなブーツを履いていた。

一日を通じて、寒い季節の訪れを記念する、歳時記的な一日だった。

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ロケ地発見

Fl020013 先日、奥さんが夕飯の買い物に行くのについていったら、奥さんがこんな風景に目を止めた。

「あれ?あそこになんか建ってるよ。撮影でもするのかな?」

というので彼女が指差す方向を見やると、確かにハリボテの小屋が立ち並んでいる。

「ほんとだ、映画かな?」と都並。

わが町は古くから煉瓦製造が盛んで、街中にいくつも古い煉瓦造りの建物が残っている。そのため時々ロケ地に選ばれたりもするようで、今回もその類かな、とぴんときた。

しかしそのときはすぐに冷蔵庫に入れたい食材を買ったばかりだったので寄り道はせず、まっすぐ家に帰った。

帰ってから、どうにも気になるので、Tシャツに短パンというラフな格好のまま、カメラ片手に「もっぺん見てくる」と家を出た。

Fl020012近くに寄ってみると、確かにこれは何かの撮影だ。そこへ、台車を持ってたまたま通りかかったスタッフらしき人物がいたので訊いてみた。

「これは何か撮影されるんですか?」

「あ、テレビです」

「そうなんですか。写真撮ってもいいですか?」

「あ、今ならいいですよ」

ということなので、愛用のトイカメラで写真を撮ってきた。

Fl020014 よく見ると、ハリボテの骨組みに「警官の血」と書いてある。「ははーん、これは二時間ドラマの類だな、ちょっとした芸能人がくるのかしらん」と思いながら家に帰り、その旨を奥さんに報告した。

奥さんもそれを聞いて「ふーん」という返事。

それから何日かが経ち、昨日ふと思い出して「警官の血」と検索したら、これはなかなかすごい番組じゃないですか。江口洋介さん、椎名桔平さん、吉岡秀隆さん、伊藤英明さん、それから栗山千明さん、木村佳乃さんあたりも出るらしい。

それを知った我々は急に色めきたって「観に行こうか」などと盛り上がっています。特に奥さんは、今日日中見学しに行こうか、とけっこうその気になっているようでした。

Fl020010 ともあれ、「警官の血」(来年放送だそうです)をごらんになった皆さん、こういう風景が出てきたら、「ふうん。都並はああいうところに住んでんだな」と思ってください。当たらずとも遠からずです。

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秋の初めのTDS/IKEA(2日目)

[この日記はフィクションです。決して平日に遊びに行ってはおりません]

二日目の朝はゆっくり起きて、ホテルの上層階のラウンジでビュッフェ形式の朝食を採る。これはTDR周辺のホテルの朝食としてはちょっとおそまつな内容だった。少なくとも、入り口の立て看板に書いてあるような、2000円以上の値段をとるものではない気がする。

けれども僕と奥さんは格安プランで泊まっているので何ら文句はない。むしろ奥さんにとっては、久しく泊まっていないホテルだったこともあり、子供の頃のことを思い出して懐かしかったようだ。

それに、ラウンジの窓からTDRの駐車場を見下ろして、遠くに修学旅行のバスが到着しては白と黒の制服の集団を吐き出すのを眺めたり、あるいは駐車場の係員の悪ふざけか、三角コーンがミッキーのかたちに並べられているのを見下ろしたりしながら、特に急ぐでもなくゆっくりと採る朝食というのは、それはそれでなかなかに優雅でよかった。

チェックアウト後、我々にしては珍しく、パークを素通りしてJR舞浜駅へ。今日はIKEAで家の中のこまごまとしたものを買い足す予定である。

快速に揺られているとあっという間に南船橋に着く。いやはや、幕張メッセがあって、IKEAがあってTDRがあるということを考えると、京葉線はすごいなと思う。そのわりに周辺の街に住みたいとは思わないけれど。

IKEAではまず二階のフロアをメモを取りながら一周。歩きつかれてカフェで昼食。遅い昼食を採ったばかりでまだ腹ペコというわけにはいかなかったけど、それでも定番のミートボール(苔桃のソースがとてもよく合う)とチョコケーキを食べる。

平日とあって客層は小さい子供を連れたお母さんばかり。後は一部学生らしきカップルがいるばかりだ。こういうところで30代半ばのおじさんは浮いている。

食事を採って休憩した後、気合を入れて二階を二周目。そのまま一階フロアに下りて、キッチンクロスや収納ボックス、来客用ベッドサイドランプなどこまごまとしたものを中心に買い倒す。

へとへとになるまで買いまわって、宅配用の段ボール箱にちょうど一箱買って1万8000円弱。やっぱりIKEAは安い。

買い物が終了してまだ時間があったので、イクスピアリに戻って周遊することに。あわよくば、奥さんの秋のアウターを買おうという考え。とはいえこの段階で夫婦ともども疲れ切っていたので、まずはスターバックスで休憩する。

座っているうちに気絶しそうになったのを何とか気を取り直し、イクスピアリをぐるっと回ってはみたけれど、よさそうな商品もなく、夕食を採って帰ることにする。

イクスピアリ内のピザ専門店でナポリ風ピザとカルボナーラに舌鼓を打って(ここはなんだか、TDR利用客じゃない周辺住民も来ているみたいで、なるほどなかなかおいしかった)、ほうほうのていでJRに乗り、約2時間かけて家へ。帰りの電車の中では二人とも順番に気絶したのだった。

追記:11月にJR新三郷駅直結の「新三郷ららシティ」にIKEAがオープンするみたいですね。これからはそっちに行くことになるんだろうな。しかも同じ区域内にコストコもあるっていうし、それも会員になるんだろうな。どこまでもアン・フリードバーグのいうとおりになる私たち。

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秋の初めのTDS/IKEA(1日目)

[この日記はフィクションです]

Fl000003 毎日のように関東平野のどこかを集中豪雨が襲い、大雨洪水警報発令を告げるニュース速報がひっきりなしにTV画面に流れていた先週。

今週はその荒天からはうってかわって、関東平野はようやくの秋晴れを迎えている。晴れ渡った空は澄み渡り、空気はほどよく乾いて、気温も30度を下回る日が続き、風が何ともいえず気持ちいい。

この秋の良き日にじっと仕事をしている話はない、ということで、奥さんと連れ立って秋のTDS/IKEA1泊2日ツアーに出かけてきた。

初日はまずTDS。単に連休の直前の平日だっただけでなく、ちょうど夏のイベント(ボンファイヤー・ダンス※)と秋のイベント(ア・ラ・カルト)が始まる前の端境期だったこともあり(それを狙って行ったんだけど)、TDSはかなり空いていた。

※余談ですがボンファイヤー(bonfire)とは英語でかがり火のこと。これを盆踊り(Bon dance)とかけているわけで、英語のセンセイとしてはとても秀逸なネーミングだと思います。

そんな中、奥さんとパーク内をくるくる歩き回り遊び回る。自分たちでは

「あ、ミッキーがいるよ」「写真撮る?」「もう"いい大人"だからいい」

「もうすぐショーが始まるよ、座って待つ?」「もう"いい大人"だからいい」

と分別がある大人のつもりでいたけれど、きっと傍から見たらそのへんの10代20代のお客さんと変わらなかっただろうと思う。いや、むしろチップとデール(彼らはこの日も盛大に水を撒いていました)の方が近いかもしれない。

そもそも、この年になってTDRに行っていることが既に幼いのだ。思い起こせば今の奥さんとはじめてTDLに行ったのが8年前、2000年の9月14日だった。それからちょうど8年。まったく進歩のないことに自分でも呆れてしまう。

Fl000022 それにしても、この日はいい天気だった。「いい天気だった」という、ただそれだけのことなのに、それをうまく伝えられる筆力も何もないのが悔しいのだけれど、だいたい一年のうちに数日だけある、「生きてて良かったなあ」と思える日、自らの過去に思いを巡らせ、過ぎ去った年月を静かに噛みしめる日、「一年中今日みたいな天候だったらいいのになあ」と思える日、それがこの日だった。

Fl020025 あまりの好日に、愛用のトイカメラをぶんぶん振り回し、今までに何度もフレームに収めてきた風景をフィルム三本ぶん撮り倒してしまった。

一日中遊びまわって日が暮れて、夕食はインディ・ジョーンズの隣にある「ユカタン・ベースキャンプ・グリル」で採る。

これが、単にテーマパークの中のレストランでの(ある種間に合わせの)食事、という枠を超えて非常に気持ちよかった。半野外のテーブル席からは群青の夜空に秋の半月が青白く煌々と輝くのが見え、日中に火照った肌を冷ますように夜風が吹き渡り、(リアルな)鈴虫の声を運んでくる。

先日、関西の友人たちでは燻製合宿なるアウトドア・イベントがあったらしいけど、それには関東から参加できなかった都並としてはまさにタナボタ的な僥倖である。

あまりの気持ちよさに、奥さんと「将来こんなふうに軒先で食事採れる家に住みたいね」などと話す。思えば8年前にもウェスタン・ランドで同じようなことを言っていたような気がする。

とことん進歩がないわけだが、それでいいのだ。

と見上げれば、「うんうん、それでいい、それでいいよ」とお月様も言っているような、そんな秋の夜空だった。

Fl020040 この後はハーバーで(なんと今年初めての)花火を見て、インターネットでとった格安のオフィシャル・ホテルに逗留。まさに命の洗濯をした秋の好日であった。

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フランス映画とカレーとドーナツ(ver.9.8)

9月に入って当大学では連日の会議。

あまりに会議ばかりで気がふさがるので、金曜日は趣味と実益をかねて(もともと趣味と直結した仕事なんだけど)有楽町朝日ホールでやっている「フランス映画の秘宝 シネマテーク・フランセーズのコレクションを中心に」に行ってきた。

この日見たのは2本。クロード・オータン=ララ監督の『パリ横断』(1956)と、ロジェ・レーナルト監督の『最後の休暇』(1947)。

どちらも、アメリカ映画のマニエリスムにどっぷり浸っている都並みたいな人間にはとても風通しがいい作品で、楽しく観ることができた。

特に、『パリ横断』の脚本はオーランシュとボストなのだが、この作品が面白かった、ということは都並にはとても意義があった。

というのもこの2人、フランソワ・トリュフォーがヌーヴェル・ヴァーグの誕生期に「フランス映画のある種の傾向」という論文で「良質の伝統」という名の下に(要は「つまらん」「我々の実生活に即していない」ということで)けなした脚本家である。

これまでこの論文だけを読んでいて、かつトリュフォーの作品だけを観ていた都並は「ふうん、そうなのか」と想像だけで判断してしまっていた。けれども、実際に『パリ横断』を観てみると、ちゃんと面白いところもあることがわかる。

それも、単に面白いだけじゃなくて、終戦から10年ちょっとでナチ占領下の時代のコメディを作っていることの不穏さみたいなものも感じる。

要はちゃんと評価するに足るわけで、それを観ずして一方的にトリュフォーのいうことを鵜呑みにしていてはいけなかったのだな、ということがよくわかった。

この後は「開会式」とかでジャック・ドワイヨン監督が挨拶するということだったけど、御尊顔を拝見せずにそのまま退場。

会場には知人の某先生(この催しのことを「有楽町の秘宝館」と仰っていた。うまい)もいたのだけれど、人ごみにまぎれて挨拶できなかった。

知人といえば、この催しで座談会に登壇される映画監督の青山真治さんも足を運ばれていた。が、こちらは一方的に顔を知っているだけなので特に挨拶はしない。

要は、孤独に映画を観ただけである。

それにしてもこの催し、もっと専門家や若い映画ファンが集まるかと思いきや、そういった客層は一割程度で、後は有楽町的なというか銀座的なナイスミドルばかり。意外な客層だった。

映画を観終わった後はマリオンやらイトシアやらをぶらぶら。秋冬ものの洋服を見て目の保養をする。またぞろブーツやらレザーやら物欲の虫が騒ぎ出すけれどここはぐっとがまんして何も買わない(もうブーツは2足ほど欲しいのを見繕っているんだけど)。

Vfsh0451_2代わりに、というわけではないけれど、うちへのお土産に有楽町イトシアB1Fの「クリスピー・クリーム・ドーナツ」を購入。

平日の、まだOLさんやらサラリーマンさんが職場を出る前の時間帯だったこともあったけど、お店は意外に空いていた。

混んでいるときにはお店の外まで並ぶ行列がなんと店内で完結していて、待ち時間は正味30分を切るくらいだった。混雑を緩和するための「中身は選べないけど詰め合わせ12個」という「アソート」の列なんてほとんど待ち時間ゼロだった。

これは、いっときの混雑ぶりに比べると大きな違いだ。

さらに驚いたのは、いつも配ってくれるオリジナル・グレーズド(行列中に試食と称して一個まるまるくれる)を断るお客さんがいたことだ。以前ならこれをお目当てに並ぶ客もいたのに。

いやはや、このままブームが沈静化してくれることを願う。

Vfsh0449_2結局この日は8個買う。それにしても、このお店のレイアウト(行列中に、画像のようにドーナツが大量生産されている様子を見学できる)って、なんか購買欲をそそるというよりも、大量生産・大量消費を風刺されているような気がしなくもない。

次々と揚げられていくドーナツの行進と、それを買い求める、比較的ひまでミーハーな客の行進。なんか『いのちの食べかた』のなかのワンシーンみたいだ。

いや、こんなお店けっこうふつうにあるか。失礼失礼。

Vfsh0450 ドーナツを買った後は、同じイトシアの「東京カレー屋名店会」で夕食。前からずっと気になっていたのだけれど(だってこのフロア全体がカレーの匂いなんだもん)初体験である。

ここは都内の5店舗が共同出店、カレーもこの5店のものが選べる。セットも可能で、この日はインド風のカレーが食べたかったのでCセット(エチオピアとデリーのセット)にした。これが納得のおいしさだった。

エチオピア(左の黒い方)の名店会オリジナルカリーは、スパイスにくわしくないのでうまく説明できないけれど、関西だと大阪の「食堂玄気」や京都の「かれいはうす沙羅」に似た、爽快な辛さのスパイシーなカリー。

対してデリーのバターチキンはバターのこくとトマトの酸味があいまって食欲をそそるカレー。

あまりのおいしさに、食事中隣に入ってきた母娘連れが「何にしようかな…辛くないのがいいのよね」と言っていたのを聞き、「なら、Cセットがいいですよ」と突然話しかけたくらいだ。

…というのはうそだ。話しかけはしなかったけど「ならCセットにすりゃいいのに…」と心の中で念じていた(気持ち悪い客だ)。そしたら、ほんとに「Cセット2つ」と言ったので「それ正解。お母さんそれ正解」と今度も心の中でつぶやいた(ほんとに気持ち悪い客だ)。

都並の気持ち悪い思考はさておき、このお店、非常にカジュアルなスタンドなのですが、カレーは本気だと思います。後3店舗は今後の楽しみにとっておこう、と正直思いました。

カレーを食べ終わって時計を見たらまだ7時。でも奥さんも家で(ドーナツを)待っていることだし、この日は帰宅。

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youtubu(腰痛部)

今朝目が覚めたら、腰が痛い。

特に何をしているわけでもないのに、腰が痛い。

これはやはり、連日の会議のせいか。ついに我々の世界の職業病が僕にもやってきたのか。

ふつうに立ったり歩いたりしていると痛くもなんともないのだけれど、前かがみになると痛いし、足先の痺れもある。

これはヘルニアの前触れか…と戦々恐々としつつ、他にどうしようもないので湿布を貼ったり塗り薬を塗ったりして安静にしている。

それにしても厄介なものが訪れたことだ。

後々の備忘録として書き付けておく。

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レビュー:『ダークナイト』(ちょっとネタバレ)

Vfsh0398ところどころで評判を聞くので、これもレイトショーで観てきた(画像は先日幕張メッセの「スター・ウォーズ・セレブレーション」で撮ってきたトイメーカーのブースのもので、映画本編のものではありません)。

なんだかんだ言って(まだ何も言っていないが)『バットマン』の映画は実は全部観ている。その中でも前作『バットマン・ビギンズ』が個人的にはいちばん面白かったという印象が残っている(のだがそれがなぜなのかは実は説明しにくい)ので、これは観ておかなければならない、と思ったのである。

ところで観に行くまでは「ええー、もうジョーカーのエピソードをリメイクしちゃうの?ティム・バートン版から早すぎない?」と思っていたのだが、実はあれは1989年のことなのですね。そうか、もう20年も経っているんだ。

閑話休題。結論から言うと、これはとても面白い、高度に造り込まれた傑作だと思うけれども、どこかアンバランスな映画のような気がする。

というのは、まず上映時間が長い。しかもその間にジョーカーの逮捕劇が二度繰り返されるので、基本的なハリウッド映画のパターンを逸脱してしまっている。これは、観るものにとっては(都並のことですが)、ディナーのコースを楽しんでいたら、デザートまで食べたのにもう一度魚料理>肉料理と繰り返されたようなもので、おなかいっぱいになってしまった。

さらに言うと、これはアメコミ・ヒーローの映画ではない、かもしれない。アメコミ・ヒーローというと『スパイダーマン』を筆頭に『X-MEN』シリーズ、『ファンタスティック・フォー』の2本、『ハルク』と『インクレディブル・ハルク』、『アイアンマン』やついでに言うと『ハンコック』までが、映画の中ではこれ見よがしにCGIによるスーパーヒーローぶりを発揮しているわけだが、この映画ではバットマンはあくまで肉弾戦で、主としてすばやいキャメラの動きを借りてスピード感と緊迫感を出しつつ、戦っているし(もともとただの体の頑丈な人間という設定だからだが)、戦闘以外の部分でもCGIはごく一部(飛行場面など)に抑えられている。しかも極力目立たないように使われている。

そこでこんな喩えを思いついた。スパイダーマンがCGIで戦うジャッキー・チェンだとしたら、新しいバットマンは、あくまでキャメラ・ワークで戦うブルース・リーなのだ。

この違いが最も分かりやすいのは、両者の去る場面だ。スパイダーマンはストリングを射出してビルの谷間に消えるのだが、バットマンはあくまで「キャメラが彼がいるはずの場所を再び映し出したらもういない」という去り方を好むのである。

この比較的ローテクな戦闘方法とあいまって、今回の敵役ジョーカー(ヒース・レジャーは聞きしに勝る熱演だったが)の戦いと言ったら、もうただのテロリストだ。冒頭の銀行強盗、それからビル爆破、フェリーや病院の爆破予告と、これは何かに似ている、と思ったら『ダイ・ハード3』に酷似しているのだ(あちらはNY、こちらはシカゴだが)。

だからこの映画は、アメコミのキャラクターが出てくる犯罪アクション映画なのだ。だからこそ、シカゴの高架道路を利用したカーチェイスが必要となってくるというわけだ。僕がアンバランスだというのはこの点で(もっとも、こういったジャンルの混交は、古びたフォーミュラの刷新のための手法としては昔からあるもので、ハリウッドのお家芸とも言えるものだが)、そのせいだろうか、映画の鑑賞中に何度も「この耳のつんと尖った突飛なスーツ着てる人、浮いてるな」と思ってしまった。

※カーチェイスといえば、この場面、都並の「観る力」が足りないのかちょっと全体の(ジョーカーとバットマンと警察の車の)位置関係がよくわからない。この点はちょっとノーランの撮り方が下手だと思う。

もっともこれは、現代的に、リアリスティックに、という路線を突き詰めた必然的な結果だと思うし、その狙いは概ね成功していたのだろうと思うのだけれども…しかしバットマンのスーツだけは、前作でいかに理由付けをしようとも、リアリスティックな産物ではないので、映画全体としては違和感と紙一重の新鮮さをかもし出していた、とでも言えばいいだろうか。

他にも気になったことをひとつ。音楽である。過去のティム・バートン×ダニー・エルフマンの『バットマン』が、プリンスの楽曲にしてもあの有名なエルフマンのスコアにしても、音楽をやたらと前面に押し出してくるものだったのに比べると、今回は、ハンス・ジマーとジェイムズ・ニュートン・ハワードという有名どころを二人も使っていながら、彼らの作った楽曲が鑑賞後にひとつも耳に残っていないのである。

これはしかし欠点ではなくて、ハリウッド映画のお得意の「聴かれない(unheard)音楽」を彼らが突き詰めた結果であろう。パンフレットのプロダクション・ノートを見ても「ファン・ファーレのようなブラスの使用を避けた」(ここで言っているのは明らかにエルフマンのスコアのことだ)と明言しているし。

いずれにせよここにも新しい『バットマン』のスタイルがあるのだろうな、と思った。

最後に、マギー・ギレンホールさんの悪口を言いたくなるのを避けて、ゲイリー・オールドマンの(もちろんヒース・レジャーも)名演に拍手を送りつつ、評価であるが、89点。90点にはちょっと何かが物足りない気もするが、きっとこの映画は、2008年の今異常な高まりを見せているアメコミ映画化作品の中でも特異点となるものだろう。

Vfsh0397 さあ、次は『アイアンマン』だ。いやその前に『クローン・ウォーズ』も観ねば。『TOKYO』も気になるし…夏休みは公開本数が多くて大変だなあ。

追記:今回中国企業のボスが出てきたのには驚いた。中国=経済的大国という認識はもはやハリウッドでも定着しつつあるのかな、とか、アン・リーやジェット・リー、ジャッキー・チェンなどの(いまさらの)輸入の影響もあるのかな、とか、あの役は80~90年代なら日本企業の役どころだったのかも知れないな、などと色々と考えてしまった。

『ディスタービア』に韓国系の友人が出てきたときと同様に、これもアジア系の表象のひとつの転換点になるかもしれない。

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使えるバッグ/使えないバッグ

ここ二、三日、北関東はやけに涼しく、気温も20度前後をうろうろしている。こうなると観測史上最高気温を更新していた昨夏が嘘みたいだ。

それと引き換えに、というべきか天気はあまりよくなくて、ここ二日はずっと雨が降っている。仕方ないので長袖のTシャツを引っ張り出してきて、書斎で原稿仕事をしたりしなかったり。

Vfsh0442 そんな近況とはぜんぜん関係なく、今日はカバンについて書く。先日、京都駅の伊勢丹によったら、ROOTOTE×Disneyのコラボバッグ(正確にはThe Artists Who Love Mickey & Minnie×ROOTOTEのバッグ)を盛大に売っていたので、特に買う気はなかったのだけれど「なになに」と覗いてみた。

そしたら、どこかで見たことのある絵柄のモデルがあった。そう、『GOLDEN EGGS』(日産NOTEのCM)でおなじみの文原聡さんのモデルである。このミッキーが、なんとも気持ち悪い顔をしていてかわいかったので(俗にいう「キモカワ」だったので)、はずみで買ってしまった。こっちに帰ってきたら丸ビルでも売っていたのだけれど。

Vfsh0441 裏面はこんな感じ。

ROOTOTEさんのバッグは、現在都並の仕事用として愛用中であるが、「ルーポケット(ここ参照)」という貴重品用のジッパーつきミニポケットが使いやすく、おまけにたっぷりと入るので気に入っている。

都並は仕事柄、DVDや洋書など大き目のものを持ち歩くことが多いので、ふつうのブリーフケースではしばしば荷物が入りきらない(といいつつかつてはいっちょまえに書類鞄を持っていたのだが)。となるとトートの収納力がちょうどよく、しかも誰も見咎めたりしないので(もしダメ出しされるなら、ジーンズやスニーカーがまず指摘されるだろう)今後はこれで行こうと思う。今使っているものの表地が麻素材で、春夏用といった趣なので、秋冬用にはツイードとかフランネルのものを買い足そうかとさえ思っている。

などといいながらこの写真のモデル、サイズがとても小さく、札入れを入れるともういっぱいいっぱいである。多分お昼休みのお出かけ用、などの用途を想定しているのだろうけれど、さすがの都並もお昼休みに学食にこれで行ってもいいものだろうか、とはちょっと悩む。といってプライヴェートで使うには小さすぎるし…勢いで購入したものの、はっきりいって今はちょっと困っている。

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恐怖のポニョループ(レビューのようなもの)

このところ大気の状態が不安定であるが、この日は夕方から大雨だった。

あまりに激しい降りで奥さんが駅まで車で迎えに来てくれた。その後夕食を外で採る予定だったのもある(本当は僕が学生と食事に行く可能性があったのだが、学生の気まぐれか深層心理での嫌悪の表れか当日キャンセルになったので、その場で奥さんにメールして二人で外食に行くことにしたのである)。

そのまま、調子に乗って近所のシネコンで『崖の上のポニョ』のレイトショーを観てきた。

内容と感想について書く前に、この映画について友人のcicaさんから課題をいただいたのでまずそれについて書く。

それは、なぜ幼児はこの歌を歌うのか、それも「崖の上に、やってきた♪」までのところを無限ループで、さらにいうと歌詞も間違ったままで歌うのか、について考察せよ、というものである。

というのも、都並自身もcica女史も、ごく最近お互いに別々の場所で(たまたまどちらも新幹線の中だったが)このような大変うっとうしい(僕は子供は大好きだが、際限なく繰り返される過ちというものには不寛容だ)経験をしたのであった。

とはいえそんな課題を出されても、都並は発達心理学とか音楽教育の専門家ではないので、何を言おうとそれは所詮推察の域を出ないのだが、けれどもcica女史との長年の人間関係には有無をいえないものがあるので、やむなく考察してみる。

これには問題点を三つに分ける必要がある。その上でそれぞれに解答を考えてみる。

問題点①:なぜ幼児はこの歌を歌うのか。

解答(1):幼児は常日頃からオノマトペ(擬音・擬態。ポーニョポニョポニョ)に慣れ親しんでいる。そういう音楽教育を受けている。例)ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、ぶんぶんぶん、ハチが飛ぶ

解答(2):同じ幼児(大橋のぞみ)の歌声にシンクロしている。発達心理学の世界では、赤ちゃんは別の赤ちゃんの泣き声に誘発されて/共鳴して泣く、という可能性が指摘されている。

解答(3):「きらきらぼし」と同じで、4小節で上がって下がる旋律が覚えやすい。これは都並が音楽的素人の癖にいきがって考えたことなので、厳密には間違っているかもしれない。いやきっと間違っているだろう。都並の音楽的素養は小学校で止まっているのである。

問題点②:なぜ幼児はこの曲を無限ループで歌うのか。

解答(1):そこしか予告編でやっていない。

解答(2):運悪くそこまでで循環するメロディである。

解答(3):新幹線の車内はひまだ。

問題点③:なぜ歌詞を間違うのか。

解答(1):幼児の言語能力の限界。歌詞を覚えられない。

解答(2):「崖」という単語が、幼児の日常の語彙の中にない。「お母さん、今日幼稚園で先生と崖を見に行ったよ」という文章の非日常性を考察せよ。

解答(3):「崖の上にやってくる」という行動が幼児の日常生活のスクリプトの中にない。幼児はもし日常生活の中で崖に何らかのかたちで接しているとしても、たいていの場合崖の上にてそうするのであり、崖の下にてそうすることはまずない。したがって、「崖の(下から)上に」というスキーマが幼児には理解できない。

ということである。いかがだったでしょうか。

肝心の課題を果たした後で、『ポニョ』について考えてみる。

まず、ジブリ・アニメ全般を論じる難しさについて触れておきたい。

ジブリアニメというのは今も昔も基本的には(『ナウシカ』なんて僕が小学生のときだ)賛否両論を誘発するものである。尤も、昔は一般的には高評価だったのが昨今では一般的にも票が割れる、ということはあるにせよ、映画ファンにとってはなんとなく「ひとこと言いたい」しかも「他人とは違うことを言いたい」という気分を誘発するものなのである。

それはおそらく、見かけの分かりやすさ/ポピュラリティと、その裏側に隠れている(つもりでまるで隠れていない)得体の知れなさみたいなものが共存しているからだ。これはとりわけ『もののけ姫』以降に顕著な傾向だ。

こういう前提に立ったとき、ジブリアニメは「『ポニョ』は大人気だけど本当は失敗作だ」とか「『ポニョ』は批判されているけど絶対的に素晴らしい」という議論がしやすい作品だということになる。なぜかというと、ジブリアニメは、上述の相反性を持っているために、どちらの議論にも証拠を提供する作品となっているからだ。

しかしこういう議論をすることは(なんとなくそれが知的な身振りだということになっていたりするけれど)、物事を単純化しすぎる危険がある。

だからここでは基本的に「いいところもあるし悪いところもあるんじゃないの『ポニョ』」という姿勢をとるつもりである、と予め言っておきたい。その上で、みんなが気になるだろうところについて自分なりに考えたことを書く。

①アニメーションの技法について。

今回、原点回帰とも言える手書き風アニメーションを選択したわけだけれども、これは個人的には成功だったと思う。エリック・クラプトンが『アンプラグド』をやったときのように、CGI全盛のこの時代に、この技法の持つ可能性を示してくれたと思う。

特に、手書き風でありながら、しっかりとその空間の中にいる雰囲気を感じさせてくれたことには驚きを感じている。そんなことを言っても個人的な印象に過ぎないわけだが、この一見矛盾するふたつの効果がどうして達成できたのか、ちょっと考えてみたくなるものであった。

②音楽について

監督自身が製作中にワグナーの『ワルキューレ』を聴いていたからだとは言うものの、今回久石譲さんの音楽が全面的にオペラで、しかもそれが全編を通して鳴りまくっていたのにはびっくりした。クインシー・ジョーンズじゃなかったのか。

③ストーリーの説明不足について

あちこちで指摘されているように、明らかにいろんなことが説明不足だ。

しかしこれは好意的に捉えたい。東浩紀さんが著書『動物化するポストモダン』で述べていたところによると、我々の世代の物語消費というのは「データベース型」だという。

難しい議論は置いておいて、東さんの議論を僕なりに解釈すると、つまり我々は、どんな物語でも物語内の個々のディテールを検索し、それに自らの物語的データベースから情報を補って物語を理解している、ということになる。

逆に言うと、そういうデータベース内の情報を参照させてくれるかぎりにおいて、ディテールが歓迎される、それが「データベース型消費」なのである。

たとえば「眼鏡」というディテールがある登場人物に用いられたとき、それはあらゆる「眼鏡男子」「眼鏡女子」というカテゴリー内の情報を想起させる。

同様に、大きくなりすぎた月や世界の破滅、命の水といった説明不足なディテールも、我々が自らの物語経験の中から情報を補って楽しめばいいのである。

簡単にいうと、自由に想像を膨らませればいいのである。

この点においてこの映画は黒澤明の『夢』に似ているな、と思った。どちらも名監督が老境に至って作った映画、というところも似ている。年を取ると夢幻的なものを志したくなるのだろうか。

④ポニョがかわいいかについて

この映画はなんといっても、ポニョ(と宗介)がかわいいか、ふたりの感情に乗っていけるか、に大きく左右される映画だと思う。それによって映画の評価が大きく変わってくる。こんなにも説明不足な映画なのだから。

個人的には乗っていけた。おかげで映画館を出たときに心が洗われた思いがした。でもその一方で、他の人のレビューを見ると「ポニョが気持ち悪い、生理的に怖い」という人もけっこういるみたいである。

これはなぜなのか。例えば僕がキティちゃんやスヌーピーをまったくかわいいと思わないのと同じで、「かわいさ」のツボが個人個人で違うのだろう。でもそれがゲシュタルト心理学で説明できるものなのか、先天的なものなのか、後天的なものなのかについてはわからない。

が、映像の造形が観客の受容に影響を及ぼすということの好例にはなるだろう。例えば昨日(8月26日)『ダーク・ナイト』を観てきたのだが、マギー・ギレンホールが個人的にはきれいだと思えないので、どうしてもこの映画の恋愛のプロットに乗っていけなかった。同様のことは『スパイダーマン』のMJ(クリスティン・ダンスト)にもいえるのだが。

…などと小難しいことを言いながら、恒例の評価であるが、80ポニョ。たぶん子供ができたらDVDを購入するだろう。

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いただきもの2008夏

080807_1143まずは北島康介選手、世界新での金メダル、おめでとうございます。

実生活での都並をご存知の方はお分かりだと思いますが、都並はプロフィール上彼と「ある共通点」があるので、屈折した自己愛の反射というか、非常に肩入れして応援していたわけですが、無事当初の目標を達成できてほんとに自分のことのように嬉しいです。これは正直、阪神優勝に匹敵する嬉しさです。

ま、我が事のように嬉しいとはいっても、こっちは何事につけ彼ほど努力はしてないわけなんだけれどさ。

Vfsh0429それはさておき、昨日はNY~ダラス~LAと研修に行っていた義弟くんが、お土産を持って遊びに来てくれた。

ということで、いろいろ最近いただいたものを書きとめておくとともに、ここでお礼を申し上げておきたいと思う。

一番上の画像は、奥様のOL時代のお友達でこのブログにも時々登場するT子ちゃんから先週いただいたもので、信州の桃10個である。

これは奥さんのリクエストだったみたいだけれど、非常に甘さと香りのバランスがよく、おいしくいただきました。

強度の小麦好きである奥さんは実はかなりの桃好きでもあり、桃については忘れられぬエピソードがある。

あれはまだ奥さんと結婚する前、別々に暮らしていた頃のこと。ある夜、一日の仕事を終えて独り暮らしのアパートの鉄骨の階段をかつこつと上っているときに、ふいに奥さんからメールが届いた。

「今お風呂から上がって桃を食べています。とても甘くておいしいです。世界の終わりに何を食べるときかれたら私は桃だな。桃桃」

その、何も訊ねてないのに自ら答える、という全体の内容もさることながら、何よりも文末に奥さんの動物的な喜びが力強く現れていた。「桃桃」とただその名称を連呼するだけの、文にもなっていない荒削りな野生の叫び。

おかげで僕は桃のことを考えるといまだにあのアパートの鉄骨の階段が脳裏に浮かぶ。

ともかくそんなわけで我が家では、この時期、桃の季節はちょっとしたフィーバーである。スーパーに足繁く通い、店頭の桃を夫婦して仔細に吟味し、時には匂いまで嗅いで確かめ、朝な夕な食卓に桃を欠かさぬようにしている。

その桃好きの夫婦ではあるが、この桃は普段食べている桃とは違った。普段の桃が渡辺直美だとしたら、ビヨンセくらいの味わいだった。あまりのおいしさにT子ちゃんにメールにて感謝を伝えるとともに、奥さんに「来年も頼むように」と念を押す。

Vfsh0432 二つ目の画像は義弟くんのアメリカ土産。『ハムナプトラ』シリーズのブレンダン・フレイザー主演で3D映画化された『センター・オブ・ジ・アース』の読み物と、『インディ・ジョーンズ』のスティッカー・ブック(シール付絵本、のようなもの)、それから『ダーク・ナイト』も話題のバットマンとジョーカーのペッツ、である。

080811_1206 ペッツはさっそく研究室に飾らせていただきました。研究に関係あるから、とかなんとかいいながら、うちの研究室の本棚はこんな玩具でいっぱいです。

それにしても、30過ぎの義兄にこういうお土産を買ってきた義弟くんの心境っていかなものだったのだろう。センスとしてはど真ん中ストライクで嬉しいのだけれど、お義兄さんとしては失格ではないかと若干気にならないではない。

Vfsh0431合羽橋にてロウ引きの袋をまとめ買いしたりするのに喜びを覚える奥さんには、向こうのランチョン・バッグ25枚セットをもらった。これも「お姉さんのことをよくわかっているなあ」というチョイスである。

25枚「セット」というのは、1枚ずつ絵柄が変わっていて、これを持っていく小学生とかが、お昼休みに知識も身につけられるようなトリビアが書いてあるのである。この一番上の絵はシマウマで「シマウマの縞は一頭ずつ違うんだよ。指紋みたいにね」とか書いてあるわけである。

他には「サイの角はケラチンでできているんだよ。これは僕らの髪の毛や爪と同じ材質なんだ」とか「ケープ・バッファローはとっても社交的な動物で、2000頭もの群れで移動するんだ。彼らはとても仲良しなので、お互いの頭を枕にして寝たりもするんだよ」とか、大人の都並でも「ふーん、へえー」とマジで勉強になることが書いてある。

Vfsh0430 それからこれは向こうのスーパー・チェーンのショッピング・バッグ。さすがにド派手だ。わが国のどこかのチェーンみたいに八分音符がふたつ描いてあるだけ、というのとは違う(値段じゃなくてこういうトリビアルなものこそが我が家的にはツボなので、お友達の皆様も海外旅行の際にはよろしくお願いします)。

このほか『ライオンキング』のパンフレットなどもいただきました。ありがとうございました。

Vfsh0383 最後は、お中元にもらった佐藤錦。某所のお嬢さんに卒業祝いを贈ったらお返しにいただいた。ちょっと前のできごとだけど、写真を撮っておいたのでここに書き記しておこうと思う。

これも大変おいしくいただきました。ありがとうございました。

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やっぱりナイキには敵わない(ver.8.27)

(この日記の内容は8月27日に二度目の改稿をされました)

いよいよ今日は北京五輪の開会式ですね。とりあえず、チャン・イーモウが演出の開会式は録画予約しました(8月11日追記:録画しつつ、結局全部観てしまいました。セレモニー部分は、内容的にはいいたいこともあるけれど、さすがの迫力と美しさには唸らされました。入場行進は集中力が途切れて疲れましたが、最後の聖火ランナーにはふたたび度肝を抜かれました)。

北京五輪といえば、開会式に併せてナイキさんがドロップしてくるこの新ライン、「Nike Sportswear」(prelaunchサイトなので開会式以降リダイレクトされるかもしれません<8月11日追記:開会式以前と以降では違うサイトになっています)、以前から各媒体で情報は得ていたものの、相当気合の入ったものになっていますね。

その世界では大御所のヒップホップ・バンド、「ザ・ルーツ」のクエストラヴとのコラボ・モデルがある一方で、明らかに「鳥の巣」をモチーフにしたエア・フォースⅠ、五輪カラーのダンクなど、相当オリンピックを意識したモデルが多いのにびっくり。

でも一時のにぎやかしではなくて、NYに旗艦店もできるというから本気なんでしょうね。

個人的にはこのラインの上っ張り(画像はないんだけど、ウインドブレーカーとか、中綿入りのM65とか)が、ナイキ独特のつるんとしたハイテク的デザインを一ひねりした、なかなかありえないセンスで格好いいので一枚欲しいなあと思ったり。

日本にはいつどのくらい、どんなふうに入ってくるんだろう。

8月27日追記:先日お盆休みに京都は四条通のナイキに行って訊いたところ、一点NSW(Nike SportsWearの略称だそうです)のウインドブレーカーが入ってきているとのこと。2本ではこういうふうにふつうにナイキの店頭に並ぶのでしょう。

まるで30代の研究者とは思えないブログだ。

追記:ナイキのサイトでは他にも、自らデザインしたDUNKを各国のユーザーのデザインと投票で戦わせることのできる「KICKSCREATOR」というサイトが熱いです。参戦するには登録しないといけないのですが(ユーザーの囲い込みうまいなあ)、今までNikeIDでシミュレートだけして遊んでいた人には、さらに自由度が高く(素材のテクスチャーやグラフィック系のテンプレートが充実している)このサイトがお勧めです。

僕もすでに登録し、いくつかのダンクを参戦させました。

8月27日追記:僕が塗り絵したダンクは、数種類のうち上位のものが一時300位前後まで行きましたが今は500位あたりをうろうろしています。それでも15,000位くらいまであるうちの500位なら立派なものではないでしょうか。

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アウトレットの(仕組まれた)快楽

Vfsh0420 またしてもアウトレットに行ってしまった。

どうにも、休日に家でのんびりしていられない性分で(※)、「佐野(栃木県)のアウトレットに追加オープンした店舗を観に行こうよ」などと、口実として成立するかどうかもわからない口実を見つけて、奥さんを説き伏せて行ってきた。

※(ココは小難しいことを書いているので読まなくていいです)この「休日に家でのんびりしていられない」しかも「どこかに出かけて何かを買いたくなる」自分の行動原理については反省するところもあるのだけれど、反省したところでおそらく何も変えられないので敢えてここでは長々と書かない。また、この北関東の地に蔓延するショッピング・モール/アウトレット・モール文化についても思うところがあるのだけれど、これもここでは書かない。ルイ・アルチュセールさんやジョン・フィスクさんなんかが何と言おうとも、幼い時分より刷り込まれた行動原理はなかなか脱却しがたく、もはやこの年になっては自覚的・自虐的に巻き込まれていくしかないと諦めているからだ。

結果的に、この日の買い物は成功だった。アウトレットで安い買い物ができることは当たり前のことだけれども、それでもこの消費ゲームの中ではけっこうなスコアを出せたんじゃないかと思う。だからどうした、といわれると困るけれど。

ともかく、まずは一番目の画像、フランフランの店舗の片隅になぜか隠れるようにして売られていたペプシのミニカーを発見。2種類あったが一台300円だったので2種類とも購入。

こうして我が家の、資本主義社会における大企業の影響力を確認するための壮大なプロジェクトとしての「企業ロゴ入りミニカー・コレクション」に新たな2台が加わった。またしてもトラックであるが、これもパッケージがかわいいので敢えて未開封のまま保存することにする。

これでコレクションは計8台に。だんだん置く場所がなくなってきているけれども、1年で8台はたいしたものである(自画自賛)。

Vfsh0423_2 次いでジーンズを購入。今穿いているリプレイのライトオンスのもの(右側プロフィール欄写真にて穿いているもの)がだいぶ傷んできたので、同じくライトオンスの代替品を探していたところ(ただいまこの北関東の地は、14オンスのジーンズにはつま先も通したくない季節の真っ只中である)、GAPで4,000円だったので即決。

正直リプレイの1/6くらいの値段だけれど、しかもバングラデシュ製だけど、見たところ風合いやらウォッシュやら、値段のわりに悪くない。ウォッチポケットの丸リベットなんかもこれはこれでかわいい。その上この値段なら、突然ジャッキー・チェンに冒険の旅に連れ去られてびりびりに破れても惜しくない。

Vfsh0424 最後に、この日の掘り出し物は、某ジョイックス・コーポレーションのブランドのブルゾン。思いっきり季節はずれのアイテムだけれど、ふだんはほとんど買わないブランドだったけれども、これ単品としてはかわいいし、こういうカジュアルな上着が欲しいところでもあったし、何より35.000円超の品が5000円だったのでこれも即決。

あまりの安さに、さすがの消費熱病患者都並も、購入後家に帰るまでの道すがら、色々「何でだろう?」とは思ったけれど、ポケットやらドロー・コードやらベンチレーションやらもしっかりしているし、どんな理由でもこの値段なら文句はない。いきなりブレンダン・フレイザーにハムナプトラに連れて行かれても悔しくない(たぶんこの服では暑いだろうけど)。

ということで、色々買って1万円。夏休みのお小遣いの範囲内で悠々吸収できる、いい買い物であった(と、書いてから、なぜか心のどこかに自己嫌悪が残るのはなぜだろう。なぜかしら)。

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八月のペダゴジー

今日から8月。

さしたる実感もないままにこの盛夏の季節を迎えてしまうのは、自分が年を取ってきたと同時にいささかなりともせわしい生活を送っている証拠なのかもしれないとは思いながらも、それにしてもあっけなく8月である。

年齢と忙しさ以外にその理由を探すと、どうも、まだ蝉が鳴いていないし甲子園もオリンピックも始まっていないからかもしれない。

とりわけ蝉は大きい。朝8時半ごろ、キャンパスでつくつくぼうしが鳴いているのを聴いたが、日中の暑い最中だというのにまだ油蝉の鳴き声が聴こえてこない。これでは夏という実感が湧かない。

とはいっても連日真夏日(30度超え)ではあるのだが(最近こちらでは30~31度だと「あ、今日は涼しいな」と頭でも思うし、肌でも感じるようになってしまった)。

ともかくも当大学ではただいま試験期間の真っ最中である。ということで都並も試験問題作成・採点にとこれまた煩雑な仕事に巻き込まれている只中にいる。

とはいえ、試験期間というのはいいこともあって、試験監督の時間中というのは、思ったより論文が読めるということを発見した。

もちろん、試験監督の仕事(机間巡回とか)も抜かりなくしているわけだが、それでも90分の時間があると、だいたい英語で15~16ページの論文がちょうど読める計算である。

おかげで喫緊の原稿書きのために読む必要があるアンソロジーがだいぶ読み進んだ。論文を読んでいると、日々の雑事に忙殺されているとはいえ、研究も進んでいくわけだから、ずいぶんと精神衛生上良い。

その論文にヒントを得て、『ハプニング』のレビューをさらに書き加えようと思ったけれど、パランプセスト化が過剰に進行するだけなので、改めて別記事で書くことにする。

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ラーメン友愛と力尽きた私の割り箸

どこの大学でもそうだと思うけれども、大学という施設の近辺には、学生街とでもいうべきエリアが存在する。親元を離れて一人暮らしをする学生のアパート・マンションが集中していて、同時にそういった学生が主に利用する飲食店やその他の店舗もまた集中しているような、そんなエリアである。

そういったエリアでは、一般的に次のような現象が観察される。

①安くてボリュームのある食事を出す店が繁盛する。これは、はじめから学生相手の商売を見込んだコンセプトの店舗である場合もあれば(そういうところの店主さんはたいてい一人暮らしの学生たちをわが子のように気遣ってくださる)、大手資本のチェーン店である場合もある。

②それらの飲食店にて、学生がアルバイトをする。

①+②=同じ店舗で学生が給仕をし、学生が食事をし、学生が学生にお金を払う。

これは、当事者および全くの部外者にとっては何の奇妙さもない当たり前のことかもしれないけれど、教員にとってはなんだか不思議な、くすぐったい感覚のあるものだ。

簡単に言うと、学園祭の模擬店というか、もっと端的に言うと、子供たちのままごと遊びを見ているような気がするのだ。「あんな学校では子供っぽい子が、いっちょまえに給仕なんかしちゃって。あの子もお客さんらしくおすまししちゃって」という気分である。

このような感慨は、おそらく教員以外には保護者の方々にしか共有してもらえないだろう。

ともかく、そのような「擬似ままごと」的な(ままごと自体が擬似なのだからこれは同語反復的な言葉遊びだけれども)店舗が、こんな辺鄙なところに立地する当大学にもあって、そのうちのひとつに、とあるラーメン店がある。

これは、この地方にはよくあるチェーン店の「○○○や」という名称だが、僕は心の中でこの店舗を「ラーメン友愛」と呼んでいる。なんとなく学生同士が「ごきげんよう」と挨拶でもしあったらいいんじゃないか、という雰囲気がそこにはあるからである。いやこれは、教員特有のまなざしによって生じるものだという話をしたところだった。

ともかく、火曜日の夜遅くのこと、6時間目のテストの試験官を終えて、夕食を採るべくこの「ラーメン友愛」に向かったら、はなから予測できたことだが、その6時間目のテストを受けた後の学生が大量に流れ込んでいて、いつにない規模で親睦を深め合っていた。まるで(映画でしか観たことないけど)プロムの夜のようだった。

その光景が店の外からありありと見えたので、「これは落ち着いて食事などできないな」と思い、すぐ隣にあるこれまたチェーン店の牛丼屋さんに移行した。大学近辺で利用している自転車をこの店の自転車置き場に停めた後だったので、ちょっとおかしなお客さんに見えたとは思うが、そ知らぬ顔をして敷地内を横切り、隣の店舗へと向かった。こちらは空いていて安堵した。もとより牛丼なんてものは落ち着いて食べるものではないにせよ(それをいえばラーメンだってそうだが)、気持ちを乱されないで食事を採ることができた。

空けて水曜日。この日は午後から会議が怒涛のように入り、夜遅くまでぶっ通しで続いた。我々大学教員の多くはその他の職業経験がないので、民間企業でどのくらい会議が続くものかわからないが、とにかく午後いっぱい続いた。

そして同じくおそらくはそういった知識の乏しさに由来する現象として、我々の会議にはペース配分といった意識がしばしば欠落している。結果、ほとんど休みらしい休みもないままぶっ続けで何時間も議論が続くということがままある。

水曜日も、このままいったらうちの先生方は夜っぴて会議を続けるんじゃあなかろうか、というペースで議論が白熱した。それが何とか議長の先生の「もう疲れたから」という声でお開きになったのが8時前。実に7時間の会議だった。その頃、他の職種の人にはお叱りを受けるかもしれないが、もともと脳の短距離走に慣れている都並はすっかり疲れきっており、完全に虚脱状態になっていた。

あまりに疲れて思考能力もなく、かつおなかも減っていたので、火曜日に断念した「ラーメン友愛」に再チャレンジすることにした。

今回は運良く客には学生の姿は少なく(それでもバイトは学生だが)、ラーメン(正確にはつけ麺。人は疲れていると冷静な判断ができないもので、つけ麺なんてけったいなものを食べてしまうのである)+半チャンセットにありつくことができた。餃子のチケットが余っていたので、餃子もつけてもらった。

案の定、顔と名前が一致している学生に食事を運んできてもらうことになったのだが、ともかく「さあ食べよう、ともかく食べてせめて家に帰れる体力を取り戻そう」と餃子に箸をつけた時のことだった。

さっきまで平気な顔をしていた僕の割り箸が、音もなく不自然なかたちに曲がった。まるでNHKの体操のお兄さんがストレッチをするみたいに、もとからそういう構造になっているかのように、当たり前のように、こともなげに柔軟に曲がった。

割り箸はすでにこときれていたのである。疲れきった僕よりも先に、割り箸が旅立ってしまっていたのであった。

すぐにこともなげに代わりの割り箸を手に取り、明らかにボリュームが多すぎるつけ麺セット+餃子を完食したが、それでも胃の腑の奥底には、決して埋め合わせることができない喪失感が残った。なんともいえないやるせない気分だった。

食後、空になった食器の上でか細い体を横たえている割り箸をまじまじと見ていると、「なんだよしっかりしろよ、ここまでがんばってきたじゃないか」とでも言いたい気分がこみ上げてきた。

モノが割り箸だけに、割り切れない気持ちが残ったのであった(この話落ちてないな)。

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レビュー:『ハプニング』(もちろんネタバレver.7.31)

(このレビューの内容は7月27日に改稿されました。読み直してみたらあまりに独善的に専門的でわかりにくかったし、実際そういう意見もいただいたのと、もう少し書き加えたい部分があったからです。でも書き直してみてもまだ実際わかりにくいかもしれない。分かりやすく書く、ということは時に難しいことです/そしてさらに31日に追記されました。パランプセスト化するわたしの日記。)

個人的にはナイト・シャマランの映画は好きである。なんだかんだ言って『レディ・イン・ザ・ウォーター』以外は全部観ている(これも近いうちに観ようと思っている)。

さらにいうと、『28日後…』やスピルバーグ版の『宇宙戦争』、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』といった、世界の週末を描いたいわば「黙示録映画(apocalypse film)」も個人的な好物である。これはやはり、極限の状況で平凡な個人がいかに才覚を発揮して生き残るか、という冷や冷や感に魅せられるからだと思う。

特に、「平凡な個人が」というところが大事で、通常の社会では資本家や政治家が権力を握る構造になってしまっているところを、こういった極限の状況では、そういった権力を特に持たない一介の市民にも生き残る(勝ち残る)チャンスが与えられる。そこに一種の解放感、カタルシスを感じるのだと思う。

もちろん、アメリカ映画のこういった傾向、しばしば大局的な状況を個人の物語に集約させてしまう(『デイ・アフター・トゥモロー』のオープニングなんかはその好例だ)という特徴については、批判がなされてきたのも事実である。特にヴェトナム戦争を扱った一連の作品では、まさにこの点が、大局的な要因に無批判だということで批判されてきた。

結局、戦争が起こったのは国家権力と利権争いの問題である、という大局的な要因がそこでは棚上げにされ、個人がいかにその悲劇的・極限的な状況を生き残るか、という問題に話がすり代えられてしまっている、というわけだ。

けれども、こういった超自然的な黙示録映画では、そういった政治的な批判をする必要はない。もちろん、例えば『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』が「赤狩り/共産主義」の寓意として読まれたように、映画の中で超自然的な出来事として描かれているものを、何らかの政治的な状況の比喩として解釈することも可能だし、実際にそのような「読み」を誘発する映画も多いけれども、だからといって必ずしもそういうふうに受け取らないといけない、ということではない。映画が提示するサバイバルの状況を、ある程度は無邪気に楽しんでもいいのだ。

ということで、予告編を観た段階からその異様な光景にひきつけられてしまった『ハプニング』、先行上映があるというので、仕事終わりでタイトなスケジュールではあったが、観に行ってきた。

結論から言うと、今回の『ハプニング』は、上述の「黙示録映画」のカタログに加えられてしかるべき、よくできた作品だと思う。

もちろん、予告編で「いったいどういう謎があるんだろう」とあれだけ気を揉ませておいて、そのわりに映画の早い時点で「環境破壊に対する植物の反撃」という答えを出してしまうことには拍子抜けするのは確かだ。

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7月31日追記:さらに拍子抜けするのは、その「反撃」に対する有効な防衛策が提示されぬまま、まさに前述の『デイ・アフター・トゥモロー』の異常気象よろしく、突然に、かつ確たる説明もないままに攻撃の手が止まってしまうことだ。

これはしかし、作り手の気持ちになってみれば止むを得ないことなのかもしれない。そもそもこれらの映画が「環境破壊」の問題を提起しようとするのであれば、「そこには何らかの短期的に効果が上がる対策がある」と安易に提示することは好ましくない。

けれども一方で、映画なんだから、しかるべき時間に終わらないわけにはいかない。

すると、このような終わり方しかないわけだ。

しかしながらこれが例えば、ローランド・エメリッヒや他の監督の作品ならばさほど観客の落胆を誘わなかったかもしれないが、叙述のトリックとあっと驚く「オチ」「どんでん返し」で名を馳せたナイト・シャマランの作品であってみれば、そこには一種の不運があったといわざるを得ないだろう。

やはり観る者は皆「どんでん返し」を期待して映画館に足を運ぶわけだし、そしてその期待は今回は裏切られる。そこに不平不満の声があがるのも自然なことだろう。

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「環境破壊」というあまりに時事的な話題を映画の最終的なテーマとして扱ったこと自体についても、そのやり方があまりにストレートというか安直で鼻白む思いもするし、ナイト・シャマラン作品に特有の(とくに、『サイン』で顕著な)、こちらもあまりに真っ向勝負で純粋な人間観、なかでも愛情といったものの無邪気すぎるような扱い方については、今まで同様に何となく親身になって受け止められないのも確かだ。

端的に言うと…「ティラミス食ったぐらい、なんやっちゅうねん」ということである。やはりあそこは奥さんとジョーイが一度くらい関係を持っていないと話に重みが出てこない。要は自分が屈折しているだけなのかもしれないが、この点、映画の始まる時点から離婚している『宇宙戦争』のトム・クルーズに軍配が上がる。

それでも、やはりナイト・シャマランは、彼自身自分の映画に必ずちょこっと出演する、という趣向から分かるとおり(今回の出演の仕方には、『ヴィレッジ』を超えて度肝を抜かれました)、ヒッチコック的な映画を作る監督だと思うし、ヒッチコック的な映画の面白みといったら、登場人物の人間的な厚みとかリアルな感情描写とかではなくて、まさに「マクガフィン」をめぐる叙述テクニックの面白さ、ほんとうはたいしたことないものをめぐる展開の説明のうまさだと思うので、そういう意味では今回も面目躍如、といったところである。

つまりは90分、飽きずにはらはらさせてくれる。落ちはつまらなくても、そこへいたる語りの技術が素晴らしいので、楽しんで観ることができるのだ。

このテクニックを我々はどこに見て取ることができるか。映画を観終わってから数日、このことをよく考えてみたのだけれど、やはりひとつには、主人公グループの移動の経路とサバイバルの戦略をきわめて分かりやすく図式化し、またそれをきわめて視覚的に伝えたというところにあるんじゃないかと思う。

まず、大都市から中規模都市、そして田舎へと、脅威の侵攻はきわめて単純明快に語られ、それはまたTV画面の地図として視覚的に提示される。おかげで我々は主人公グループがどのような経路で逃走しているのかを簡単に思い描くことができる。

さらに、大規模な集団から少数のグループへ、最後には3人の「擬似家族」へ、という、主人公が所属する集団の数字上の変化も、物語の展開を明解にすると同時に、サスペンスを盛り上げるのに貢献している。植物は人数の多いほうを攻撃する。そのためやがて主人公のグループは5人になってしまう。

すると、我々観客は次の展開を予測する。次は人数がさらに減るわけだ。5人のうち2人は新参者で、3人は旅の始まりからいる、いわば「擬似家族」だ。物語上は3人の方が重要度が高い。しかしこちらのほうが数字的には人数が多いわけだから、仮にこの5人のグループが自らの意志で分裂するか、あるいは不可抗力で分断されると、より危険に晒されるのは主人公を含む3人のグループということになる。ここにサスペンスが生まれる。

このような生存のための戦略(それは我々観客の物語理解のための戦略でもある)の分かりやすさが、物語を効率よく運ぶのに貢献しているのは間違いない。

この映画のもうひとつの美点は、近年のVFX・CGI使いまくりのスペクタクル映画に比べたら、非常に低予算で仕上がっているだろうことがよく分かる、というところである。巨大なモンスターが出てくるわけでもないし、車がロボットに変身するわけでもない。風が吹いただけで怖い、という趣向を思いついた、発想の勝利である。その意味で、製作費をふんだんに使って「どや」顔をしている近年のハリウッド映画に対するアンチ・テーゼとしても価値がある。映画のテーマであるエコロジーを、自ら実践しているとも言える。

ただ、難を言うと、若干効果音で驚かす「ショッカー」的演出が目についたのと(ちゃんと驚きましたが)、必要以上に残酷な場面が多いのにも閉口した。もちろん、映画の緊迫感を保つためには、継続的に残酷な自殺の場面を見せる必要があったのだろうけれども、例えばモデルハウスの芝刈り機での自殺の場面など、最後はマーク・ウォールバーグの表情で暗示する、という穏健な演出でもよかったのではないだろうか。

それから、ズーイー・デシャネルという女優さん…業界人一家の出だそうだが…正直、あんまり上手じゃなかったんではないだろうか。くりくりの目をこれでもかと見開いているばっかりで、演技のアンサンブルに貢献していたとはとてもいえない。表情から感情を読み取ることができないのだ。この人の存在がずっと気になって、映画の感情的なムードに乗っていくことができなかった。

一方でジョン・レグイザモは、個人的に好きなバイ・プレイヤーなのだが、今回もどことなく風変わりで癖のありそうな数学教師、というキャラクターを充分練り上げていて好演だったと思う。かつて『スーパー・マリオ』のルイージも演じていたし、ほんとうに幅の広い俳優さんである。

最後に、恒例の点数であるが、僕はナイト・シャマランの、巧みな叙述トリックと少年ジャンプ並みのシンプルな感情描写の組み合わさった映画が大好きなので、80ナイト・シャマラン。

横で観ていた奥さんに訊いたら70ナイト・シャマランだというので、足して2で割って、75ナイト・シャマラン。

彼の映画が好きな人は、観ても損した気分にはならないだろうと思う。

追記:ナイト・シャマラン映画のもうひとつの見所は、少なくとも個人的には、「アメリカの田舎」を見せてくれるところだと思っている。ニューヨークや西海岸の都市生活を中心にした映画が多い中で、彼自身の拠点であるフィラデルフィアの風景をおそらくは反映したであろう、朴訥なアメリカを見せてくれるところにも、主流のハリウッド映画に対するアンチ・テーゼとしての価値があるんだろうと思う。

この点においても、近作はたっぷりと田舎を見せてくれるので、心を洗われる思いがした。残酷描写の多いパニック映画に心洗われる、というのも変な話だが。

追記②:モデルハウスといえば、『インディ・ジョーンズ』の最新作でもモデルハウスが登場していたのだけれど、これは核実験施設の一部としての登場であった。蓮實重彦先生が『ユリイカ』で語っていたところによると、この映画の隠れた主題は核爆弾である、ということだが、もしそうなら、この映画もまた「黙示録映画」のひとつということになる。このふたつの「黙示録映画」にモデルハウスが出てくる意味とはいったいなんだろうか。そこにはどのような集合的無意識が働いているのだろうか。

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スター・ウォーズ後日談

Vfsh0409いやあ毎日毎日暑い暑い。この暑さを伝える適当な比喩が思いつかないくらい暑い。敢えてこの難しい比喩に挑戦してみると、全く新しいまっさらな自分に生まれ変われそうなくらい暑い。

この暑さの中、当ブログでは連日「スター・ウォーズ」関連の話しかしていないことについては、若干自分でも「これでいいのか」と危惧の念があるわけだけれども、それでもまだ書く。

まずはペプシNEXのおまけベアブリックですが、昨日(7月23日)、大人の購買力でもって無事にコンプリートしました。近所のスーパーで1本88円で売っていたので、1000円近く安くついたわけだけれども、それでもいい年してこんなものにこんなに本気を出してよかったのだろうか。

なんとなく、昔『ドラえもん』で、のび太くんが「今はジャイアンにかなわないから大人になってからガキ大将になる」といったときのことを思い出す(こちらのサイトに詳しいです)。

次に、「スター・ウォーズ・セレブレーション・ジャパン(以下SWCJとする)」ですが、日曜日に奥さんを説き伏せて北関東の山を降り、はるばる幕張メッセまで行ってきました。片道約2時間の旅でした。

「SWCJ」については、事前に2ちゃんねるのスレッドでも情報を得ていたので、過剰な期待はしていなかったのだけれども、やはりかいつまんで言うと、「少々お金のかかったスター・ウォーズ・ファンの集い」という感じだった。

Cimg4302 もちろん、こういうイヴェントにつきもののコスプレイヤーさんもいたし(画像参照。これはボバ・フェットさんですね。個人的にベスト・コスプレ賞をあげたかったのは、写真は撮らなかったけれども、四角い箱から足が突き出ただけ、みたいなデザインのドロイド「EG-6」のコスプレをしていた人である)、LEGOやトミー・ダイレクトをはじめとするメーカーもブースを出していた。

けれども(僕は過去にこういうクラスの催事場に来たことがないのでわからないが)、全体にこじんまりしている印象を受けた。

といいつつ、限定商品ショップに45分ほど並び(テーマパークと90分の講義で鍛えられているので、2時間程度までの行列なら苦にならない)、Tシャツとイウォークのベアブリックとシャドウ・トルーパーのチャビーを購入(<ファンじゃない人はここ何を書いているのか分からないと思いますけど冷ややかに読み飛ばしてください)。

Cimg4317 さらにはスノー・スピーダーとミレニアム・ファルコン号のフォト・スポットでばかばかしい写真を撮るのに計2時間近く並んできた。

同じ時間に別会場ではマーク・ハミル御大の登場で歓声が上がっていたのだけれども、そういうパーソネルにはぜんぜん興味がないのでひとりも拝見しなかったし、サインももらわなかった。ただひたすらばかな写真を撮るのに並んでいたのだった。

それだけのことに5時間強費やし、おなかもぺこぺこになったので、その後は京葉線でイクスピアリにさっさと移動。お気に入りの「クア・アイナ」でアボカド・バーガーに舌鼓を打つ。

その後夕暮れ時のイクスピアリをうろうろしたのだけれど、どこも家族連れでいっぱいだった。その家族連れがまた、一日遊んだ満足感といくぶんの疲労感をいっぱいに漂わせていて、まさに「夏休み」という雰囲気をいやおうなく盛り上げてくれた。

おかげで、幕張にいた5時間より舞浜にいた2時間ほどの方が「夏休み」気分が満喫できたような気さえしてしまった。

それほど夏の宵のイクスピアリは輝かしく、後ろ髪引かれる思い出はあったけれども、なんとか未練を断ち切り帰途へ。

追記①:帰りのJRは特急が途中駅で故障・停車し、乗換えを余儀なくされて大変でした。おまけにその模様を教え子に目撃されていました。

追記②:幕張メッセには、親子でコスプレをしている人たちも少なくなかったのですが(大体みんな親の世代がSW世代なので)、その中でもっとも僕らの度肝を抜いたのは、娘に「れいあちゃん」と名づけている親子でした。

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スター・ウォーズほしいもの ペプシの帰還

Vfsh0394_2昨日帰宅前にわが優秀な奥さんから電話があり、「スーパーでペプシNEX発見したよ」とのこと。喜び勇んで家に帰ると…。

7本あった。

さすがうちの奥さん。我が家のモットー「よく遊び、よく働け(Play hard, work hard)」を実践してくださる手加減しない人である。きっと、子供がピアノ習いたいっていったらグランド・ピアノ買うタイプの人だな。

Vfsh0392_2 おかげで「なんかかわいいの、2、3個あったらいいかな」と思っていたのが「これはコンプリートしなければなるまい」にモチベーションが代わってしまった。

いまのところ、手元にあるのは(気に入っている順で)①ストーム・トゥルーパー(画像。もともとのおたふく顔がベストマッチ)②クローン・トゥルーパー エピソード3③タイファイター・パイロット④ダース・モール⑤ボバ・フェット⑥チューバッカ⑦ジャワである。

こうなったらクローン・トゥルーパー エピソード2も揃えて「トゥルーパー系」は揃えなくてはいけないし、ボバがいたらジャンゴも必要だろう。EPIVの主要キャラ(ダース・ベーダー、ヨーダ、C-3POとR2-D2)も必要だ。そうなったらロゴだけのシンプルなやつも欲しいし…。

よし、後でもういっぺん件のスーパー行ってこよう。

そして明日は「スター・ウォーズ・セレブレーション」だ。

Vfsh0389 追記:先日奥さんがお父さんお母さんとTDRに行ってきて、そこでもコーラを買ってきてくれました。25周年の記念ロゴとパッケージの限定品らしいです。

あっという間に我が家はコーラだらけになってしまった。

買って来てくれたものと言えば、最近知ったのですが、『キン肉マン』の食玩はなかなか良くできていますね。ちょっと調べると第7弾らしいのですが、これの「王位争奪編」のマリポーサとかソルジャーとかちょっと欲しいな。

Vfsh0384 といいながら我が家にやってきたのはこれ。

キングコブラ。

まさに都並家にうってつけのチョイスです。ようこそお出でくださいました。

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わたしはウーロンハイになりたい

やれやれ。

今日で僕の持っているクラスの夏休み前の授業が全部終わった。

とりあえず、まだテスト作りやら採点やらレポート評価やらもあるし、自分の原稿もあるのでぜんぜん解放はされないのだけれど、それでもなんとなく一息ついた感じである。

いやあ、今年は忙しかった。去年のことを思い出すと「あれは何だったの」と思うくらい、忙しさが倍増した。講義の数が純増したり、原稿の依頼が来たり、学会の事務が入ったり、自分の研究発表が決まったり、という具体的な仕事と、学内のよしなしごとが交じり合って、ブログも満足に更新できないありさまだった。

そのせいで体力も精神力もかなり逼迫したけれど、ともかく、どうにか、一区切りである。

今日はこの後散髪に行って、明日もちょっと人前に立つ仕事があるのでぱりっとして…そしてビールを飲もう。

いやはや、ビールを飲むしかあるまい。

などといいつつ、最近、年をとって色々好みが変わってきたのか、実はウーロンハイなるものに目覚めている。

あの、ウーロン茶そのものの喉越しの爽快感は、ビールとは違う潤いを与えてくれる、ということに最近気がついたのである。

何せこの地は連日暑い。もとより汗かきの都並は、着替えを持ってきてTシャツで学校に通勤し、授業前に研究室で着替えて出動するのだけれど、それでも授業が終わるとまた着替えたいくらいの汗をかく。

この暑さの中では、ビールもいいけれど、あのウーロンハイのクールさが欲しくなる。

昔、高校のときの部活動の友人が、夏の真っ盛りの練習の合間に、「今俺、アクエリアスのプールに飛び込みたい」と言ったのをしっかり覚えているけれど、僕は今ウーロンハイに飛び込みたい。アクエリアスはなんかべたべたしそうでいやだ。

ウーロンハイは生き方としてもあこがれる。

居酒屋のメニューにあって当然だけれども、でもあまり気づかれず、疎まれもせず、という「雨ニモ負ケズ」的なポジションを獲得している。

それに、お茶のようにさわやかに飲めて、ビールみたいに「よし飲むぞ」という気合を必要としない控えめさと、それでいてちょっと酔わせてくれるという実力を兼ね備えている。

さらに言うと、「お酒だかお茶だかわかんない」(実際、同じ飲み会の席でウーロン茶を頼む人とウーロンハイを頼む人がいると混乱する)という正体不明さもひとくせあってよい。

ワーク・ライフ・バランスという意味でも、「ウーロン茶:焼酎」の比率で「遊び:仕事」をするというのにあこがれる。「遊んでんだか仕事してんだかわからない」人になりたいのである。

…という話を奥方様にしたら、「最後のだけかなり達成してるんじゃない」と言われた。

そういえば昔大学の後輩に「大竹まことみたいになりたい」と言ったら、それも「ほとんどなってるんじゃないですか」と言われたなあ。

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スター・ウォーズほしいもの(エピソード7.18)

ネットでこんなものを発見。やってくれるぜルーカス。欲しいです。きっとアディダス派のパダワンくんも欲しいだろうなと思います。ブリスター・パックに入っているのも憎い。

http://www.nicekicks.com/star-wars-adidas-super-stars-consortium/

でも実際には5万超えの価格ってどうかと思う。買ってもぜったい履かないだろうしな。ぜったい履かないからサイズ違いでもいいかと思うくらいだしな。

話は変わるけれど、ペプシNEXのおまけベアブリック、こっちではぜんぜん売っていないんですけど、もう店頭に出回っているんでしょうか。

7月18日追記:

そういえば、ずいぶん長いこと「あったらいいなあ」と思っているものがあった。市販されてはいないんだけど、ライトセイバーのかたちの、レーザー・ポインターである。

学会とかで腰からぶら下げておいて、発表のときに出してくると(僕の所属する学会はお仲間ばっかりだから)けっこう受けそうではないか。

これって、母体になるトイを探してきて、中にレーザー・ポインターを仕込めばいいだけだから、かんたんな工作で作れる気がするんだけどな。

モデラーの友人に頼んでみようかな。

それかライトセイバーのトイをそのままで差し棒にするというのは…なしだよな。

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黒澤シンポジウム(プロジェクトTNT)

Vfsh0387 土曜日は立教大学新座キャンパスにて、黒澤明のシンポジウムに参加してきた。

これが、最新のキャンパスの最先端の設備を駆使した、テンポよく歯切れのいい催しだったので感服しました。

内容は、僕のような洋モノ専門の初学の人間に云々する資格はないのかもしれないけれども、黒澤監督のスクリプターだった野上照代さんと黒澤監督のご長女でいらっしゃる衣装デザイナーの黒澤和子さんをお招きした「当事者」のトークはインティメートで楽しいものだったし、明治学院大の四方田犬彦先生、早稲田の長谷正人先生、NYUの吉本光宏先生の御三方の発表もとっても勉強になるものだった。

ミソジニー、ホモソーシャリティ、表象不可能性といったキーワードで黒澤明を読み解く御三方の手捌きは見事というほかないもので、個人的な研究にも大変刺激を受けた。

特に、『天国と地獄』の身代金受け渡しの場面の、徹底的にPOVショットを回避したカメラワークは、例えばPOVを多用するヒッチコックの手法と比較したときに、かなりの独自性をもって立ち現れてくるんじゃないか、と思った。

さらに言えば、もしアメリカ映画のPOVショットが、ローラ・マルヴィが言うように、男性が女性を見る「男性の視線」と評価することができるなら、そのPOVを回避した黒澤の「肩越しのショット」は、男と男が共に見る「ホモソーシャリティの視線」とみなすこともできるのかな、などと考えた(すいませんココ何言ってるのか分からないと思いますので無視してください)。

いや、これは何も黒澤全作品を計量的に観たわけではないので何ともいえないけれども。

Vfsh0386話は代わって、シンポジウムもすごかったけれども、もうひとつすごかったのは立教のキャンパスだ。『未来世紀ブラジル』ロケハンのときのテリー・ギリアムが、あるいは『惑星ソラリス』のときのタルコフスキイがこの風景に出会ったら、きっとロケ地にしただろうな、というくらいの未来都市ぶりである…この喩え、ミッドタウンに行ったときも使ったな。

ともかく、この図書館の機能の充実している印象を見ると、「とほほ、同じ大学でもこんなに違うのか」と思わず恨めしくなる。さらに、このハイテク図書館から生み出される学生のレポートがどれくらい、うちの学生と違うだろうか、と考えると空しくさえなる。

いやはや、参りました。個人的に今後「新座ミッドタウン」と呼ばせてください。

などとうなだれつつ、シンポ終了後は懇親会まで参加してきた。同年代の知り合いの先生が何名かいらっしゃったので、親睦を深め、今後の研究活動について情報を得る。

(と、和気藹々と飲んでいたら、お店に名刺入れを忘れるというハプニングがあり、主催校の先生に送っていただくというご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありませんでした)

そんなこんなで帰宅は23時。奥さんをほっぽらかして申し訳ない休日だった。といいつつ、次の土曜日もオープン・キャンパスで出ずっぱりなんだけど。

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スライトリー時代遅れ(ver.7.14)

(この日記の内容は7月14日に更新されました)

勤めている大学ではもうすぐ学期が終わる。

ということで、決してシラバスどおりに進んでいるとはいえない授業の最終的なつじつま合わせや期末課題の作成や、その他諸々突発的に襲ってくる大学の雑務に終われ、「一週間に三回」を目標にしているブログがなかなか更新できない。

それでもとりあえず今は忙中閑有りという状態で、ようやく日記が書けている。

なぜ日付の変わるこんな時間にPCに向かっているかというと、明日立教大学で行われる黒澤明のシンポジウムに聴講に行くことにしているのだが、その行き帰りに電車の中で聴くために、iPodの内容を更新しているのである(追記:僕の使用している旧nanoは、奥さんが二年ほど前にお友達の結婚式の二次会のビンゴの景品として無料でゲットしてきたものであり、その時の同梱のiTunesを更新しないままに使っていたので「同期」ではなく「更新」であった)。

先日、家の近くの外資系ではないCD店でG・ラヴ&スペシャル・ソースザ・ベイカー・ブラザーズの新譜を買ったのはいいけれど、これまた落ち着いて聴くひまがなくて、まだ封も切っていなかったので、ようやくの作業に入っているのである(追記:ザ・ベイカー・ブラザースのウェブサイトには「Mixer」というページがあって、これがけっこうおもしろいです。ウェブ上の擬似ミキサーのフェーダーを上げ下げして、ちょっとしたダブっぽい遊びができます。ダブといってもミュートとかディレイとかはないけれど、演奏気分が味わえるというか)。

それにしても、CDを店頭で買って、家でPCに挿入して、iTunesにインポートして、iPodで聴く、というのは、どこかで時代遅れなプロセスのような気がする。というのも、最初からオンラインで楽曲のファイルを手に入れる、という選択肢もあるのに、なぜか未だに店頭でCDを買ってしまっているからだ。

そういえばこのブログの写真も、基本的に自分の携帯からPCのアドレスにメールしているのだ。カード・リーダーを使えばもっと簡便なのだとは分かっているのだけれど、なんとなくリーダーを買うつもりになれないのである。

こうして、生活のプロセスの部分部分から、だんだん時代遅れになっていくのだろうな、と思う今日この頃。

7月14日追記:

ここまでは11日の記入(カッコ内の追記部分は14日)。実はこの後が大変だった。

ど古いヴァージョンのiTunesに曲をインポートして、さて、iPodに入れよう、と思ったら、iTunesがiPodを認識しないのだった。

これはどうやら、先日、我が家の旧nanoくんをJRの車両内で落っことしてしまったことが原因のようだ。

そこでネットで色々調べてみて、windows上でというか元のPC側で色々できることを(コントロール・パネルを開いたりして)試行錯誤してみたけれどもうまくいかず、結果「iPodを復元」するしかない、ということになった。

そこまでは別に良かったのだけれども、我が家のど古いiTunesでは、どこを調べてもiPodの復元なんて機能が見つからない。ということは、どうやらiTunesをアップデートしなければいけないようだ。

しかし僕が今までiTunesをアップデートしてこなかったのは、単なるものぐさではなくて、ちゃんとした理由があるのである。そもそも我が家のPC自体が非力なので、極力重いアプリケーションを入れたくないのである。いや、新しいiTunesが今のど古いのに比べて重たいかどうかはわからないのだけれども、windowsの開発の歴史はアプリケーションの重厚化の歴史だという先入観がある。

しかしそうはいってもここはiPodのため、更新しないわけにはいかない。ノー・ミュージック、ノー・ライフ。

と思ってニュー・ヴァージョンをダウンロード、アップデートしてみたところ、案の定プロセスの途中で止まった。

仕方ないのでインストール先を変更(ハードディスク内のCからDへ<正しい対応なのかわからないけれど、Cばっかり使うのでDはやたらと空いている)、今度は無事成功。

そこから新しいiTunesを色々と触って機能を覚えて、無事聴ける状態に持っていったら、午前2時を回っていた。とほほ。お友達が難なくiPhoneを入手してほくほくしている一方で、この時代遅れぶりはどうだろうか。

…などと気を落としつつ、翌日。ソフトウェアを1.3.1に更新した旧nanoくんで音楽を聴いてみたら、なんと音質が向上していた。

いや、正確には向上といっていいのかわからない。単にイコライジングの問題なのかもしれないのだけれど、以前より明らかに低音が出て、それもブーミーじゃなく、特にベースの音がいい感じに太くなっている。キックもそれにあわせて心地よい重量感を伴うようになった。その他の楽器も心なしか空気感が増した。

いやはや、これはありがたい進歩である。これまで、B&OのA8(どうでもいいけど、2001年に初めて香港で買った時は一万円を切っていたのに今や1万7千円台。nanoくん本体と同価格帯になってしまっている)で聴いていると、特にJRの車内など騒音の大きいところでは、どうしてもベースが弱く、キックも硬質なものに聴こえていたのが、非常に心地よく聴ける。

ということで、機械音痴ゆえに苦労したけれど、怪我の功名というか、終わりよければすべて良し、ということであった。

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遅ればせながらデス・プルーフ(レビューのようなもの)

この日はサミットの初日ということで、ライトダウンの趣旨に我が家でも賛同し、部屋の灯りを暗くして過ごした(エアコンとTVは点いていたんだけど)。

灯りを落として何をしていたかというと、映画ファンおよび研究者の間で絶賛されていた(あの蓮實先生も褒めていた)クエンティン・タランティーノの『デス・プルーフ in グラインドハウス』を(実は超恥ずかしながらまだ観ていなかったので)観ていたのだった。

結論から言うと、これ「サイコー」じゃないですか。

下敷きにされている70年代の低予算・B級・エクスプロイテーション映画の雰囲気がこれ以上ないくらい完璧に再現されていて、ぶっとばされました。

まず映像自体、さすがにタランティーノ自身が撮影監督にクレジットされているだけあって、使い込んだテクニカラー・フィルムの質感と当時のグラフィック・センスを再現したそのにおい立つような雰囲気に唸らされるし(といってもなぜか映画の前半だけなんだけど)、音楽のセンスも相変わらず最高だし。

物語もほとんどあってないようなものなんだけど、そのゆるさが逆に映画に開放感を与えていると思う。ストーリーがゆるいので、ガールズたちのおしゃべりも、ストーリーの展開に貢献するのが主目的のものではなく、彼女たちのキャラクターを説明するのに貢献している。これはやはり、物語を語る効率が最優先で、結果的にキャラクターの人間味が感じられない最近のハリウッド映画に対する、タランティーノなりのアンチテーゼのように思えました。

アンチテーゼといえば、CG全盛期のアクション・シークエンスに対抗して、古き良き日のカーアクションをこれでもかってくらい再現しているのもいい。現実に鉄の塊がぶつかりあって変形していく様がこんなに心地いいとは、すっかり忘れていました。

総じて、あまりに70年代を再現しきっているので、たまに現代的な車両とか携帯電話のような現代的機器が画面に登場すると、時空が歪んでさえ見えるくらいである。

とにかくすっかりやられました。野球に喩えると、スピルバーグが抑えの切り札、守護神で「9回でしっかりゲームを決めてくれる」という信頼感を与えてくれるのに対し、タランティーノって「あいつが出てきてゲームに負けたけど、あの乱闘は爽快でおもしろかった。スタジアムに行ってよかった」っていう存在なのではないかと思う。

いやはや、100点。100点満点中の100点です。

それにしても音楽がかっこいいなあ。サントラ買おうかな(これもいまさら)。

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乗ってみたいなファルコン号

今日は『スター・ウォーズ』(エピソードⅣ)の日本公開30周年記念だとかで、東京のあちこちにダース・ベイダー卿が出没なさったそうですね。

それで初めて知った「スター・ウォーズ セレブレーション・ジャパン」(注意:いい音量でおなじみのあのジョン・ウィリアムズの曲が流れます)。

要はファン・イヴェントで、一日4000円は高いし幕張も近くはないのでどうしようかなとは思うけれど、LEGOが協賛企業に名を連ねていたり、トミーダイレクトも限定商品を販売するとか聞くと、そういうフェティッシュな欲望が刺激されるなあ…。

前の週(7月3日追記:こちらの勘違いで12日でした)、立教で黒澤明のシンポジウムがあって、そっちにはとりあえず応募しているんだよな…。

いや、究極的にはトイは要らないけど(海外限定版のラルフ・マクォーリー版C-3PO&R2-D2はほしいけど)、そのほかにミレニアム・ファルコン号で写真が撮れるとも言うし…。

行ってみたいな、遠い昔、遥か彼方の銀河まで…。

Cimg0304_2 写真はNYの映像博物館にてヨーダ師と再会の都並。

「よいか、鰤彦。やってみる、というのはないのじゃ。やるか、やらないか、なのじゃぞ」。

「ははー。肝に銘じております」

これやるの二回目だな。

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いたいシンポジウム/うまいドイツ・ビール

Vfsh0381 日曜日には築地まで出かけ、朝日新聞社主催のシンポジウム「大学教育を考える ―初年時教育を学士力にいかにつなげるか」に聴衆として参加してきた。たまには都並も教員としての職業倫理に目覚めるのである。

シンポジウムの内容はというと、昨今の大学生のスタディ・スキル&ステューデント・スキルの低下(と一概に評していいものかどうかわからないが)を前提に、いかに高校を卒業したばかりの若者に大学での学びの有り方を習得させ、卒業後に期待される学士力、社会人基礎力を四年間で身につけさせるか、ということについて、各大学の先進的なケース・プレゼンテーションをもとに、ディスカッションをするというもの。

これはたいへんな経験だった。「うちの大学/学生はこのままだと絶対良くない」という危機感を共有する大学関係者が300人から集まって、ふだんの学会でもありえないくらいの集中力でもって議論を戦わしていた。その緊張感がびしびし伝わって、基本的に学生に対して放任主義(「君たちもういい大人なんだからね」)を決め込んでいる(おそらくは古いタイプの研究者である)都並も、「どげんかせんといかん」と、お尻に火がついた気持ちになった。

考えすぎて知恵熱を出しそうになったので、終了後はドイツ・ビールでクール・ダウンすることにした。

大学の時から仲良くしているいっこ下の後輩で、いっしょにバンドもしていたI君が、長いことイタリアに留学していたのだけれども、このたび結婚を機に帰ってきて、東京に住むことになったというので、久々に会ってお酒でも飲みましょう、ということになっていたのである。

しかし、ふつうに飲んでも面白くない、ということはないけれどももうひとつイヴェント性にかけるので、かねてより憧れだった「ガード下」へ(非サラリーマンであることを自覚しすぎているせいか、常々サラリーマン文化に妙な憧れがあるのだ)。

で、せっかくガード下に出かけるなら、本来なら「まんぷく食堂」とか「新日の基」とか、そういうハードコア・テイストの居酒屋に行くのが正しい「道」だったのかもしれないが、そしてそういう本格的なお父さんスタイルに後ろ髪引かれるものがあったのも事実だが、それよりもましてこの日はなんだかおいしいビールが飲みたかったので、日比谷の「ドイツ居酒屋 JS・レネップ」に突入。

結論からいうと正解であった。ソーセージとザウアークラウトとジャーマンポテト、アイスバインなどをつまみに、I君と、I君にもったいないくらいのきれいな奥様と、がんがんビールを飲み倒す。なかでも、店側が一押しの「イエバー」(画像はまた別のビールです)は、ホップが利きつつ、シャープな苦味のきいた確かにおいしいビールだった。

四方山話に花が咲き、おたがい何倍飲んだかわからないうちに、気がつけば終電間際。慌てて電車に乗ったが、帰宅は午前様だった。

いやあ、おいしいビールでした。また飲みましょう。今度はストロング・スタイルの親父居酒屋で。>I夫妻

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レビュー:『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』(もちろんネタバレ注意)後編

(前編の続き)

映像の演出は小気味よくて、けっこうそれに乗っていくことができた。けれども、音響については正直評価に悩んだ。

端的に言うと、音響が強調されすぎているのである。音響デザインは『インディ』シリーズと『スター・ウォーズ』シリーズ全てを担当しているベン・バートという人で、そう聞くと、なるほど彼の音響のくせみたいなところが我々観客の心理にサブリミナルに作用して、「我々は今あの懐かしの、絢爛豪華な大作シリーズの新作を観ているのである」という気分を知らず盛り立ててくれる、ということはあるかもしれない、と思う。

けれども、今回に限ってはところどころで少々彼の音響が横溢しすぎていたように思う。例えば、冒頭近くのジェット・エンジンの音や核実験の爆発の音など、あまりの轟音に座っているシートがびりびりと痺れるのである。

これはもちろん、昨日都並がいた映画館映画館のスピーカーの個体差のせいだったのかもしれないし、平日の夜ということもあり、客の入りもまばらで、何百人か入る劇場に10人ほどしか観客がいなかったということも関係していたかもしれない。

でも、それにしたって音響がすごすぎた。注意して聞いてみると、人が人を殴る音やクリスタル・スカルが磁気を発して金属を引き寄せる音など、「こんな音がするのかい」と思うような音がしていたのも確かだ。この点は、だからちょっと、一長一短といわざるを得ないだろう。

けれども、こうして見ると、演技にせよ撮影にせよ音響にせよ、総じてこの映画は良くできていたと思う。観ている最中はこちらもそれに乗せられて、まさに「ジェットコースター・ムーヴィー」を楽しんだ。と同時に、たとえば同じスピルバーグさんの『ジュラシック・パーク』とか、かつての夏休みの話題作を観に行った子供時代のわくわく感を思い出し、懐かしい気持ちにもなった。

端的に言って、童心に帰ったのである。それが僕の満足した理由だ。

しかし一方で、なんだか肩透かしをくらったような気分にもなったのは事実で、それはどこから来るのかというと、やはり物語内容だろう。

たとえば、パンフレットにも書いているように、クリスタル・スカルはまさしくマクガフィンである。かつて『レイダース』の聖櫃がそうだったのと同じように、また『最後の聖戦』の聖杯がそうだったのと同じように、マクガフィンである。だから、その意味とか機能とか、最終的にはどうでもいいものだ。

けれども、それにしたってあの結末はないだろう、と思う。地形がまるまる変わるような大事件を起こして、なんであんなに平穏無事に結婚式が挙げられるのだろうかと思う。あのクライマックスの大変動の場面にしたって、巨岩が渦を巻いて飛び交っているさなかに、なぜインディは平然とそれを眺めていられるんだ、と思ってしまう。そこにいたら岩が飛んできて危ないじゃないか、と(論点はずれるが、あくまで生身の男であったインディは、ちょっと今回の作品で超人的になりすぎたかもしれない。もう一歩行くと胡散臭くなるぎりぎりのところまで来てしまった)。

それに、冒頭の核爆発の場面にしたって、特に物語上必要ないくせに、放射能に関する理解が「果たしてそれでいいのか」と思わせてしまう演出になっている。鉛の冷蔵庫に入って、後で体洗えばいいのか、と。確かに、核実験の映像を入れなければ、完全に過去の歴史になってしまった冷戦時代の緊張感を映画に盛り込むことができない、と考えたのかもしれないが(この場面がある場合とない場合に、ソ連側の脅威の印象がどう変わるかを考えてみるといいかもしれない)。※

※今書店で買ってきた「ユリイカ」がスピルバーグ特集で、蓮實重彦さん×黒沢清さんの対談でこのことに触れている。そこではまた別の見方があるわけだけで、それを紹介してもよいのだけれど、なかなか他の執筆者の論も優れているので、とりあえず読了したい。読了したらまたこの論も遂行するかもしれない。

そのほか、旧友オックスリーの精神状態の表現があまりに紋切り型だとか、クリスタル・スカルがどう見てもプラスティックで中身にサランラップが詰まっているようにしか見えない、とか、色々突っ込みどころがある。

こういう詰めの甘さが、「なんだかなあ」という印象をもたらした所以のものではないかと思うのだ。

つまり、この「ファミリー向け」と作り手が公言する映画は、卓越した撮影・演出技法と、どこか稚拙なところがある物語内容(シナリオ)との間で分裂している映画ではないか、と思う。

そのせいで、一人前以上の童心と、人並みの(と信じる)批判力あるオトナの精神を持つ都並は、ふたつに引き裂かれてしまったのだ。都並の童心は、スリリングでリズミカルな撮影・演出・編集に魅了されたけれども、一方で、批判精神に富んだ大人の都並は「おいおいちょっと待てよ」と置いていかれてしまったのである。

もちろん、こういうことは「ファミリー向け」(と作り手が公言している)映画にはよくあることである。しかし特筆したいのは、この映画ではそれがかつてないレヴェルで行われている、ということだ。かつてないほど迫力ある演出と、かつてないほどちゃちなお話が共存する、それが『インディ・ジョーンズ』シリーズの最新作なのである。

…と、ここまでずいぶんけなしたけれども、よく考えれば『インディ・ジョーンズ』シリーズは昔からちゃちなお話だったのである。そのことを忘れて、新作だけを批判するのはかわいそうだ。たとえばこの新作には、未開地の住民に対する偏見的な描写がずいぶん出てきて面食らうけれども、そんなことを言ったら『魔宮の伝説』だってひどいものだった。マクガフィンとしてのクリスタル・スカルの実態はどっちらけなものだったけれども、それをいうなら聖櫃だってどっこいどっこいだった。自分がかつて子供だったがゆえにそれに気づかなかっただけのことなのである。それを今更目くじらを立てるのは野暮というものだ。

だから、やはり『クリスタル・スカルの王国』は『インディ・ジョーンズ』シリーズの「正典」の、堂々たる新作なのである。そういう意味で、永遠の童心を持った冒険活劇への畏敬の念をこめて、満点。としておきたいと思う(これはいつもの100点満点評価ではなく、単なる「満点」である)。

追記:映画館で買えるパンフレットは、とてもよくできています。これは買いです。ストーリーボードやイメージ・イラスト、ミニチュアの写真などが充実しているほか、過去三作のストーリー紹介、ならびにTVシリーズ『インディ・ジョーンズ 若き日の大冒険』で描かれた、青年時代のインディの冒険譚の数々が年表化されています。

映画の中ではこの『若き日』を見たファンに対するくすぐりがあって「パンチョ・ヴィラにスペイン語を習った」なんてせりふが出てくるのですが、このTVシリーズを観たことがない観客も、後でそれを確認できるようになっているのです。

映画館のパンフレットって、たいてい600~700円するわりに、内容がもうひとつだったりするのですが、これは価値ある買い物だと思います。お勧めです。

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レビュー:『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』(もちろんネタバレ注意)前編

遅ればせながら件の映画を観てきた。本当は今日、何の予定もない土曜日にのんびり見に行くつもりだったのだけれども、ふとネットで調べてみたら、昨日はメンズ・デーとかで1,000円だった。そこで、慌てて予定を変更して映画館に馳せ参じたのであった。

結論からいうと、これほど評しにくい映画もない。というのも、観終わって一日経った後の自分が、満足した、という思いと、なんだか肩透かしをくらったような気分とを同時に味わっているからだ。

その理由がなんだか考えてみる。

満足した、というのは、『インディ・ジョーンズ』シリーズの正典に加えてしかるべき作品を観た、ということだろう。往々にしてシークエルというものは、単にマーケティング的発想だけで作られた、勘所を理解していない完全にピンボケの作品になってしまう。『ターミネーター3』がその好例だ(余談だけれども、『ターミネーター4』のストーリーも某所で知ってしまった。これはかなりどっちらけだった)。この作品もそうなっていたらいやだな、という危惧の念を持ちつつ観に行ったのだが、その不安は嬉しいことに杞憂のものだった。

ハリソン・フォードは思ったより老けてなかったし、絶体絶命の地点に追い詰められた時に発揮するあのインディ・ジョーンズ独特のユーモアと、なじみの苦笑いも健在だ。身体も、ちょっと肉付きが老人的になってきたとはいえ、よく動く。というよりも、必要以上に格闘して見せている観すらある。

共演のシャイア・ラブーフも、「この親にしてこの子あり」と思わせなくてはいけない難しい役どころだが、非常によくはまっている。彼が父親から見事に受け継いだものは、勇敢さと知性とたくましさ、それから悪戯っぽい子供っぽさを兼ね備えた、あの魅力的な表情である。彼を主演に据えて5作目を作ろうという動きがある、という噂が流れるのもよくわかる。

カレン・アレンも、「正直ヒロインとしてはちょっときついんじゃないかな」と思っていたのだけれども、蓋をあけてみたらそんなことはなかった。そこはシナリオ上の工夫というか、彼女は今作では「恋愛対象としてのヒロイン」ではなく「母親」という役割を与えられていたために、過剰にセクシーさを押し出す必要がなかったのである。これが功を奏した。むしろ彼女は大きく構えて、ふたりの子供っぽい男どもを家族として受け止めていればよかったのである。その限りにおいて、彼女は成功したといえるだろう。

妙齢の女性ヒロインの不在を補うべく導入されているのが、ケイト・ブランシェットである(ほんとにこの人なんでもやるなあ)。が、この人の場合は話が逆だ。セクシーさを押し殺さなくてはいけない、ソ連の将校の役である。それがはたしてうまくいっていたかどうか。どうも、都並の目には、ところどころで、彼女本来の物腰の柔らかさが露呈してしまっていたように思う。特に、自分の足で走る、というアクションになったら、この人の女性的な身体がどうしても前景化してしまう。けれども総じて、彼女はよくやっていただろう。表情と声色で、恐ろしい女傑をうまく演じていた。

つまり、キャストは総じて好演だったのである。そのアンサンブルがおそらく「インディ・ジョーンズ・ワールド」を現前させることに一役買っていたのだろう。その点、何度も引き合いに出して恐縮だが『ターミネーター3』では、いささかマイナーなキャスティングとシュワルツェネッガーのアンサンブル上の孤立が、映画を惨憺たるものにするのに拍車をかけていたのかもしれない。

次に演出について考える。スピルバーグという監督は、ほんとうにぶれない人だ。どんな題材を撮っても、カメラワークと編集のリズムとで観客を物語世界に閉じ込めるそのテクニックが決して鈍ることはない。とりわけアクション映画は彼にとって自家薬籠中のものだ(『激突!』で世に出てきたのだから)。物語内容によって評価は分かれるにしても、映像の技法に関してはやはり一級のものを持っている。

そのテクニックは今回も遺憾なく発揮されている。特に、物語のクライマックス近く、イリーナ・スパルコ(ケイト・ブランシェット)を相手に回した車での併走場面のアクションは、惚れ惚れするくらいである。ここまでくるとひとつのコレオグラフィであると思う。

そのほか、盟友ルーカスが『スター・ウォーズ』シリーズで失敗したのを見ていたせいか、極力ブルー(あるいはグリーン)スクリーンを用いた合成背景を使用しないで撮る、という撮影方法に徹したのもよかった。

やはり、たとえ「それ、本当は発泡スチロールですよね」と思えるような岩が出てくるにせよ、物がちゃんと現実世界に空間を占めていて、そこの光(照明)を浴びていてこそ醸し出せる空間と質感のリアリティは、まだCGには代えられないものを持っていると思う。

(長くなってきたので後編に続く)

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ゴー・レット・イット・アウト(アウトレットへゴー)

Vfsh0359 梅雨の隙間をついて、話題の三井アウトレットパーク入間に行ってきた。

日ごろは北関東の侘しい片田舎というか両田舎(そんな言葉ないけど)に暮らしている都並であるが、この地域は、なぜかアウトレットには恵まれている。

我が家から車で約一時間の距離に、上記の入間と、栃木県佐野市の佐野プレミアム・アウトレットと、ふたつもアウトレット・モールがあるのである。

これは、消費アフロエンザがいっこう治る気配のない我々夫婦にはありがたいことではある。そこで、持病の熱病にうなされつつ、これらのアウトレットを順番に詣でてみることにした。先月は佐野にでかけたので、今月は入間ということである。

三井アウトレットパーク入間は、オープン時の混雑は報道で聞き知ってはいた。なんでも、高速(圏央道)の入間の出口付近からすでに渋滞が始まっているとかなんとか。

それで奥さんとは「半年くらいして落ち着いたら行こうね」などと話していたのだが、先日奥さんが、耳寄りな情報を入手してきた。通っているジムのお姉さんいわく、「平日なら空いてますよ」というのである。それは平日休める人間としては願ってもない話で、今回の訪問と相成ったわけである。

道中驚いたのは、高速の一つ前の出口あたりで、路肩に「混雑時はここからもアウトレットにいけます」という趣旨の看板が立っていたことと、入間の出口では「アウトレット↑」という矢印が出ていたことである。なんという行政の(?)対応の早さよ。

そんなわけで、往時の混雑を偲ばせる事物を眺めつつ現場に到着したのだけれども、実際に着いてみると、事前の情報どおり混雑はぜんっぜんたいしたことなかった。お昼過ぎに到着したのにも関わらず、第一駐車場の、建物入り口すぐ近くに車を止められたくらいである。

敷地内に入ってみても、お客さんの数は決して多くはない。落ち着いて見て回ることができる。

中に入っているお店だけれども、佐野も入間も総じてさほど変わらない。ナイキがあり、アディダスがあり、ビームスがあり、という具合である。どちらも、なぜかどことなくやさぐれた印象の洋服たちをずらりと並べている。

違うのはフードコートで、これは入間の方が垢抜けているし、清潔感&解放感もある。垢抜けているといえば、来客者の服装も、立地ゆえかこちらの方が都会的である。建物自体もこちらの方が新しくて洗練されているので、都市的な印象ではある。

ではどちらがいいか、といわれれば、甲乙つけがたい。佐野のほうは、観光地のアウトレットに来たみたいで、日帰り旅行的な情緒がある。一方、入間はあくまでベッドタウンのアウトレットである。入間にはコストコがあるけれども入会金は決して安くないし、佐野は現在入居店舗数を増設中という魅力もある。

Vfsh0369 などと思いながらぐるっと一周見て回った後で、今回のお目当ての品を購入。シチズン・アテッサのエコ・ドライブ電波時計「ジェットセッター」である。

実はちょうど腕時計を買い換えなくてはいけなくて、新しいのをいろいろと比較検討していたのだけれど、種々の条件からこれにした。

まず、仕事柄(センター試験などの試験官をしなくてはいけないので)、時計は電波時計であることが必要条件である。

そうでなくても、いったん電波時計に慣れてしまうと、電波時計が「ほんとうの時刻そのもの」を示してくれるのに対し、一般の時計が「大体の時刻」しか表してくれないことに対する不満感が拭えなくなってしまう。これは何かほかのものに喩えると、ピントが合わない映像しか見られないテレビとか、大体350mm入っているビール、みたいなものだ。そういった、いわば認識論的な変化があるわけである。もちろん実用面でも電波時計はありがたい。特に、電車の乗り換えなどでは電波時計の信頼感に勝るものはない。

次に、これも仕事柄だけれども、たまに海外に行くことがあるので、ワールドタイム対応である必要がある。その点この「ジェットセッター」はアメリカ、ヨーロッパでも電波を受信してくれる優れものだ(実は型番落ちになっていて、新作は中国でも電波を受信してくれるのだけれど、個人的には中国に行く仕事はないので、この機能は必要ない)。

Vfsh0372 最後に、暗い映画館の中でも時刻がわかるようにバックライト機能があることも大事である。いまどきの時計はたいてい備えている機能ではあろうけれども。

ということで、とにかく優秀なこの時計であるが、実は定価は庶民の僕が思い描く腕時計の値段とは一桁違う。けれどもそれがアウトレットだと30パーセント以上安く買える。これはお買い得である。

とはいっても僕にとっては高価な買い物であることは間違いないので、これから長い時間こいつを大事にしていきたいと思う。

Vfsh0363 そのほか、コレクターとして思わず買ってしまったのがこれ。『スター・ウォーズ』のTシャツである。Mサイズでも若干大きいけれど、短パンにあわせてだぼっと着るのにはいいかと思う。

まだクローゼットには「トップレス・カリフォルニア」の『トランスフォーマー』Tシャツが未使用のまま二枚も眠っているわけだが。

追記:食事は「ベスト&バーガーズ」というところで採ってみた。バンズをお店で焼いてくれるハンバーガー、ということで、「クア・アイナ」みたいな高級本格志向かと思い入ってみたのだけれども、思ったほどではなかった。どちらかというとモスバーガーみたいな印象である。それでも、セットで1000円近くするので、割高感がある。店内はおしゃれだったけれども。

Vfsh0362

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一台追加

Vfsh0334 我が家の「企業ロゴ」ミニカー・コレクションにまた一台、新規参入した。先日京都に帰った折に、大丸の玩具売り場で発見した、DHLのバンである。

これはドイツの「siku(ジク)」というメーカー製のもので(だからラインアップされているのはドイツ車が大半であり、こいつもベンツである)、青いパッケージがかわいいのと、どうやら(クロネコヤマトのノヴェルティのように)ドアが開くというギミックもないらしいので、未開封のまま飾ることにした。

百貨店の玩具売り場なんてところに、なんでいい年をしていたかというと、奥さんがお友達のお宅にお邪魔することになっており、そのお宅のお子さんへのお土産を見繕っていたからだ。このミニカー・コレクションの大原則は「わざわざ探さない」であり、専門店に足を運ぶことは固く自らに禁じている。あくまで、何かのついでに発見することに喜びを見出す、というのがこのコレクションの趣旨である。

なんにしても、これで

①ハーシーズ

②コカコーラ

③ヤマザキパン

④クロネコヤマト

⑤フェデックス

⑥DHL

と、わずか9ヶ月ほどの間に六台そろった。これはまずまずの成果だろう。

しかしながら、その半数が運送業というのはいささか不服である。もう少しポップな、たとえばアディダスとかナイキとか、そのへんのミニカーはないものだろうか…。

…とは思いつつ、決してネットでは探さない。探さないのがルールのコレクションだからだ。

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ポロシャツ考(若さは色である)

Vfsh0336日記、というものは読み返すものである。書いたら書きっぱなし、でもいいけれど、基本的には備忘録であり、過去のことを書きとめて、記憶し、想起するためのメディアである。

そう思って過去の自分の行状を読み返してみたら、意外な事実がいくつか判明した。

まずは、昨年の暑さのこと。昨年は6月14日にすでに研究室に冷房が入っている。今年はまだだ。そう思うと、「温暖化、温暖化」とお題目のように唱えてはいるけれど、今年は去年より夏の到来が遅れているのだろう。現に今も、研究室の冷房は例のアンティークな扇風機のみだ。

部屋着の短パン化も去年より遅く、ここ一週間ばかりのことだ。朝のコーヒーはもうかなり前からアイスコーヒーになっているけれど。

それから、去年の4月29日と先日の6月9日の奇妙な反復性に驚いた。去年の四月末にも僕は京都に出かけたわけだけれど、そのときの行動と先日の行動が非常に似通っているのだ。

まず、どちらの日にも僕は「おめん」を食べており、そればかりでなく同店のわらびもちも食べている。

さらには、どちらの日にも藤井大丸の「ダファー・オブ・セントジョージ」でポロシャツを買っている。昨年は青と白のストレッチ地のボーダー・ポロ、そして今年が緑色のポロである。

また、これは微妙に異なる事柄ではあるけれど、去年の四月僕は友人の結婚祝いを探し、今年は父の日の贈り物を探していた。

なんという進歩のなさだろうか。こうなったら来年も同じ時期に同じ行為を繰り返さねばなるまい。そう思ってしまうくらいの進歩のなさだ。

それはさておき、ポロシャツといえば、最近僕の中での選択肢が変わってきた。いちばん上の画像にもあるとおり、カラフルなアイテムがOKになったのである。

これは、ナルシストなおじさん本人以外にはどうでもいいことだろうけれど、自分では結構驚いている。というのも、僕自身のセルフ・イメージでは、原色の赤や緑なんてものは到底似合わないと思い込んでいたからである。結果必然的に僕のワードローブは以下の「無難な」色で構成されることになる。

①黒②白③グレー④ベージュ⑤ブルー⑥カーキ

昔、ラルフ・ローレンだか誰かが「この辺の色しか買わない、と決めて買い物をすれば着回しはかんたん」とのたまっていたような記憶があるけれど、そんな聡い考えがあるわけではなく、自然とそうなっていったのである。何せ、試着室の鏡で自分の姿を見たとき、赤や緑ではものすごく違和感があったのだ。

それが最近、この手の色がありになってきたのが嬉しい。思うに、「若さ」とは、あるカラフルな「色」(カラフルな色ってトートロジーだけど)なのである。若いうちは誰しも、自分の容姿のカラーが決まっていて、それに似合う色が自然と決まってくるものなのである。

それが、年をとるとその色がだんだん褪せていって、結果派手な色の服が似合うようになってくるというわけだ。よく街中やメディアの中で、原色を着こなしてお洒落なおじさんを見ることがあると思うけれど、同じかっこうを若者がしても似合わないだろうな、ということがよくあるでしょう。それはこういう原理なのである、きっと。

Vfsh0338 というにわか仕込みの信念のもと、今年になって買い足したのが上のポロシャツたちである。しかも、単にカラフルなだけではなく、それぞれワンポイントがある。

赤いのは、元ラルフ・ローレンのネクタイデザイナー、ロバート・ゴドレーによるブランド「サイコバニー」のもの。もちろん、「サイコバニー」というブランドは知っていたものの、ラルフ・ローレンうんぬん、というのは知らない。単に、丸の内のビームスで見かけて、このワンポイントのスカル・バニーがかわいいから買った。

が、これを着てみると、かなり「欧米か」である。試着前の予想では「ぼく、ハチミツだいすきさー」という感じになると思っていたのだけれど、そうではなくて完全に「欧米か」である。

(6月18日追記:一日着用してみました。たかがポロシャツ、と侮るなかれ、カッティングというかパターンニングがしっかりしていて、かなり構築的なデザインです。肩のあたりはナチュラルというよりもちょっと袖ぐりのエッジが立つ感じで、背中が広く取ってあるので動きやすいです。しかも着やせして見えます。後は、うちの洗濯乾燥機の「おうちクリーニング」洗いでの経年劣化にどれだけ耐えるかですが、基本的にはとてもよくできたポロでした)

Vfsh0339 これとクリスマス・カラーを構成するのが「ダファー」のもの。今シーズンのポロシャツのワンポイントは「スニーカー」である。

これはずるい。あまりにもずるいモチーフである。そんなわけで「これはずるいよー」とぶつくさ言いながら買った。だってスニーカー大好きのおじさんにはたまらないではないか。これはかなりコロンブスの卵。

しかも、このポロシャツはボタンやわきの下のベンチホールもカラフルである。

Vfsh0340 まず、胸元のボタンが三色。この色は、「ダファー」が展開しているデッキシューズ型のスニーカーのハトメ(シューレース・ホール)と同じ色なのだそう。しかし、デッキシューズは先日「トップ・サイダー」のものを購入したのでもう買わない。

さらに、シューズのハトメと同じリングが、わきの下にベンチレーション(通気)用ホールとしてくっついている。これは、ふつうに着ている状態では腕をあげないと見えない小憎らしい小技である。都並は板書の機会が多いので、これはなかなかチラ見せによい。

Vfsh0341これらにあわせて、先日栃木県佐野市のアウトレットで買ってきたグレーのポロシャツを投入し、夏の装いが充填完了。実は当初の予定よりもかなり多額を注ぎ込む結果となってしまった。

でも奥さんがあおるんだもん。「かわいいからいいんじゃない」と言われたら誰だって買ってしまうというものだ。

グレーのポロシャツも実は胸のワンポイントがスカルである。これはちょっとばかし、キッズくさいかもしれない、と思ったけれど、着てみると意外となんとかなる。生地がポロにしてはへヴィ・ウェイトで、頑丈そうなのでわしわしと普段使いできそうである。

Vfsh0337

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学会シーズン(プロジェクトTNT)

6月は学会のシーズンで、都並も、今年はさまざまな不可抗力的な都合で研究発表はできないのだけれど、それでも都合三回くらいは出かける予定である。

学会というやつはそれぞれ大学の教員が参加しているので、授業の関係で週末に開催される。そうすると一月に三回週末がつぶれるわけで、それはさすがに、たとえ研究発表をしないといっても、仕事のスケジュール的にも肉体的にもけっこうきついのだけれど(当然研究発表をするともっときつい)、それでも得られるものがあるのでいかないわけにはいかない。

その学会の第一弾がこの週末京都であって、参加してきた。京都はかつてのホームタウンだし、隣県の滋賀は実家なので、里帰りという気分もある。

というわけで金曜日は奥さんのほうのお父さんお母さんと合流し、京都で行きつけのおいしい焼肉屋さんへ。久しぶりに親子で楽しくコンロを囲んできた。僕以外にもお父さんお母さんも6月の生まれなので、そのお祝いをかねた宴席である。

その後、定宿と化しつつある日航ホテルにて宿泊。空けて土曜日、奥さんは京都で買い物、僕は学会。他人の発表をひたすら聴くのだけれど、今年はレヴェルが高かった。自分もうかうかしていられない、と刺激を受けた。

土曜日の夕食は奥さんとまた京都で外食。お気に入りのスパゲッティ屋さん「セカンドハウス」で名物の「セカンドトマトカルボナーラ」に舌鼓を打つ。

日曜日は学会の懇親会。懇親会(=立食パーティー)というやつは、もとより内気な傾向のある人文系の研究者にはなかなか不向きなところである。僕も若い時分は、もとより出身ゼミの人間がほぼ皆無の学会だったこともあって、完全に壁の花と化していた時期もあった。

しかしこのごろは、常勤職も得て、同世代の研究者、あるいは一世代上の先生などの知己も得て、社交が楽しくもなってきたし、また重要にもなってきた。

今回も、最終的に8月末の原稿が一本、9月末の研究会が一本、来年5月の国際学会がうまくいけば一本、といくつか仕事をいただいてきたので、まずは収穫があった。

このほか、11月には自分の大学で研究会の主催もすることになっており、なかなか勉強させてもらえる一年間になりそうだ。

空けて月曜日。

奥さんと再び四条烏丸にいた。お互いのお父さんの父の日のプレゼントを探すためだ。四条烏丸~河原町界隈をうろうろして、ナイキで何か買うか、ビルケンシュトックのサンダルにするか、といろいろ迷った結果、GAPのショートパンツを贈ることにする。うちのオヤジはMサイズ、向こうのお父さんはXL。なんだか人間の器の違いを反映しているようでおもしろい。

Vfsh0340 ついでに、「ダファー」で自分用のポロシャツ、「トゥモローランド」で春夏用のグレイのシャンブレーのジャケット(表地の光沢ある感じと、裏地のマドラスチェックがかわいかった)を買ってしまったというのは内緒です。

このプレゼントを探しつつ、またもや「おめん」にて昼食。あいかわらずおいしい。しかも、単においしいだけじゃなくて、やっぱりこれが僕の食文化的ルーツの味だからだろうか、心のすごく深いところで落ち着くというか、癒される気がする。胃袋の底のほうから幸福感が上ってくる感じである。

とここまで書いてみて、ふと「これまで何度も同じようなことを書いてきたのではないか」という気がしたけれど、それでもやはり、改めてこう書いてしまいたくなる何かを感じたのも確かであった。畳敷きの席のこじんまりとした空間も居心地良くて、ついついデザートにわらび餅まで食べてしまう。またこれが絶妙な冷え加減でうまい。

Vfsh0332 それからこの日のお茶は(昼食から立て続けに行ったんじゃなくて時間を空けて行ったんですよ)、おば様御用達の純喫茶「フランソア」。僕は大学時代の悪友女史連に連れられて行ったことがあったのだけれど、奥さんは初めて。

ここではチーズケーキをいただく。しっかりとしたハード系のチーズケーキで、レーズンなんかも入っていてクラシックな感じ。これはなかなかおいしかった。しかしそれにしても平日昼過ぎの「フランソア」はおばさまばっかりだった。

このほか、「フランソア」を出るとすぐの「村上重」でお漬物を買ったりして、なんだか全体におのぼりさんみたいだった。

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誕生日(プロジェクトTNT)

Vfsh0346 毎月毎月忙しさが増しているように思える今日この頃。たぶんいろんなことの罰が当たってるんだろうな。

ともあれ、3日は誕生日だった。34になるというともはや事の重大さとか厳粛さとかがのしかかってくるだけで、めでたいというわけではないけれど、それでもいろんな人から祝ってもらったのでそのことはやはり嬉しかった。

まずは奥さんが、誕生日といえばケーキ、ということで、近所のケーキ屋さんでこぶりなケーキを買ってきてくれた。ケーキには、なんともいえないぶさいくさがかわいいマジパンのヒヨコさんもついてきた(この下唇?くちばし?の出方を見よ)。

もういい年だけれど、それでもお誕生日にケーキを食べるということはなんとなく晴れがましいというか、気持ちを新たにしてくれる。さらにケーキだけじゃなくて、こういうものを添えてもらえると感無量である。

Vfsh0345 などといいながら、実はケーキは三個あった。さすがにメタボ予備軍のおじさんには危険だったかもしれないが、これを完食。さらに奥さんは、「クッキーが食べたい」という僕の唐突なリクエストに応えて、物資不足のこの折、なんとかバターを見つけてきてクッキーまで焼いてくれた。感謝感謝。

そのほか、東京の従姉妹からメールで、浜松の祖母からはがきで、滋賀の実母からはバースデー・カードで、それぞれお祝いの言葉をもらう。それから、実弟はパーカーのボールペンを贈ってくれた。また嬉しからずや。

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おバカなんだけれどそれゆえにほしいもの

152473w300 世の中には買わなくてもいいものが山ほどあるのだけれど、愚かな都並はそういうものをほしくなってしまうことがままある。

いわゆる「ニーズ(needs)」と「ウォンツ(wants)」がまさに違う、という話なのだけれど、今回はその「いらない」かげんが半端じゃないものを、しかしそれゆえにほしくなってしまった。

それがこの画像のお方である。映画『インディ・ジョーンズ』シリーズ最新作の公開を記念して発売された、シリーズ第一作『失われた聖櫃(アーク)』の冒頭に登場する黄金の偶像(ゴールデンアイドル)を模したペン立てである。

実にいらない。

が、だからこそほしい。

値段は3600円。迷っている。正直迷っている。これが研究室の机の上にあったら学生の引き具合が楽しいではないか。

…ううーん。どうしよう。

それ以外にスターウォーズの新作関連のフィギュアとか『ナイト・オブ・リビングデッド』公開40周年記念グッズなどをいくつか先行予約してしまった、というのは奥さんには内緒である。

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『キャプテン・アメリカ』と『G.I.ジョー』

ついに、というべきか早くも、というべきか、こちらでは日中の最高気温が30度を超えた。でも研究室にいて、窓を開けて扇風機をつけて仕事をしていると快適だった。やはりこの時期は湿度がそれほどでもないのが快適さにつながっているのだろう。それと、この地方独特の強風もこういうときにはありがたい。

Captain_americaそれはさておき、IESB.netを観ていたら、なんと『アイアン・マン』(日本公開は9月だそうですね)の成功を受けて『キャプテン・アメリカ』が製作されることが決まったとか。

記事によると2011年の公開予定、というからまだこの先どうなるかわからないが、内容は原作に忠実な「時代劇(period piece)」で、第二次大戦を舞台にしたものになるそう。

これを聴いただけだと、ちょっと剣呑剣呑…と思ってしまうのだけれど、それは過敏な反応というものだろうか。

もっとも、アイアン・マンが1960年代のヴィエトナム戦争期に反共のヒーローとして誕生したのとは異なり、キャプテン・アメリカの誕生は1941年、ナチス・ドイツに対抗するための「超人兵士計画」の実験で生まれた、ということになっているから、思想的には多少スタンスが違う。

実際、キャプテン・アメリカは、ウィキペディアで調べると、50年代の四代目(他のマーヴェル・ヒーローと比べると、何回も代替わりして名籍とコスチュームが引き継がれているところに特徴がある)が反共産主義者であったけれども、彼は後に超人血清の副作用で暴走し、無実の人間を傷つけたほか、60年代には「黒人運動など社会情勢の変化を全て共産主義の陰謀と決め付けて黒人社会への暴力事件を繰り返し、中道・リベラル志向である初代」に成敗される、という顛末をたどっている。

つまり、キャプテン・アメリカはアイアンマンほどきな臭い思想の持ち主ではなく、もしそうであったとしても、さらに極端な思想の四代目との対比を行うことで、ゆるやかに中道・リベラル路線へシフトしていった人物のようなのである。

だから、同じ軍備と国防の問題に関わり合ってはいても、『G.I.ジョー』や『アイアン・マン』ほどタカ派のヒーローではないのかもしれない。

いずれにしても、全身星条旗の「米国主将」という名前のヒーローなのだから、映画化する際にはスタンスに注意してほしいものだ。

…といいながら、実は一度過去に映画化されている。1990年のことで、時代背景を考えると「湾岸戦争がらみか」と邪推したくもなるのだけれど、実はそうではないらしい。

1 この作品のあらすじはというと、RottenTomatoesのリンク先のレヴューによると、舞台は現代。かつてナチスの悪役レッド・スカル(文字通り真っ赤な頭蓋骨の顔をしたどうしようもない悪役)との戦いのさなか、ナチスのロケットを体を張って防いだ初代キャプテン・アメリカは、ロケットもろともアラスカに軟着陸、そのまま半世紀ほど氷漬けになっていた(初代が氷漬けになっていたのは原作にもあるエピソード。超人なので生きていたのだ)。

その彼が半世紀の眠りから目覚めると、レッド・スカルは活動を続けていた。彼はJFKと弟のロバート・ケネディ、そしてマーティン・ルーサー・キングJr.の暗殺に関わっており(リンク先のレヴューでは「まいったかオリヴァー・ストーン!」と揶揄されている)、現代のリベラル派の大統領を誘拐していた。

この大統領はなんでも、企業の利益を犠牲にして環境保全を訴えるというたいへん勇敢かつ懸命な大統領として描かれているのだが、軍の上層部からは「脳移植をしなくては」とターゲットにされている、というとんでもない設定だ。

ともかく、このリベラルな大統領、子供のときに、ナチスのロケットに張り付いてすっ飛んでいくキャプテン・アメリカを目撃していたとかで、なんだかんだでキャプテン・アメリカが彼を救出に向かう、という物語らしい。

こう書いただけでもおもしろくなさそうな映画だけれど、やはりレヴューでの評価は最悪で「後にも先にも、もっとも頭の悪い(dumbest)映画」「アクション・シーンはばらばらで、照明も最悪で、演出も恐ろしいほどひどい」「スティーヴン・トールキン(『ザ・プレイヤー』を書いたマイケルの兄弟)の脚本は、映画化されたものよりもはるかに良かったと伝えられている」とのことである。

ここまでけなされるとぜひ観てみたくなる。新作が公開された暁には、どこかのメーカーさんがTSUTAYAの店頭にこのタイトルを置いてくれることを切に願う。

そうそう、この(暫定)どうしようもないほうの『キャプテン・アメリカ』、主演はマット・サリンジャーで、その名からもわかるとおり、J・D・サリンジャーの息子だそうだ。これについて批評家は「くそっ。ホールデン・コールフィールド(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公)がこの映画を観たらどう思うだろうな」と書いている。

観てないけれどまったく同感だ。

それはさておき、IESBの記事には他にも二つ小ネタが紹介されていて、ひとつは、新作のほうのキャストでは、マシュー・マコノヒーが主役にうわさされていたけれどそれはガセネタだと判明した、とのこと。

もうひとつは、『アイアン・マン』の本編中(ロバート・ダウニーJr.が演じる主人公トニー・スタークが自分の研究室でパワード・スーツを初めて脱ぐ場面)に、このキャプテン・アメリカの有名な盾(ローズヴェルト大統領にもらった合金で、ウルヴァリンの骨格を形成している合金とも関係する無敵の盾)がチラっと映っているとのことらしい。

これはまったくの製作サイドの遊びで、深い意味はないらしいのだけれど、『アイアン・マン』を観る機会があったら探してみたい。

追記:このサイトに『G.I.ジョー』のキャストのスティールが公開されています。『G.I.ジョー』といえば二人の忍者キャラクター、スネークアイズとストームシャドウが登場するんですが、これがまた、「やっちゃった」感じになっています。主演のデニス・クエイドをはじめ、他のキャストのコスチュームなんかも微妙で、現段階ではハイプなんだけどこけそうな予感がひしひしとします。

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『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を観ないで語る

もう気持ちの上では順応してしまったけれども、北関東はこれから暑い季節が始まる。今日は予報では最高気温29度だというので、早くも半袖デビューした。しかしぜんぜんおかしくない。僕は、29度、という予報も「今の時期30度越すと多方面に影響あるから29度にしとこう」というようなことではなかったのかとひそかにかんぐっている。

それはさておき、最近気になっている映画があるので書いてみる。が、積極的に観たくはないのであえて観ないで語ることにする。誰かこの映画を観た方で異論反論のある方はご教示いただきたい。観てから語るべきだとは思うのだけれど、悲しいかな、なかなか学期中は時間が取れないというのもあり…。

気になっている映画とは、タイトルのとおり、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』である。気になっているといっても映画ファンとして素朴に興味があるのではなく、次の二点がひっかかっている。それは

①トム・ハンクスは戦争肯定論者であったことを懺悔しているのか

②アメリカ映画のアフガンの扱いは最近微妙ではないのか(いつも微妙だけれど)

ということである。

①から言うと、トム・ハンクスさんという人は、あのテディベア・ライクな温厚そうな容姿にもかかわらず、実は戦争肯定論者なのだろうな、とずっと思っていた。

というのは、まず、あの多くの人に心温まる感動を届けた『フォレスト・ガンプ 一期一会』からして、戦争への奉仕を積極的に物語に取り込んでいたからだ。映画を観たものは、ガンプが戦争の英雄であったことを覚えているだろう。

もっとも、彼は積極的に人を殺しはしなかったけれども、上官の命令を愚鈍に聞き、実直に自己の能力を生かしてそれに応えることが好ましいことだというメッセージを暗に伝えていた。

もっと判りやすいのは『プライベート・ライアン』で、彼は「一人部下を死なせるたびに、その代わりに何十人と救ったんだと考えるようにしてきた」などという台詞(うろ覚えですすいません)で、戦争で犠牲者が出ることを受け入れる。結果彼自身も死んでしまう。

こういう映画に出演されると、いかにハンクスが『ビッグ』で子供の心を持った大人を演じようと、『キャスト・アウェイ』で孤独に耐えて生き延びる強靭な精神を演じようと、『アポロ13』や『グリーン・マイル』で頼りになるリーダーを演じようと、それらの映画が彼のスター・イメージにもたらす効果をもってしても、この戦争肯定のメッセージを相殺することはできない。

むしろ、『チャーリー…』のTVスポットが奇しくも巧みに利用しているように、このようなイノセントで(『ビッグ』『フォレスト・ガンプ』『ターミナル』)、精神的にタフで(『キャスト・アウェイ』『アポロ13』)、人道的なリーダー(『グリーン・マイル』)というスター・イメージは、逆に観客にそのようなメッセージを好意的に受け入れさせるために、巧妙に「利用」されてしまう。

その彼がしかし、今回はアフガンからソ連を撤退させる「反戦の」ヒーローを演じているというのは、どういう心変わりなのだろうか。そのへんを吟味したい、という点では、この映画を観てみたいと思っている。

②アフガンの描かれ方について。

もうひとつ気になるのは「アフガン」だ。具体的にこのことが気になったのは『君のためなら千回でも』を観たときだった。

この映画の物語は、もちろん、アフガン出身の作家による自伝的小説が原作なわけで、映画産業のオリジナルではないから、そのことは考慮しなければいけないが、それにしても、ここまでアメリカに肯定的な役割を、そしてその対立項となるソ連に否定的な評価を、与えてよいものだろうか。

この映画でアメリカは、かつての親友の子供をタリバン(ここにもまた幼馴染が成長して参加しているのだが)から救い出そうとする主人公のホームタウンであり、またその彼が、親友の子供を引き取ってエクステンディッド・ファミリーを形成した後で、平和な暮らしを送る場所として描かれている。

一方で物語はソ連のアフガン侵攻には肯定的イメージを与えない。事実に基づいているにせよ、主人公の亡命に繋がる、非人間的な天変地異的な災害として描いている。

さらに問題なのは、この米ソの扱いを背景にすえながら、しかし物語はあくまでも、「タリバンになってしまったかつてのいじめっ子」と「主人公」と「親友」と「その息子」を中心に、これらの登場人物を善悪に振り分けることで、きわめて狭い世界で、言い換えれば「コップの中の嵐」として展開することに終始する、という点である。

ここで僕のような意地の悪い観客は「あ、アメリカはアフガンという『コップの中』で起こった『嵐』に一線を画したいんだな」と思ってしまった。

しかし、実態としてアフガン(タリバン)とアメリカはそんなガラスの壁で隔てられた関係ではないのは明白だ。

ごく最近も、アフガンのバグラムで起こった、米兵による捕虜虐待死事件を扱ったドキュメンタリー映画『闇へ』がアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞を受賞したばかりだ。僕はこの長編版は未見だが、NHKで放映されたヴァージョンは見ているし、録画も持っている。

この映画を踏まえてしまうと、『君のためなら…』も『チャーリー…』も、これらの都合の悪い事実から目を逸らさせようとしているのではないか、とかんぐってしまう。ソ連を悪者にして、自分たちはその批判から逃れようとしているのではないか、と。

もちろん、どの国もそうであるように、アメリカ合衆国政府と、その国の一産業である映画産業との関係は一枚岩的なものではないから、ことはそんなに単純ではないはずだけれど、なんだかそういう意味で、ここのところの「アフガン」ものは気になるなあ、と思っているのだ。

追記①:かつてアフガンでソ連相手に無邪気にヒーローを演じていたランボーさんは、そういえばミャンマーに鉾先を変えてしまった。ミャンマーはとりあえず政治的に受け入れられるだろう、という判断だろうか。

追記②:これらの「アフガン」もので、いまだに悪役扱いされるソ連であるが、そもそも「ソ連」という体制はもうないから、そういう意味でも仮想敵にしてセーフなんだろうか。「AERA」の連載記事で藤原帰一先生が『チャーリー…』を評して、「冷戦時代へのノスタルジー」と語っていたが、そういう「もう過去のことだからセーフ」というものばかりを取り上げるのもどうかと思う。

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有朋自遠方来

Vfsh0332 月火の二日間はいろいろと人を出迎えるのに明け暮れた。

まず月曜日は大学の公開講座。30~40名くらいの県民の皆様を前に、映画の歴史について話す。

しかし、まあ、これは(自分の親くらいの年の人生の先輩方が中心だったので、ちょっと緊張してたいへんだったけど)勉強になりました。ありがとうございました。特に、帰り際にお褒めのお言葉をかけてくださった数名の受講生の方、大変励みになりました。感謝いたしております。

なかでもその中の一名の方は、市の男女共同参画課の方だそうで、内容が多少そういう話だったこともあり、「うちの方でも講演していただければ」とまでおっしゃってくださった。それはさらにたいへんなプレッシャーですが、もしお話が来れば引き受けようと思います。よろしくお願いします。

夜は夜で、そのたいへんな仕事が終わって解放感にずぶずぶに浸ってどうにもならなくなったところへ、高校以来の悪友グループの一人で、今は仕事で全国を飛び回っているえびてつ氏が来訪。地方の仕事と東京の仕事が立て続けにあり、その移動経路上に我が家がちょうどあったのだった。

昼の仕事はたいへんだったけれども、別にこれはたいへんでもなんでもない。むしろ解放の祝杯をあげたいところだったので歓待する。奥さんに頼んで、巣穴の食べかけの餌とか古い藁とか落ち葉をきれいにしてもらい、とれたてのはちみつとどんぐりで来客をもてなす。

というのは嘘で(当たり前だ)、「せっかくだからご当地のおいしいものを」というえびてつ氏のご要望で、埼玉県の地鶏「タマシャモ」を出す居酒屋へ。「タマシャモ」は僕ら夫婦もはじめてだったのだけれど、これが脂分控えめで、でも肉の味は濃く、なかなか美味だった。美食家の奥さんも合格点を出していた。我々男どももおかげで酒が進んだ。

しかしこの日は仕入れの関係か刺身がなかったので、それだけが残念。次回奥さんと二人でリベンジを誓う。

それはともかく、めったにこない友人とともに酒を酌み交わせたので、久々にリラックスできた。まさにタイトルにもあるとおり、「朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」であった。(上の写真はえびてつ氏のおみやげの宇奈月ビール。おいしそうです。ありがとうございます)。

翌朝、えびてつ兄さんを送り出した後、今度は大学にて客人を迎える。

大学の企画した連続講義で、大ヒットしたホラー映画のハリウッド版リメイクも手がけた某監督を招いたのであった。

この監督が、映画監督というといろんなタイプの方がいらっしゃるので、多少緊張して尾で迎えじゃないお出迎えしたのだけれど、とっても優しくてまじめな方でいらっしゃったので、とても嬉しかった。

授業の内容もまじめに取り組んでくださり、学生も熱心に聴いていた。

ただ、講義の途中で流したヴィデオ・クリップでは学生の叫び声に近い悲鳴が上がったのだけれど、学生が叫ぶ授業なんてあまりないから、これはこれでよかったのだろう。と都並は勝手に評価した。でも、教室の出口で何人かの学生に訊いたところ、学生たちも「おもしろかった」と言っていたから、あながち見当違いな解釈でもないのだろう。

ともかく、個人的には成功と思える授業が終わり、その監督を送り出し、その後後片付けをして帰宅したのは9時過ぎ。ホストとしての二日間がようやく終わった。と思ったらなんだか気が抜けて、ソファーで転寝してしまった。深夜に目が覚め、お風呂に入って寝直す。

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エッソボーイでカスタム

Vfsh0329 かねてより世の中のみなさんに問いたいことがある。

それは、「ユニクロの広告は好きですか?」という質問である。

僕個人の答えは「イエス」だ。新聞を読んでいて、間に挟まった広告(どうでもいいことだけれど、これをきれいに半分で折り直して、端をそろえて、資源ごみの日にびしっとくくって出す、というのが都並の日常のささやかな楽しみのひとつである)を順番に検分していって、間に電器屋の広告とユニクロの広告があるとちょっと嬉しくなる。何を買うでもないのだけれど、それだけをよけておいて後でもう一度見直すのが好きなのだ。

おそらくこの行動原理は、子供の頃に玩具屋さんの広告を見て、自分のほしいものを見繕って、それを買ってもらってから遊ぶことを想像していた時分に形成されたものなのだろう。

それは自分でもよくわかっているのだけれど、その無意識に刷り込まれたパターンがいまだに抜けなくて、けれども三十路にもなって欲望の対象が玩具ではおかしいので、現実原則に適合させた結果、ユニクロや電器店に対象がすりかえられているというわけだ。

だから、本当にほしいものなんて特にないのだけれど、ユニクロと電器店の広告は何度も見てしまう。たぶん、ファッション雑誌と呼ばれる類のものも、同じ理由から購入しているのだと思うけれど、こちらも家で何度もめくりなおしてしまう。ページを開けたらまだそこに何かあるのではないか、まだ発見されていない、何か快楽を与えてくれるものが掲載されているのではないか、という気持ちがどうにも抜けないからだ。

また、こんな田舎に越してくると、買い物に出かけるのにも特にお店がない、ということもこの行動に拍車をかけている。

こんな行動パターンの人は案外多いのではないか、というのが都並の推測なのだが、実態はいかがなものだろうか。ひょっとして都並が変わっているのだろうか。

ともかく、そんなわけで何度も裏表をためつすがめつしているユニクロさんであるが、たまに買う。よく買うのはアンダーウェアのたぐいで、かつてヴィム・ヴェンダースは「アメリカは我々の心を植民地化してしまった」と語ったが、同じように「ユニクロは我々のアンダーウェアを植民地化してしまった」といいたいおとうさんも結構いるのではないかと思う。

そのほか、部屋着なんかの類も時々買う。我が家は結婚して以来、家庭内の美観と礼節を保つために自主的に「イモジャー(イモな=ダサい、ジャージ)禁止令」を施行しているので、部屋着にするものが必要となる。それが老朽化した際に、季節の変わり目なんかに新規購入に出かけるのである。

Vfsh0331 その関係で購入したのが写真のミリタリー風のイージーパンツ。生地が薄いし、裾は捲り上げて止められるし、腰もベルトが要らないし、何より安い。

しかしこれをふつうに穿いても面白くないので(別に面白くなくていいんだけど)、奥さんの秘密の引き出しを開けてもらって、中にコレクションされているアンティークのボタンやらアイロン・プリントの類の中から、ワンポイントになるものを貼り付けることにした。

というわけで選ばれたのが最上段の写真のエッソボーイくんである。サイズ的に、ラルフローレンとかラコステのワンポイントぐらいのサイズだったので、ポケットのフラップにそれっぽく貼ってみた。なかなかいい感じではないか。

夏はこのイージーパンツで、近所のスーパーくらいまでなら出かけてしまおう、と今はほくそ笑んでいる。

さらに今後のカスタムの方向性としては、ボタンが安っぽいので、錫かアルミの、くすんだ銀色のボタンに変えたらなかなかいいんじゃないか、と思っている。

当初は、着古したポロシャツから回収したモンクレールのエンブレムがあったので、それを貼ろうかと思っていたのだけれど、サイズ的に合わなかったのと、縫うのが面倒だったのでやめにした。

追記:土日限定価格の、今話題の女性用トップスの売り場は、すごいことになっていました。

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侮れない廉価盤

先日、書店をうろうろしていたら、すごいものを見つけてしまった。

その名も『ナチス侵攻!』という、とてもキワモノふうのタイトルの、廉価版DVDである。

廉価盤については我々研究者の世界では賛否両論あって、廉価盤になる=著作権が切れている=古典的映画、ということで、かつてはVHSでなかなか入手しにくかったソフトが、きわめて安価で手に入るということ自体は歓迎すべき事態である。

しかしながら一方で、ものによっては字幕の間違い(廉価盤でなくたって間違いは多々あるのだが)などもあって、諸手を挙げて称賛するというわけにもいかない。

が、今回の場合は、間違いなく応援したいケースである。

なぜかというと、このタイトルが、実はフランク・キャプラによる有名な戦時ドキュメンタリー『我々はなぜ戦うか』Why We Fightのうちの一本だからだ。

全部で7本存在する新兵教育用のこのドキュメンタリー、かのフランク・キャプラが撮ったものであり、しかも『意志の勝利』や『オリンピア』といった、レニ・リーフェンシュタールがナチ政権下で撮ったドキュメンタリーのフッテージや、ディズニーが作ったアニメ地図部分などを含んでいるという点で、映画史研究において非常に重要な作品になっている。

専門ではない人には、とにかく重要だ、ということである。どれくらい重要かというと、ロック史におけるドアーズの未発表音源ライブのオンライン通販盤くらいは重要である。

これを、しれっと500円で、しかもかなり正確な字幕つきで出している会社があるとはびっくりした。

しかも同梱のチラシを見ると、オンライン通販もしているという。早速調べたところ、『我々はなぜ戦うか』からは日本の中国侵攻を扱ったThe Battle of China(販売タイトルは『中国侵攻作戦』)と、そのほか同じ戦時ドキュメンタリーとしては、ジョン・フォードが撮ったDecember 7th(『真珠湾攻撃』)が発売されている。さっそく注文し、入手する。

いやはや、このタイトルの日本語字幕つきが買えるとは思わなかった。ちょうど映画史の授業をやっているので、そこでさっそく上映しよう。

それにしても面白いのは、このタイトル、発売元は決してそんな大上段に構えた方針があるようではなく、パッケージングとかその他のタイトルなどから見て、マニア向けの戦争ドキュメンタリーとして(要はキワモノとして)売っているということだ。

俗な言葉で言えば、「天然」なのである。

しかし、この会社は研究者としては実に応援したい。できれば今後『我々はなぜ戦うか』のシリーズを全部刊行してほしいからだ。そういうメールをしたためようかと思うくらいだ。

ところで、このタイトルを手に入れた契機が結構面白かった。サイトを見てもらえばおわかりのとおり、この会社からは同じく今月リーフェンシュタールの『オリンピア』二部作、すなわち『美の祭典』と『民族の祭典』が発売されていて、都並は最初書店でそちらに目が留まった。

そこでまず一度、このタイトルが500円で出ていることにびっくりして、隣にいた奥さんに「これが500円ってすごいことなんだよ。即買いしよう」と言ったら、奥さんは「ふーん」と興味なさげに相槌を打ちながら、それよりもはるかにキワモノ感漂う隣のタイトルを指差し、「こっちのが面白そう。ナチス侵攻だって」とのたまった。

僕はそれを一瞥し「これだから素人はいやだな」と切り捨て、「こっちはリーフェンシュタールなんだよ。このレニ・リーフェンシュタールって人は…」と例によって薀蓄をたれようとしたのだった。

しかしそのときそれをさえぎって奥様が、今となれば神のお告げとも思える一言をのたまったのである。

「監督フランク・キャプラだって」

「え」

都並はそこで思わずフリーズした。実は今ちょうど、『我々はなぜ戦うか』についての文献を読んでいるところであり、即座に「もしかしたら」という思いが脳裏に閃いた。

そこでDVDを手にとって見ると、案の定、『我々は…』の一本に間違いない。

「えええ…これがソフト化されているなんて…しかもこんなご無体な売り方で…」

予想外の出来事が二段階仕込みで起こったことに都並はいささか腰砕けになり、よろよろと、しかしわき目もふらずにレジに向かったのだった。

㈱コスミック・インターナショナルさん、ぜひ『我々は…』の全作、500円で出してください。ついでに『意志の勝利』もよろしくお願いします。

追記:キャプラといえば、今木村拓哉さん主演でやっているドラマ『CHANGE』って、『スミス都へ行く』じゃないのか。

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鎌倉に形から入る(後編)

(前編からの続き。更新に日が空いてしまったけれど後編。前編を改めて読み返してみて、どうしてこんな細かな行程表みたいな記事をちまちまと書くのだろうか、日記なんだったら「鎌倉に行って楽しかった」という程度の備忘録でいいのではないか、といまさらながらつくづく思ったりもしたのだが、それではインターネット上に書くということの意味がない、という思いもあり、このままの方針で後半を書くことにする)

Fl000026 ビーチボーイズとビーチの風景の絶妙なマッチ(何度も書くが当たり前だ)を楽しみながら、浜辺沿いを奥さんと歩いていく。僕だけ「ドンウォーリーベイービー」と鼻歌交じりではつまらないので、奥さんにもイヤフォンを片耳供給し、仲良く連れ立って歩いていく。

空はあいにくの曇天だが暑い。途中ローソンによってアイスクリームを補給したにもかかわらず、暑い。

Fl000020 しかたがないので由比ガ浜を望むサーファー・テイストのお店を見つけて入ってみる。名前は「Daisy's Cafe」 。

ここもちょうどお店に入ったときに道路側の席が空いたので、そこにそそくさと座り、冷たい飲み物を注文する。奥さんはアイス・カフェオレ。僕は、せっかくの連休だし、海を見に来たんだし、ということでコロナビール。ちゃんとライムが刺さって出てきたので満足。飲めない体質の奥さんはコロナビールの瓶をはじめてまともに見たらしく、「へー、かわいいねえ」と感心していた。

Fl000022食べログ」なんかにも内装が掲載されているので、ここにも写真を貼ってみる。まったくサーフィン文化に縁がない(けれどひそかに憧れがある)運動音痴の僕としては、かなりのサーファー・テイストだ。

サーファーといえば、鎌倉でもうひとついきたかったお店があった。稲村ガ崎駅のすぐそばにある「ダコタ」である。ここは「パシフィック・オーシャン・ブルー」というオリジナル・ブランドのTシャツやバッグなんかを扱うショップである。

このブランド名が、聞けばビーチボーイズのソロ・ドラマーにして唯一のリアル・サーファー、デニス・ウィルソンのソロアルバム名から取ったものだという。ビーチボーイズをリスペクトする元ドラマーとしては、買いに行かないわけにはいかない。

しかも、リンク先を見てもらえばわかるように、ここのデザインはかなりかわいい。いなたさというか古き良きアメカジの香りと、ほどよい今風加減とが絶妙にマッチしている。マスコット・キャラクターのデニスくん(もちろんデニス・ウィルソンから)もかわいらしい。

Vfsh0315_2 このテイストは奥さんも気に入ったらしく、いろいろと大人買い。まずはトート、それから丸型のハンドタオル(汗かきなので夏場の授業で使おうと思います)、ステッカーはすべて同柄のデニスくんをフィーチャーしたもの。

これにくわえて、夏場に向けて都並用のTシャツも購入。厚手のしっかりした生地で、これで2800円はどう考えても安い。

ただ、サイズは難しくて、サーファー用なので、ゆったりしている。都並は基本Mサイズなのだけれど、Mサイズを選ぶとかなり大きめで、着丈も長い。ゆったりしているぶんにはいいのだけれど、着丈が長いのはあまり好きではないので、Sサイズを購入。

Vfsh0316_2 これが、家に帰って来てみたら、50年代のマーロン・ブランドとかジェームズ・ディーンみたいなタイトな感じだった。基本的にTシャツはジャストフィットが好きなのでまあOKなのだけれど、選ぶときは気をつけたし。

柄は、鎌倉の地図が書いてあるという、北関東で着るのにはいちばん微妙なものをチョイス。黄色とブラウンの組み合わせが古着っぽくて気に入ったからだ。「おまえ鎌倉に何の縁もゆかりもないのになぜ」というような問題には拘泥しない。自意識の希薄なおじさんだからだ。

ところでこの「パシフィック・オーシャン・ブルー」、「鎌倉生まれ鎌倉育ち」というロゴのTシャツの英語が間違っています。「Borned and Raised」となっていますが、「born」はすでに「bear」の過去分詞なので、-edはつきません。「生え抜きの」なら「Born and Bred」がよろしいかと。

Fl000032 「ダコタ」を出た後は、「R OLD FURNITURE」という古家具屋さんに直行。2号店はごらんのとおり江ノ電の線路に直面している。高校以来の悪友に、同じように実家が京阪電車の線路に迫っている友人がいたが、それを思い出す。

ここでは奥さんが、幼稚園サイズの古い木製チェアーにはまってしまう。値段もお買い得だったので、即座に購入を勧める。「持って帰れるの?」と奥さんは不安げだったが、「大丈夫大丈夫」と安請け合いする。

Vfsh0310_2 これがその椅子。無事北関東の巣穴に持って帰ってこれたのだけれど、なかなかこいつが大変だった。

連休ともあり、江ノ電が殺人的に混んでいて、その中に持ち込むときがいちばんひやひやした。網棚の上に置けたので事なきを得たのだけれど、乗り込むときの車内のほかのお客さんの目が痛かった。

いやそれにしても連休中の江ノ電は混んでいました。20世紀半ばのドイツの悲しい記憶を連想するくらい混んでいました。

Fl000037 2号店を出た後、1号店にも行ってみた。こちらも線路のすぐそばにお店がある。

ちなみに、天然な奥さんは、この二つのお店が同じ店だとはぜんぜん気づかずに入っていたのだそうだ。そのせいで「あれ、ここにもおんなじ椅子が売っているね」などと不思議なコメントをしていた。

いつも旅行となると日程はすべて都並任せなので、こういうことが起きるのである。

Vfsh0314_2 この後は浜辺を離れて、やはり殺伐とするほど混雑している(実際、小さな子が常に泣き叫んでいました)江ノ電に乗り、鎌倉駅へ帰る。

鎌倉駅では西口に出て、「Romi-Unie Confiture」へ。ここは、奥さんの所属するスイーツ・クラブ(と僕が勝手に認定している)の仲間たちの間ではマストになっているコンフィチュール(ジャム)のお店。

グランスタ内にもカップケーキの店を出しているいがらしろみさんのお店だ。

ここでも奥さんと大人買い。コンフィチュールを三種類、クレープの粉を二種類、それから炭酸水なんかで割るとおいしいというシロップを一本。これらを先述の椅子の上に並べて撮ってみたのが上の写真。

どうでもいいけれど、いがらしろみさんご自身がこの日は店頭でクレープを焼いていた。ブログを拝見するとそのことが書いてあるのだけれど、面白いのは、ここへ足を運ぶ女子の大半が、ろみさんのお顔を知らないのでぜんぜん気づいていなかったことである。もちろんスイーツ・クラブの部員であるうちの奥さんは気づいていたけれども。

その後、夕食は鶴岡八幡宮の参道沿いにある「bowls」なる「どんぶり」をフィーチャーしたカフェでお食事。ここは、隣のテーブルをいくつか貸し切ってお祝いのパーティーをしていたグループがいて、そこの若者は北関東にはまずいないくらいのおしゃれさん&イケメンばかりだったけれども、フードはどうってことなかった。

Vfsh0309_2 ともかく、お昼に続き夜も無事食べられたので弛緩し切った我々は、その後も買い物を続行。駅前の売店で「こ寿々」のわらび餅を購入したほか(写真。これは確かにおいしかった。もちもち感がすごい)、なんだかよくわからない豆やら、定番の鳩サブレやらをがっちり購入。

そのまま山ほど荷物を抱えて帰りの電車に。帰りのJRはなぜか空いていて、ぜんぜん座って帰れたのだった。

いやはや、またもや散財した日帰り旅行だった。

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鎌倉に形から入る(前編)

Fl000029 GW後半の中日、奥さんと今度は鎌倉に出かけた。

旅の目的はいたって単純で、海を見ること、である。

何せ、今住んでいる北関東には海がない。群馬県にも栃木県にも埼玉県にも海はない。このことがもたらす内陸感というか、内奥感というか、ともかくその閉塞感は実は都並にはけっこう心理的な圧迫で、時折「僕は奥地にいるんだ」と思うと息苦しくなるくらいである。

だから、ちょっと開放感を得るために、鎌倉に行ってみることにしたのだ。

これはしかし、よく考えてみると不思議なことだ。何度も書いているが、都並はそもそも、朝な夕なにトトロが何匹も跳梁跋扈する山村で育ったのだから、そんな人間にはもとより海なんてものは必要ないはずだ。

ではなぜ、この窒息しそうな気分が訪れるのだろうか。

と思ってよく考えてみると、たしかに山村育ちの少年ケニヤではあったが、高校の時分は琵琶湖のほとりに生息していたこともある。また大学以降は10年以上大阪に住み、その間神戸で勤めていたこともあるが、その頃はいつもすぐ近くに海を感じ、また事ある毎に海を見て暮らしてきた。その経験が大きいのだろう。

実際、この京阪神というところは、日本列島を人間の体に喩えると、ウエスト部分のようにぐっと締まっているので、実は2府4県のどこにいても比較的簡単に海にアプローチできるのである。少なくとも都並の認知地図ではそうだ。そういった開放感とともに育ったせいで、この北関東の内陸感が息苦しいのだろう。

…こんな話を延々していたら、いつまで経ってもホビット庄を出ない『指輪物語』みたいになってしまうので、さっさと海へ急ぐ。

海を見に行くのはいいのだが、連休の中日とあって、朝早くからJRに飛び乗ったにもかかわらず、車内はグリーン車まで満席だった。そのせいで新宿あたりまで立って行くはめになった。日ごろから90分単位の立ち仕事をしているので立つことは苦にならないのだが、これから行く先の混雑を予想すると恐ろしくなった。

Vfsh0301_2 鎌倉駅に着いたのは11時前。奥さんとの事前の打ち合わせどおり、一目散に(という表現は合っているのだろうか)ランチのお店へ駆けていく。目指したのは「JARDIN SHOKUDO」。事前の調査で入手したOZマガジンの鎌倉大特集号に掲載されていた写真が、京都のバスティーユをほうふつとさせる感じだったのと、ランチタイムが11時から営業しているという理由でここに決めた。

(…こう書きながら、自分の行動パターンがどこまでもメディア中心のウォーク・ラリー[ 雑誌に書いてあるお店に入ったらポイント・ゲット、という意味での ]的なものであることにふと嫌気が差しかけたが、その嫌気を無根拠に振り切って先に進む)

短い足で必死に早歩きしながら店に着くと、はたせるかな、ちょうど二人分の席が空いていた。そこに飛び込んで、「連休の行楽地にのんきに出かけていって混雑のせいでランチを逃す」という最大の危機は逃れることができた。

その安堵感を存分に味わいつつ、グリーン・サラダと、牛肉の赤ワイン煮(都並のメイン。写真)と、サーモンのムニエル(奥さん)で優雅な昼食を採って、「おいしかったね」とお店を出たら、店の外には15人くらいの待ちができていた。先日のガレット屋さんといい、お店に入るタイミングに恵まれている。

Fl000009 おなかが膨れた後は、鎌倉農協連即売所にあるショップ(写真)を覗いた後、由比ガ浜通りを通って海のほうへ。途中、「JARDIN SHOKUDO」のすぐ近くの雑貨屋さん「STILL LIFE」を少し覗き、そこから古道具屋さんの「そうすけ」さんも覗いていく。

何を買うわけでもなくても、こういう、北関東ではなかなかお目にかかれないセンスのお店に入ること自体が楽しい。

Fl000011 由比ガ浜通りではいい感じの古い銀行の建物があったので写真に撮ってみた。この日は最近気に入っているHOLGA135ではなく、使い慣れたLOMO LC-A+を持っていった。

すごい人出なので、人が切れる瞬間を待つのが大変だった。入り口のおじさんはいつまでもどいてくれなかったので、この際フレームに収めてみたら、なんだかいい感じだ。

そんなこんなで浜辺にたどり着いたのだが、着いたら着いたでまた買い物してしまう。「腸詰屋」という直球のネーミングのお店があったので、思わずそこでソーセージを購入。

この「腸詰屋」、「朝食に鎌倉のソーセージなんて、なんかおしゃれではないか」といういかにもミーハーな思いつきで参加したのだが、後で調べたら群馬県のお店だった。よく考えれば北関東は一大豚肉生産・消費地域ではないか。恐るべし内陸部。

Vfsh0307_2 それはそれとして、このソーセージはなかなかおいしい。ふつうのハムとは気分が変わって、毎朝このソーセージを楽しんでいるところである。これを、同じく鎌倉の「Bergfeld」で買ったプンパニッケル(パンパーニッケル)にはさんで食べる。黒パン大好きな都並としては至福のひとときである。

ここで買い物は一段落して、ようやく浜辺の見物に向かう。

実は、どこまでも形から入る都並は、今回の小旅行のためにiPodにビーチボーイズのベスト盤を入れてきた。ちょうど先日、『村上ソングズ』を読み終わったばっかりで、その中に名曲「神のみぞ知る(God Only Knows)」が収録されていたので、海を見ながら聴いてみたいと思ったのだ。

どミーハーな発想ではあるが、これがサザン・オールスターズでなくビーチボーイズであるところに多少の矜持がある。

Fl000014ということでカバンからそそくさとiPodを取り出し、この計画をさっそく実行に移したのだが、これがやっぱり、当たり前といえば当たり前だが(だって「浜辺の少年たち」だもんな)、効果はてきめんである。目の前の景色と音楽とが、事前に頭の中で想像していたのをはるかに超えて、圧倒的な叙情性でもって訴えかけてくる。視覚と聴覚のふたつのチャンネルがめいっぱい「海!」と叫んでいるのである。

(後編に続くか?)

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カフカくんのデッキシューズ

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いやはや、ここのところの異常気象で、わが町は早くも最高気温が30度を超えてきている。こうなるとリアルに半袖を着るべきなのだけれど、といっても朝夕は多少も冷え込むし、で困っている。

いずれにせよ日中がこうも暑いと、ついつい「5月で30度だったら8月はどうなるのか」と言いたくもなるのだが、その答えは自明である。8月は40度になるのだ。だから、「まだ10度も涼しい」のだ。しゃくではあるがそう考えると変に納得してしまう。今20度で夏が30度、というのと同じである。

ともかくそんなわけで、迫り来る暑さをひしひしと感じながら、連休前半の中日の日曜日、住み慣れた巣穴をもぞもぞと抜け出し、奥さんと連れ立って東京まで買い物に出かけた。

今回の旅の目的は、ヴァンズのスリッポンを買うことである。

なぜだか判らないがしばらく前から、都並の脳裏をスリッポンのイメージが支配していて、「今年の夏はこれだな」と思っていた。

というわけで、東京でヴァンズのスニーカーを買うのにもっともふさわしいところはどこか、と30過ぎのおじさんなりに考えた結果、それが正しい答えかどうかはわからないが、「原宿」という答えが出た。

そこで奥さんを伴って、30過ぎにして初の本格的な原宿行に向かったのである。

といっても、「ヴァンズのスニーカーが買いたい」というだけでは気の毒なので、ついでに甘いものもツアーに盛り込むことにした。

Vfsh0287ということでまず向かったのは、原宿と渋谷の中間にあるガレット(クレープ)の有名店「オ・タン・ジャディス」。場所柄並ぶかもと思ったけれど席が空いていてすんなり座れる。

ここでランチを兼ねて、ラタトゥイユを包んだガレット・プロヴァンサルと、塩バターキャラメルのクレープ(写真。テーブルクロスが我が家と同じ柄ではあるが、店内のものである)を食べる。

これが、ガレット・プロヴァンサルのほうは具が具なので、ピザっぽい味というか、想定範囲内の味だったけれど、塩バターキャラメルのほうは「またこれだけ食べに来たいね」というくらいの、味のバランスの取れた一品だった(総じてお値段は少し高めだったけれど<特にドリンク)。

これらを食べながら、新婚旅行で行ったプロヴァン(プロヴァンスにあらず)で我々の空腹の危機を救ってくれたガレットの思い出話に花が咲く。プロヴァンでお昼時をはずしてしまい、大半の店が閉まっていたところ、広場に面したガレット屋さんだけが開いていて、おかげで我々はボリュームたっぷりのガレットを食べることができたのだった。

すっかりおなかがふくれて店を出るときには、あにはからんや、お店の入り口には長蛇の列ができていた。そろそろランチというよりおやつの時間にさしかかっていたからだろうか。時間をはずしてよかったね、と奥さんとほくそ笑む。

その後、恥ずかしながら人生初のキャットストリートへ。もちろん、恥ずかしながらなのは「30過ぎてキャットストリートに行ったことないなんて」という意味ではなく、「別に行かなくてもいいのに30過ぎていまさら出かけるなんて」という恥ずかしさである。

が、基本が大人気ない都並はキッズの服に対する関心がいまだに衰えていないらしく、「大きいお友達」として、下手すると自分より10歳以上も若い人たちに混じって買い物をしたわけだが、「へー、ここにこういう服があるんだね」などといいながら基本的に楽しんだ。

Vfsh0288お目当ての品であるが、ヴァンズに出会う前に、旅の早い時点で入った店で「トップサイダー」を見つけてしまった。グレーのシアサッカー地が夏らしく、しかもシューレースレスで履けるというすぐれものだ。

結局、そのほかの店も見て回ったのだけれど(SMAPの木村拓哉さんが一時期探していた、都並も高校生の時はいていたトレトンのお店があったので、そこも「ケネディ大統領がテニスのときここのキャンバス・ナイライトを履いていたんだよね」などといういやな薀蓄を垂れつつ覗いたのだけれど)結局これを超えるお気に入りに出会えず、ヴァンズのスリッポンからそんなにコンセプトは離れていないだろう、ということでこれを購入。

ちなみに値段は13000円くらい。後で調べたのだが本国では50ドルくらいの品物なので、ずいぶんいろんなものがのっているなあ、という値段なわけだが、スニーカーの相場としてはこんなものだろう。

値段よりも何よりも購入の決め手となったのは、この靴が、少なくとも都並にとって、びっくりするくらい履きやすい、という点であった。足にぴったりフィットして、歩いてもちゃんとついてくるし、ソールもやわらかくてクッション性もある。

50ドルなら安いから、今後ネット通販で色違い・型違いを買い続けようかな、と思うくらいである。

ところで、「トップサイダー」といえば、村上春樹の作品によく出てくるなあ、と思って帰宅後調べてみたら、『海辺のカフカ』で田村カフカくん(15)が履いていたのがトップサイダーのデッキシューズだった。ハルキストとしては、カフカくんと同じかと思うとなんとなく嬉しい。

Vfsh0291 さらにこの日は、これにあわせて穿くワークパンツを購入。奥さんが先日「アンシェヌマン・ユニ」で買った「エルマフロディット」のワークパンツが羨ましかったので、自分用にも尾錠のついたバストンチーニ地(?コードレーン?)のパンツ(写真右。左が奥さんのワークパンツ)を買うことにしたのである。

この手の夏の装いを買い込んで、あとはTシャツ・ポロシャツを買い足して、今年の夏の買い物は終わりだな、という気持ちに今はなっている。

その後我々は原宿界隈を離れ、青山へ。ここでは奥さんが気になっていた雑貨店「オルネ・ド・フォイユ」、「エルマフロディット」、「ジャーナル・スタンダード」などを覗く。これらの店で奥さんも自分用に靴やら布きれやらを購入して、程よく疲れたので状況終了。

その後は丸の内の「きじ」でいつものごとくお好み焼きに舌鼓を打ったのだった。思えば、東西の粉もんばっかりたべた一日だった。

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田舎っぺ、田舎っぺを食う

Vfsh0265 先週、とあるTV番組で、うちの隣町(昨年の夏観測史上最高気温を記録したえげつない町)の特集をやっていて、それを奥さんとメモを撮りながら見ていたら、その中で「元祖田舎っぺうどん」というお店を紹介していた。

何でも、「武蔵野うどん」と呼ばれる独特のスタイルのうどんで、冷たい麺にあったかい汁(たいてい、きのこやねぎ、お肉<といってもこっちは豚肉、などの具が入っている甘辛い汁)で食べるのが基本だという。

それを見ていた我々夫婦はとっても食べてみたくなり(俗な表現で言うところの「口がうどんの口になり」)、翌日ドライブがてらお昼を食べに行ってみた。

とはいっても、肝心のお店はその日(日曜日)定休日だったので、隣町のさらに隣町の支店に足を運んでみた。

これが、結果から言うととてもおいしかった。

もとより「ねぎ星人」を自負し、「三度の飯より寿司が好き」という言葉と「人類は麺類」という言葉をモットーとしている都並は、寿司とうどんには目がなくて、友人と連れ立って讃岐うどんを食べに香川まで出かけたくらいである(そのときはまだ『恐るべしさぬきうどん』が上梓されたばかりで、村上春樹が「なかむら」について書いてはいたけれど、現在のようなブームの到来前だった)。

だから、ちょっとやそっとじゃ、そんなに簡単に「うまい」といいたくはないのだけれど、ここのはおいしかった。

もちろん、讃岐うどんの生醤油のように、あっさり出汁醤油(それも炒り子出汁)とすだちでさっぱりいただく、というのとはまったく違い、甘辛いしっかりした味付けの汁だけれど、これがぜんぜんくどくなく、どんどん食べられる。

ただ、どんどん、といっても、気をつけなければいけないのは、ここのお店は基本の盛りが450gだかあるということだ。これはふつうのうどんの量をかなりオーバーしている。だから、女性や子供なんかだと、普通盛りでも大変な場合がある。

今回、奥さんはこの普通盛りを食べたのだけれど食べきれず、都並に残りが回ってきた。そのとき都並は600gの大盛り(写真。つけ汁はちなみに「肉ねぎ」。基本は「きのこ」だという)を完食し、「オレの胃袋は宇宙だ。My stomach is a little universe.」などとえらそうに宣言していたところだったが、その実けっこうおなかがいっぱいだった。だからその残りも平らげたときにはおなかがはちきれそうだった。

しかも、これは都並には嬉しいことではあるのだけれども、この麺が非常にコシが強くて、それも、本場讃岐のうどんを「グミ」くらいのコシだとしたら、「ゴムパッキン」くらいのコシがあるのである。そのこと自体は歓迎したいのだが、困ったことにはそのせいか、非常におなかの持ちがよくて、食べ終わった後いつまで経ってもおなかが減らなかった(そのせいで、この日の夕食は9時ごろになってしまった)。

というようなうどんなのに、「目に言う」(お好み焼き屋「きじ」とおなじセンスだ)には通常の2倍の900g、3倍の…と量が増えていって、最高3kgまで設定がある。これを頼む人はどんな人なのだろうか、とびっくりした。

とはいうものの、周りの客を見渡してみると、けっこうふつうに900gまでは頼んでいる人がいるので二度びっくりした。北関東人恐るべし。

なんにしても、この「田舎っぺうどん」、自分に呼びかけられているようで気にはなるけれども、食べ終わった後の幸福感というか満足感が非常に高いのは間違いない。決して「ご馳走」と呼ぶべきものではないが、食後、家へと車を走らせている間、我々夫婦の脳内を幸福物質が満たしていたのもまた確かなのである。

だから、つまり、端的に言うと、「これはこれであり。うまいもの見つけたり。また食べに行こう」ということなのであった。

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