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知らないということ

「教える」という仕事をしていると、「知らない」ということは資源である。相手が何かを「知らない」からこそ「教え」られるのであり、全てを「知」っていれば「教える」仕事は成り立たない。

いわば、理科は詳しくないけれど、電池の陰極と陽極のように、欠損があることが循環を生み出すのである。

だから、たとえ教え子がジョン・ウェインを知らなくても、『グラン・トリノ』のパンフレット表紙を指差して「クリント・イーストウッドってこの人ですか」と尋ねてきても、悲嘆に暮れる必要はないのだ。「『プリティ・ウーマン』の時には生まれてませんでした」と言われても、「ベルリンの壁崩壊?知識としては知ってます」と言われても、嘆き悲しまなくてよいのだ。

「知らない」と言えば、今もっとも身近なところに、もっとも「知らない」人がいる。我が家のポニョである。

彼女はまだまだほんとに何にも「知らない」わけだから、これから全部「教え」てやらないといけない。そのことは、当たり前だとわかっていても、時に父を驚かせる。

例えば「桃太郎」すら知らないのだ。そのうち語って聞かせてあげないといけないのだ。なんてことだ。

でも…そういえば自分の時はどうだったかと思い出して見るに、初めて「桃太郎」を理解した時にどうだったか、どんなふうに感じたか、ちっとも記憶が定かでない。物心ついた頃には、人間世界のやり取りのための一通りの道具のひとつとして、「桃太郎」も知っていた気がする。

だから、そのお話に何らかの感想を持ったかと言うと、もっと覚束ない。蓋し感想などというものは、相対的な評価の基準がなければ成立しないものだ。昔話というものを何も知らないところに「桃太郎」を一つだけぽつーんと渡されても、「ふーん」と思うのが関の山で何とも言いようがないわけだ。「そうなんだ〜。犬と猿とキジだったんだ〜。」これが限界だ。

そんなことを考えるにつけ、我が家のポニョがこれからまた「ふーん。そうなんだ〜」と思うかと思うと…何かしら不思議でしかたない。

なんというか…巨大な工場の製品のひとつひとつにぬかりなく同じ部品が取り付けられるイメージを想起してしまうのだ。この巨大にして精密なシステムの壮大さには、やはり畏怖を感じずにいられない。

アルチュセールさんが「国家のイデオロギー装置」と名付けたのは、これのことかしらん。

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