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80sとおじさんのモード

ちょっと私事でばたばたとしていて一週間ほど更新ができなかった(しかしまあ、いろいろと実りの多い一週間だった)。

といいつつ、今もその「ばたばた」は続いているんだけど、あまり込み入ったことを書いてもしかたないし、このブログは基本的に軽いことを書くために作ったつもりでいるので、今日もどうでもいいことを書く。

ということで最近気になるのは、「ファッションのモードとしての1980sリヴァイバルは本当の高まりを迎えるか」ということである。

本当にどうでもいいですね。

いや、見方によってはことは深刻である。1970年代に生まれ、80年代に穢れもないままに少年から大人に変わる道を探していた人間にとっては、1980年代とは、それはそれは思い出したくもない恥ずかしい時代のはずだ。

例えば、デュランデュラン。

例えば、安全地帯。

例えば、度を越した肩パット。『セント・エルモス・ファイヤー』のデミ・ムーアの部屋着のピンクのシルクのガウンにまでつけられた、度を越した肩パット。

ケミカル・ウォッシュのスリム・ジーンズや、英字新聞のプリントシャツや、ブルース・ブラザーズみたいなサングラスはいうまでもない。

そんなものが再び流行るのだろうか。

どうもその手の雑誌や店頭の商品を見るにつけ、文化的焼畑農業が、そろそろ1980年代に刈り取った土地を再活用しようとしていることはわかるのだけれど、そして街中にもそういうファッションをてらいもなく身にまとっている若者が散見されるようになったのも事実だけれど、それを我々30代の人間は落ち着いて受け入れられるのだろうか。

100歩譲って、ビースティ・ボーイズとかワイルド・バンチみたいなヒップホップ路線の1980sというか、あのミクスチャー具合なら受け入れられなくもないけれど(それはリアルタイムの1980年代日本の大方の若者にとっては通過してきていない世界だろうからだ)、もしニューロマが再燃したりしたら僕ら30代のおじさんはどんな顔をして若者を見ればいいのだろうか。

とはいうものの、僕自身の個人的記憶で言うと、かつて同様に70sや60sのリヴァイバルがあったのは今よりずっと前のことで、1990年代中頃に一度70sブームみたいなものをファッション誌が仕掛けようとしていたのは記憶している。

そこでその間隔を計算してみると、90-70=20年、ということは、2009年の今、80sブームはとっくに来ていておかしくないはずだ。

それが未だに来ていないように思われるのはどうしてだろうか。

ひとつには、僕ら30代が未だ若者のふりを続けていて、そういったファッションへの拒否反応を示している、ということが考えられる。かつてミュージシャンのベックが

「いまや誰もが無理を承知で30代を若者の領域に入れようとしている。若者だけが全てを成し遂げられる、という思想がそこにはあるからだ。でもそんな文化はさっさと捨てた方がいい。じゃないと40代に突入したときに急にがくんと落ち込むことになるよ。40代になったらもうおしまいだって」

といった趣旨のことを話していたのはおそらく90年代の終わり頃だったと記憶しているけれど、ベックが憂慮していた傾向は、歯止めがかかるどころかいっそう拍車がかかってさえいる。

何せ、40代になったらおしまい、なんかじゃちっともなくて、「アラフォー」という珍妙な言葉で気分をごまかし、なんだったら40代も若者の仲間に入れる、というせこい裏技を駆使してさえいるからだ(実際は単に区切りを五年ずらしただけなのに)。

だから、たぶんアラサー、アラフォーの目の黒いうちは、なかなか1980sリヴァイバルは定着しない、ということが起こりうるかもしれない。

次に考えられるのは、景気の問題である。1980sというのは、ファッションの発信地はアメリカで、そのアメリカは当時、レーガノミックスという格差拡大を前提にした好景気の真っ只中にあった。その好景気の油断した気分を反映していたのが1980sのファッションだったとしたら、現代社会が経験している世界的な金融不安の中で1980sファッションがリヴァイバルすることは、単なるアイロニーか現実逃避でしかないだろう。

最後の理由としては、もう我々の服飾文化がとっくの昔にディケイドごとの焼畑農業を止めているということ、さらには、若者の服飾文化が多様化し、かつてのように一元化しえない状態にあるということ、が考えられると思う。

いや最後のは今思いついた戯言だけれど、逆に、30代真っ只中を生きてみてしみじみ思うのは、もうそろそろ10代20代との区切りをいろんな意味でしっかりつけたほうがいいんじゃないか、ということだ。先日書店で見かけた男性ファッション誌には「20代から40代まで読める」みたいなコピーが堂々と謳ってあってびっくりしたけれど、どうして20代の筋力があるけれど資金力がない、だけど贅肉もない人たちと、40代のおじさんがおんなじ服を着なきゃいけないんだろう。

どうして勝俣洲和はいつまでも半ズボンを穿かなきゃいけないんだろう。

いっそ、「30代の我々はもうシャツを必ずパンツにインにします。でもパンツをブーツにインしません」とか「ジャムをコンフィチュールと呼んだり、チョコレートのちっちゃいのをボンボン・ショコラと呼んだりしません。あ、でも40代じゃないのでパスタをスパゲッティとは呼びません」とか、「30代の領域」みたいなものをきっちりと作ったらどうだろう。

そして、30歳になったらみんな「もう僕は30なんだ。シャツをインにしなきゃ。パンツのすそをブーツから出さなきゃ。えへん。どうだ30歳だぞ」っていう気分になるとか、そういうふうにしたらどうだろう。

でもって、その30代の領域からは1980sは永遠に締め出しておくんだ。ハイカットのバッシュを穿いていたら「スパイ」としてマークされる、くらいのことにして、つかまったら拷問でクレイジー・パターンのシャツにスリム・ジーンズを穿かされる、とか。

…などと考えること自体が保守化というか、おじさん化の顕れなんだろうな。

じゃあ、無事に若者文化から抜け出せているということだ。よかったよかった。安心してバッシュを買いに行こう。

追記:ここまで書いてみて気がついたけれど、『LEON』という雑誌が作ろうとしていた「チョイ悪オヤジ」とか「コヤジ」っていうカテゴリーって、こういった発想だったのかもしれないですね。

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レビュー:『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2)(ネタバレ注意)

(1)からの続き

(1)に書いたように、僕個人はこの映画の全体に漂う詩情(と、それと背中合わせの諦念)が好きだし、標準以上の上映時間もここちよく味わった。

しかし、冷静に分析すればこの映画は、脚本家エリック・ロスの出世作、『フォレスト・ガンプ 一期一会』とうりふたつだ。それも単純に、「一人の女性を愛し続ける男性主人公の一生を、アメリカの現代史を織り込みつつ描く」という全体の趣向が似通っているだけでなく、物語の細部において酷似しているのだ。そういう意味ではこの二つの作品は、ほとんど同工異曲といっていい(だから『フォレスト・ガンプ』に『一期一会』なんてけったいな副題をつけるんだったら、『ベンジャミン・バトン』は『諸行無常』とでもしたらよかったと思う)。

具体的にどういう点が似ているかを以下に挙げよう。

・主人公の両親は健在ではない

・主人公は幼少期に足が不自由であり、そのことが何らかのかたちでステージ・パフォーマンスと関係する(エルビスと神父)

・主人公に新しい世界を教える(やや人種差別的な人物造型の)黒人の友人が登場する

・主人公は船に乗る

・○長(隊長/船長)といういささかぶっきらぼうな人物と奇妙な上下関係(友情)を結ぶ

・愛国的でも否定的でもないかたちで戦争に参加し、知らず英雄的功績を挙げる

・主人公は共産主義国家(中国とソ連)に渡る

・鳥(の羽根)が象徴的に用いられる

・主人公は棚ぼた的に資産を手に入れるので汗水垂らして働かなくてもよい

今思い付くのはこれくらいだけれど、探せばもっと見つかるだろう。これくらい似ていると、もはやエリック・ロスの作劇術の手札の少なさを感じてしまうくらいだ。

にもかかわらず、僕はこの映画を全く別のものとして楽しんだ。それはなぜかと考えるに、フォレストがいわば成熟を拒否したピーター・パンだったのに対し、ベンジャミンは生れつき老成した異邦人だからだろう。作家論的な言い方をすれば、ここにエリック・ロスの成熟を見ることができるかもしれない。

しかし唯一気になるのは、ベンジャミンが父親になることを諦めて、あたかもデイジーの子供のようにして死んでいったことだ。

僕はどうしてもここに脚本家のsexismを見てしまう。『フォレスト・ガンプ』でもヒロインの扱いの酷さは気になった(研究者にもそれを指摘している人がいる)が、今度は、ある程度は設定からしてやむを得ないこととはいえ、男性主人公にいささかマザコン的な退行が見られることは否定できまい。

そういえば、パートナーのアンジェリーナ・ジョリーは『チェンジリング』でシングル・マザーだった。その彼女は劇中、息子に「なぜお父さんがいないの」と聞かれて、

「あなたが生まれた日にお父さんのもとに小さな箱が届いたの。その中には『責任』が入っていた。お父さんはそれが怖くて逃げてしまったの」

というようなことを答えていた。

責任を回避して逃げる父親、それはまさにベンジャミン・バトンに外ならない。そんなところで呼応しなくても。

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レビュー:『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(1)(ネタバレ注意)

初めに全体的な感想を述べておくと、これは素敵な映画だった。事前に「バラエティ」のトッド・マッカーシーのレビューを読んでいて、感情的に冷たいところのある映画だというので、あまり期待せずに、それでも一歩引いた視点から論理的に話の筋を追う作業が楽しめればよいか、と思って観に行ったのだけれど、ところがどうして感情的にも密度と厚みのある優れた映画だった。

ただ、その感情表現がきわめて抑制が効いているために、観る人によっては少しよそよそしい感じを与えるのだろう。例えば僕は、主演の二人、ブラット・ピットとケイト・ブランシェット(ほんとに上手な女優さんだと思う。『アイム・ノット・ゼア』と『インディ・ジョーンズ』はどうかと思ったけど)が泣いている演技を見た記憶がない。深い愛情や悲哀といった感情を泣かずに伝える、そういう演技をしているのだ(泣いている場面があったらごめんなさい)。

しかし僕個人の好みとしては、絶叫し号泣するアンジェリーナとともに感情的に力強く揺さぶられる『チェンジリング』よりも、こちらの方が断然好きだ。DVDが出たら購入して、人生の折々に見返したいとさえ思った。とかくこの業界はオープニングの週末の興行成績ばかりが取り沙汰されがちだけれど、DVDが定着し個人が書籍のように「映画を所有する」ことがふつうになった現代、そういう鑑賞に耐える息の長い作品を、作る方も観る方も重視した方がよいのではないか、とそんなことまで思った。

そう思った理由のひとつは、やはり主題の違いだろう。『チェンジリング』のアンジェリーナは社会に闘いを挑み、自ら運命を切り開き希望を手に入れるが、この映画のブラット・ピットは初めから、生まれた時から運命を受け入れている。彼の前に立ちはだかるのは、同じ人間の集合体である社会ではなく、人知を超えた力であり、闘いを挑みようのないものだからだ。

それゆえに彼は、周囲の世界に対して距離を置いて生きている。英語でいうところのdetachedという状態である。このことは、上に述べたような抑制された演技と呼応関係にある。

こういった主題が僕の性に合っているのだろう、なんだか春の宵のような、幸福感と切なさを同時に味わった。上映時間はやや長いが、良質のアメリカ文学を読むような充実した時間を過ごした。

(2)では脚本家エリック・ロスの功績を、彼の出世作にしてこの映画と双生児的な類似を見せる『フォレスト・ガンプ/一期一会』との対比で論じようと思います。

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30年前

今日は久しぶりに何の予定もないオフ。奥さんの家事を手伝いながら、見るともなくびわ湖毎日マラソンを見ていた。

今でこそこの北関東の地で武者修行をしているけれど、滋賀県は故郷でもあり、なかでもマラソンのコースとなっている大津・草津の湖岸一帯は、3歳から7歳と16歳から18歳という、ある意味で人間の人格形成に最も重要な二つの時期を過ごした場所なので、ひときわ思い入れが深い。テレビの中でランナーの背中に流れる風景は、ほとんどすべて自分の足で歩いたことのある、まさに自分の庭のように身体が熟知した風景だ。もちろん今でも年に数日は、奥さんとともに里帰りをしている。それもあって、見ているとまるで、今自分が住んでいるこのマンションのドアを開けると、テレビの中のあの街に出られるような気がする。

びわ湖毎日マラソン自体も伝統のあるマラソンなので、子供の頃に父親に連れられて、沿道に応援しに行った記憶もある。当時はただ寒いだけで、特に愛着も贔屓もない薄着のランナーたちに紙の小さな旗を振ることの意味が全く分からなかった。これの何が面白いのかと思ったが、父親にはそれなりに「子供たちに珍しいものを見せてやろう」という思いがあったのだろう。幼心にそれだけは理解した。

そんなことを考えながら、勝手知ったる故郷の風景を眼で追っているうち、ランナーたちは7歳まで住んだ家の近所を通りかかった。

ああ、そうそう、そろそろ大きな結婚式場が見えてきて、その北側の細い脇道を50メートルも行けば、かつての我が家だ。

今は小さな駐車場になってしまったけれど、幼い僕と双子の兄とまだ小さかった弟が、今の僕より若い両親と住んでいた我が家だ。今から思うと小さな平屋だったけれども、幼い僕らには何の不満もない快適な住まいだった。

今思い返すとおかしいのは、僕と兄は二人とも、我が家の住所を番地まで暗記していたことである。好奇心旺盛にして注意力散漫な僕らが迷子になっても帰ってこれるように、学校にも上がらない僕らに、親が暗記させたのだ。

このことはおかしいけれど同時に、何だか気持ちを温めてくれる。小さな家屋に、若い両親と小さな兄弟がこぢんまりと暮らしていて、親は子供がどんなときでもこのささやかな基地に帰ってこれるように、住所を教え込んでいたのだ。

僕らは帰ってきてほしいと、いなくならないでほしいと、思われていたのだ。これは、ごく普通の親がごく普通に思うことかも知れないけれど、よく考えると嬉しいことだ。

などということを僕は、まるで『東京大学物語』の主人公のように、わずか数秒のうちに考えた。

やがて結婚式場が見えてきて、北側の脇道も視界に入ってきた。

そうそうそう、この道を…と思ったときに、僕の眼に予期せぬものが飛び込んできた。

「○○医院」

それは、幼い僕や兄が体調を崩したときに、母親に連れられて何度も通った開業医の看板だった。

まだやってるんだ。あのお医者さん(母は敬意と親しみを込めて苗字をさんづけで呼んでいたが、これは母方の祖母の家の習慣だった。○○さんに行ってくる、というように使うのだ)。あそこに通ったのは何年前かな…と算数をし始めてびっくりした。なんと、かれこれ30年も経つではないか。

30年といったらちょっとした歴史である。生き別れになった親子が再び再会し、孤島に流された復讐鬼が仇を討つくらいの時間である。

あれからもうそんな時間が流れたんだなあ…。まさに歳月人を待たず。そして何れの日か是れ帰る年ぞ。

日常生活の中で思わぬ驚異に出会った瞬間であった。

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