(このレビューの内容は7月27日に改稿されました。読み直してみたらあまりに独善的に専門的でわかりにくかったし、実際そういう意見もいただいたのと、もう少し書き加えたい部分があったからです。でも書き直してみてもまだ実際わかりにくいかもしれない。分かりやすく書く、ということは時に難しいことです/そしてさらに31日に追記されました。パランプセスト化するわたしの日記。)
個人的にはナイト・シャマランの映画は好きである。なんだかんだ言って『レディ・イン・ザ・ウォーター』以外は全部観ている(これも近いうちに観ようと思っている)。
さらにいうと、『28日後…』やスピルバーグ版の『宇宙戦争』、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』といった、世界の週末を描いたいわば「黙示録映画(apocalypse film)」も個人的な好物である。これはやはり、極限の状況で平凡な個人がいかに才覚を発揮して生き残るか、という冷や冷や感に魅せられるからだと思う。
特に、「平凡な個人が」というところが大事で、通常の社会では資本家や政治家が権力を握る構造になってしまっているところを、こういった極限の状況では、そういった権力を特に持たない一介の市民にも生き残る(勝ち残る)チャンスが与えられる。そこに一種の解放感、カタルシスを感じるのだと思う。
もちろん、アメリカ映画のこういった傾向、しばしば大局的な状況を個人の物語に集約させてしまう(『デイ・アフター・トゥモロー』のオープニングなんかはその好例だ)という特徴については、批判がなされてきたのも事実である。特にヴェトナム戦争を扱った一連の作品では、まさにこの点が、大局的な要因に無批判だということで批判されてきた。
結局、戦争が起こったのは国家権力と利権争いの問題である、という大局的な要因がそこでは棚上げにされ、個人がいかにその悲劇的・極限的な状況を生き残るか、という問題に話がすり代えられてしまっている、というわけだ。
けれども、こういった超自然的な黙示録映画では、そういった政治的な批判をする必要はない。もちろん、例えば『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』が「赤狩り/共産主義」の寓意として読まれたように、映画の中で超自然的な出来事として描かれているものを、何らかの政治的な状況の比喩として解釈することも可能だし、実際にそのような「読み」を誘発する映画も多いけれども、だからといって必ずしもそういうふうに受け取らないといけない、ということではない。映画が提示するサバイバルの状況を、ある程度は無邪気に楽しんでもいいのだ。
ということで、予告編を観た段階からその異様な光景にひきつけられてしまった『ハプニング』、先行上映があるというので、仕事終わりでタイトなスケジュールではあったが、観に行ってきた。
結論から言うと、今回の『ハプニング』は、上述の「黙示録映画」のカタログに加えられてしかるべき、よくできた作品だと思う。
もちろん、予告編で「いったいどういう謎があるんだろう」とあれだけ気を揉ませておいて、そのわりに映画の早い時点で「環境破壊に対する植物の反撃」という答えを出してしまうことには拍子抜けするのは確かだ。
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7月31日追記:さらに拍子抜けするのは、その「反撃」に対する有効な防衛策が提示されぬまま、まさに前述の『デイ・アフター・トゥモロー』の異常気象よろしく、突然に、かつ確たる説明もないままに攻撃の手が止まってしまうことだ。
これはしかし、作り手の気持ちになってみれば止むを得ないことなのかもしれない。そもそもこれらの映画が「環境破壊」の問題を提起しようとするのであれば、「そこには何らかの短期的に効果が上がる対策がある」と安易に提示することは好ましくない。
けれども一方で、映画なんだから、しかるべき時間に終わらないわけにはいかない。
すると、このような終わり方しかないわけだ。
しかしながらこれが例えば、ローランド・エメリッヒや他の監督の作品ならばさほど観客の落胆を誘わなかったかもしれないが、叙述のトリックとあっと驚く「オチ」「どんでん返し」で名を馳せたナイト・シャマランの作品であってみれば、そこには一種の不運があったといわざるを得ないだろう。
やはり観る者は皆「どんでん返し」を期待して映画館に足を運ぶわけだし、そしてその期待は今回は裏切られる。そこに不平不満の声があがるのも自然なことだろう。
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「環境破壊」というあまりに時事的な話題を映画の最終的なテーマとして扱ったこと自体についても、そのやり方があまりにストレートというか安直で鼻白む思いもするし、ナイト・シャマラン作品に特有の(とくに、『サイン』で顕著な)、こちらもあまりに真っ向勝負で純粋な人間観、なかでも愛情といったものの無邪気すぎるような扱い方については、今まで同様に何となく親身になって受け止められないのも確かだ。
端的に言うと…「ティラミス食ったぐらい、なんやっちゅうねん」ということである。やはりあそこは奥さんとジョーイが一度くらい関係を持っていないと話に重みが出てこない。要は自分が屈折しているだけなのかもしれないが、この点、映画の始まる時点から離婚している『宇宙戦争』のトム・クルーズに軍配が上がる。
それでも、やはりナイト・シャマランは、彼自身自分の映画に必ずちょこっと出演する、という趣向から分かるとおり(今回の出演の仕方には、『ヴィレッジ』を超えて度肝を抜かれました)、ヒッチコック的な映画を作る監督だと思うし、ヒッチコック的な映画の面白みといったら、登場人物の人間的な厚みとかリアルな感情描写とかではなくて、まさに「マクガフィン」をめぐる叙述テクニックの面白さ、ほんとうはたいしたことないものをめぐる展開の説明のうまさだと思うので、そういう意味では今回も面目躍如、といったところである。
つまりは90分、飽きずにはらはらさせてくれる。落ちはつまらなくても、そこへいたる語りの技術が素晴らしいので、楽しんで観ることができるのだ。
このテクニックを我々はどこに見て取ることができるか。映画を観終わってから数日、このことをよく考えてみたのだけれど、やはりひとつには、主人公グループの移動の経路とサバイバルの戦略をきわめて分かりやすく図式化し、またそれをきわめて視覚的に伝えたというところにあるんじゃないかと思う。
まず、大都市から中規模都市、そして田舎へと、脅威の侵攻はきわめて単純明快に語られ、それはまたTV画面の地図として視覚的に提示される。おかげで我々は主人公グループがどのような経路で逃走しているのかを簡単に思い描くことができる。
さらに、大規模な集団から少数のグループへ、最後には3人の「擬似家族」へ、という、主人公が所属する集団の数字上の変化も、物語の展開を明解にすると同時に、サスペンスを盛り上げるのに貢献している。植物は人数の多いほうを攻撃する。そのためやがて主人公のグループは5人になってしまう。
すると、我々観客は次の展開を予測する。次は人数がさらに減るわけだ。5人のうち2人は新参者で、3人は旅の始まりからいる、いわば「擬似家族」だ。物語上は3人の方が重要度が高い。しかしこちらのほうが数字的には人数が多いわけだから、仮にこの5人のグループが自らの意志で分裂するか、あるいは不可抗力で分断されると、より危険に晒されるのは主人公を含む3人のグループということになる。ここにサスペンスが生まれる。
このような生存のための戦略(それは我々観客の物語理解のための戦略でもある)の分かりやすさが、物語を効率よく運ぶのに貢献しているのは間違いない。
この映画のもうひとつの美点は、近年のVFX・CGI使いまくりのスペクタクル映画に比べたら、非常に低予算で仕上がっているだろうことがよく分かる、というところである。巨大なモンスターが出てくるわけでもないし、車がロボットに変身するわけでもない。風が吹いただけで怖い、という趣向を思いついた、発想の勝利である。その意味で、製作費をふんだんに使って「どや」顔をしている近年のハリウッド映画に対するアンチ・テーゼとしても価値がある。映画のテーマであるエコロジーを、自ら実践しているとも言える。
ただ、難を言うと、若干効果音で驚かす「ショッカー」的演出が目についたのと(ちゃんと驚きましたが)、必要以上に残酷な場面が多いのにも閉口した。もちろん、映画の緊迫感を保つためには、継続的に残酷な自殺の場面を見せる必要があったのだろうけれども、例えばモデルハウスの芝刈り機での自殺の場面など、最後はマーク・ウォールバーグの表情で暗示する、という穏健な演出でもよかったのではないだろうか。
それから、ズーイー・デシャネルという女優さん…業界人一家の出だそうだが…正直、あんまり上手じゃなかったんではないだろうか。くりくりの目をこれでもかと見開いているばっかりで、演技のアンサンブルに貢献していたとはとてもいえない。表情から感情を読み取ることができないのだ。この人の存在がずっと気になって、映画の感情的なムードに乗っていくことができなかった。
一方でジョン・レグイザモは、個人的に好きなバイ・プレイヤーなのだが、今回もどことなく風変わりで癖のありそうな数学教師、というキャラクターを充分練り上げていて好演だったと思う。かつて『スーパー・マリオ』のルイージも演じていたし、ほんとうに幅の広い俳優さんである。
最後に、恒例の点数であるが、僕はナイト・シャマランの、巧みな叙述トリックと少年ジャンプ並みのシンプルな感情描写の組み合わさった映画が大好きなので、80ナイト・シャマラン。
横で観ていた奥さんに訊いたら70ナイト・シャマランだというので、足して2で割って、75ナイト・シャマラン。
彼の映画が好きな人は、観ても損した気分にはならないだろうと思う。
追記:ナイト・シャマラン映画のもうひとつの見所は、少なくとも個人的には、「アメリカの田舎」を見せてくれるところだと思っている。ニューヨークや西海岸の都市生活を中心にした映画が多い中で、彼自身の拠点であるフィラデルフィアの風景をおそらくは反映したであろう、朴訥なアメリカを見せてくれるところにも、主流のハリウッド映画に対するアンチ・テーゼとしての価値があるんだろうと思う。
この点においても、近作はたっぷりと田舎を見せてくれるので、心を洗われる思いがした。残酷描写の多いパニック映画に心洗われる、というのも変な話だが。
追記②:モデルハウスといえば、『インディ・ジョーンズ』の最新作でもモデルハウスが登場していたのだけれど、これは核実験施設の一部としての登場であった。蓮實重彦先生が『ユリイカ』で語っていたところによると、この映画の隠れた主題は核爆弾である、ということだが、もしそうなら、この映画もまた「黙示録映画」のひとつということになる。このふたつの「黙示録映画」にモデルハウスが出てくる意味とはいったいなんだろうか。そこにはどのような集合的無意識が働いているのだろうか。
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