風邪を引きました。
たぶん熱はないんだけど、どうにも咳が止まらず、頭がくらくら、身体も少しだるい、というありさまです。どうも、土曜日に職場の同僚の先生が声を完全に枯らした状態でこられていたので、そこからいただいたみたいです。
しかしまあ、この稼業の救いは、そろそろ授業も終わりかけであるところ。といっても、優に3桁、下手すると150は超えているなという数のレポートを平積みにしたままで(後10日ほどで評価しないといけません)、のんびりする余裕は全然ないんだけど、それでも、まだ日も昇らないくらい朝早くから出かける必要はそろそろ無くなってきたのである。
そんなわけでここはひとつ養生しよう。もう少ししたら近所の医院の午後の部の診察が再開されるので、そこに行ってきて薬をもらってきて、それ飲んで良く寝ることにしよう。
ということで今日は、病院にいくまでの間、さしたる話題もないので、最近色々と見たり読んだり聴いたりしたものの感想を書き留めておく(ミクシィのレビューに書こうかとも思ったけど、『かもめ食堂』のDVDのレビューに2000人も書き込みがあるのを見た日には、そこに加わることの意味を考えてしまうよ)。
1)『グエロ』。
ベック、というヒップホップとカントリーとブルーズとフォークをごちゃまぜにした曲を作るアーティストの、ひとつ前のアルバム。新譜はこちら。レンタルに出ているのを2TAYAでたまたま見つけて借りてきた。
この人のは、『オディレイ』『ミッドナイト・ヴァルチャーズ』は持っていたが、弟が『ミューテーションズ』を買ったのを借りて聴いてみて、「なんか、好きじゃない方行に行ったな」と思ったので、しばらく関心を持っていなかった。
それが今回、なんとなく聴きたくなって借りてきたら、『オディレイ』に近いノリになっていて、とてもよかった。なつかしのブレイク・ビーツとラウド・ギターが全開だった。新譜も買ってみようかと思った。
『オディレイ』に近いのは、それもそのはず、調べてみたら、僕の大好きなイールズなんかとも組んでいるダスト・ブラザーズとふたたびタッグを組んだアルバムということではないか。そういわれてみれば、イールズの『エレクトロ・ショック・ブルーズ』の収録曲にそっくりのビートを使った曲がある。
この人の曲は、使い古したスニーカーやらブーツやらをちまちまと砂漠の中にどこまでも並べていくような、「ぶつ切り」感や「ちまちま」感があって、それが時々うっとうしくなるのだが(たぶん、ビートにしても上物にしてもメロディにしても、小節単位のループが多いからだろう)、それが変に心地よい時がある。今回は、はまった。レンタル待ちのブレイクビーツ、『グエロ』、好盤である。
2)『長いお別れ』
この『グエロ』を聴いていたときに読んでいたのがこれ。言わずと知れた、レイモンド・チャンドラーの不朽の名作探偵小説。名探偵(?)フィリップ・マーロウをエリオット・グールドで、先日亡くなったロバート・アルトマンが映画化もしている。
今回は、もうすぐ村上春樹訳が出るというので、その予習のために読んだ。村上春樹は以前、『羊をめぐる冒険』とか『ダンス・ダンス・ダンス』の執筆の際に、「ハードボイルド探偵小説のフォーマットを換骨奪胎して用いた」と何かで語っていたことがあり、また今回の翻訳に当たっては、「『長いお別れ』(=『ロング・グッドバイ』)は、先行して世に出た『グレート・ギャツビー』とともに、小説家としての自分にとって最も重要な作品のひとつ」というようなことを語っていたこともある。
そんなわけで、『長いお別れ』を読めば、村上春樹の小説作法みたいなものがつかめるかなあ、という期待も込めて読んだわけである。
結論から言うと、「ハードボイルド探偵小説のフォーマット」が彼の作品に生かされている、というのはとてもよくわかった。特に、『ダンス…』の「僕」の行動原理にこのフォーマットが生かされているように思う。決して焦らず、何があっても動じず、冷静に行動していく主人公像というのはここから来ているのか、と思う。
が、文体、という点から言うと、村上春樹とチャンドラーの文体はまったくかけ離れているようにも思う。村上の多くの小説における文体は、語り手である「僕」に原則的に常に焦点化し、「僕」の内面の心理を詳らかにする文体だが、『長いお別れ』の文体は、登場人物の内面にほとんど踏み込まない「キャメラ・アイ」的な文体なので、しばしば人物の心情が不明瞭だ。そこに第二次大戦後の実存主義的な憂いが主題のひとつとして盛り込まれているので、「心が読めない」人物ばっかり出てくるように思う。しかも困ったことには、肝心のフィリップ・マーロウですら、何を考えて捜査をしているのかわからないときがある。それが幕切れになって「そうだと思ったぜ」みたいなことを言われるので、読者としては煙に巻かれたような気持ちにもなる。
しかしその不明瞭な精神性において、『長いお別れ』のマーロウと、村上作品の「僕」(の多く)は共通したものを持っているように感じるのも確かだ。それは、「超然としたロマンチシズム(detached romanticism)」とでも呼ぶべきものだろう。二人は二人とも、誰かに対して強く感情的連帯を示したりすることはない。常に他者とは一定の距離を置き、感情の起伏を抑え、冷静さを保とうとしている。しかしその信条においては非常にロマンティックな観念を持っている。それが両者の共通性ではないだろうか。
…というようなことを考えた。さて、これが村上訳でどのようになっているか確かめてみよう。
3)『かもめ食堂』
先日の新年会でマイミクのえびてつ氏がフィンランドに行くという話を聞き、その際話題に上ったのがこのオール・フィンランド・ロケの日本映画。気にはなっていたのだが観るチャンスを逃していたので「よーし、そんなら見てみるか」ということで、奥さんとDVDで試聴。
端的に言って、とっても変わった映画だと思う。
古典的ハリウッド映画の規範のひとつである、プロットの因果律(原因と結果の連鎖)の構造がほとんど見受けられないのだ。
どういうことかというと、ふつう、「フィンランドで日本食の食堂をはじめました」>「お客さんが来ません」という展開が続いたら、大方のハリウッド映画は「お客さんが来るよう工夫をしました」>「うまくいきません」>「さらに工夫しました」>「成功し、お客さんがいっぱい来ました、よかったね」という展開をするはずなのだが、この映画ではそれが全くないのだ。
確かに「お客さんが来ない」>「片桐はいりの提案で、フィンランドの食材でおにぎりを作ってみる」という展開はあるのだが、その後が、「フィンランド人青年に食べさせました」>「失敗でした」という展開になってしまうのだ。その後、確かに食堂は満員になるのだが、その理由はほとんど語られない。
そもそも、日本人女優三人の過去も一切語られないのも変わっている。普通の映画なら、「日本でこういうことがありました」>「だからフィンランドに来てがんばっています」というエピソードを加えて、観客の登場人物に対する感情移入を促すものなのだが、この映画にはそれがない。脇役にしても、映画の早い時点で日本かぶれのフィンランド人青年が出てきて、以降彼は食堂の常連としてほぼ出ずっぱりになるが、彼の過去や職業についても同様に何も語られない。そればかりか彼は、前述のおにぎりを食べたほかは、物語の展開にもほとんど何の貢献もしない。ただそこにいるだけだ。
そのようなわけで、この映画はことごとく「王道」の物語からは逸脱しているのである。この映画の筋を思いっきり大胆に要約すると、「ただ、女性三人がマイペースに仕事した。なんだか知らないが食堂が流行った」ということに過ぎない。それが変わっているのだ。
しかし実のところ、これがこの映画のテーゼなんであろう。「原因」と「結果」なんて理屈っぽいことは窮屈で仕方ないわ、マイ・ペースでいきましょう、そしたらなんとかなるわよ。この映画はこういわんとしているのかもしれない。そこが、そのいい意味での「ゆるさ」が、この映画の支持者を増やしていったのかもしれない。
フィンランドと言えば、小津安二郎の遠隔地のファン、カウリスマキ兄弟の本拠地である。彼らは(それと、彼らのお膝元ヘルシンキで、彼らの映画の常連俳優マッティ・ペロンパーを使って短編を撮った盟友ジム・ジャームッシュもまた)、ハリウッドの「王道」の物語に挑戦し続けている「作家」たちである。その本拠地でこのような映画を撮ったということは、この狙いが確信犯的なものであったということの証拠に他ならない。
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