レビュー:『チェンジリング』(ネタバレ注意)
水曜日に思いがけず休みが取れたので、『チェンジリング』を観てきた。
といっても、アンジェリーナ・ジョリーの演技を目当てに行ったわけではない(別にことわるほどのことではないけれど)。僕はどちらかというと、ブランジェリーナご両人の、見るからに製作費が高い感じのスター・ペルソナを積極的には好きではない。お二人とも達者だなあ、とは思うけれど、時にはしつこいなと感じることもある。もちろん、上質の和牛みたいなもので、それだからこそ体が欲する、ということもあるわけだけれど、体質的に常習的に摂取したいとは思わない。
けれども、今回のブランジェリーナは何せ、デイヴィッド・フィンチャーとクリント・イーストウッドの監督作での主演である。この監督であれば、二人の演技以外の部分での「いい仕事」は予め保証されているようなものだ。この二人は、僕の中では「機会があれば映画館で作品を観たい映画監督」フォルダに堂々と鎮座ましましている。だからかねがね観たいと思っていた。
とはいっても、いくらこちらが観たいと思っても、仕事の繁忙期と重なるとなかなか観に行く時間が作れない。とりわけこの北関東の僻地にあってはなおさらである。けれども今回に限っては、両者ともアカデミー賞狙いで公開してきた(※)ので、ちょうど仕事が比較的少ない時期と重なって、観ることができた。いやはや、こういう時にアカデミー賞が年度末に決まるシステムのありがたさを感じる。
※近年、アカデミー賞を狙う作品の多くは、できるだけ遅い時期を狙って公開される。時期が遅いほど審査する会員の印象が強く残るので選考に有利に働くのと、もし受賞でもすれば、そのときまだ映画館でかかっていれば、劇場での収益増が見込めるからだ(逆に、年度内の早い時期の公開作品の場合、DVDリリースをこの時期に合わせてきたりする)。
しかし、いくら時間が都合できたからといって、「水曜日の夜にこの映画を観る」ということに関しては、もう少し事前に慎重になっておけばよかった。ということを劇場に着いたときに思った。
しかも場所は有楽町・日比谷のTOHOシネマズ日劇。
映画館には開場の10分前に着いたのだけれど、その時点ですでに、劇場前のエレヴェーター・ホールには女性客の黒山ができていた。そのうちの大半が、銀ブラを楽しんでいそうなマダムか、丸の内辺りの可処分所得の多そうなOLさんだった。逆に男性客は数えるほどしかいない。
まさに、言葉のいろんな意味で「レディース・デー」になっていたのである。
それはそうだよな。映画の内容からして、もっぱら男性客よりも女性客を集めそうな作品であるのは間違いない。このことを予想していなかった僕がばかでした。
いや、別に女性客ばかりだからといって僕個人は、単に気圧されるというだけで、特に困ることはないんだけれども。
ただ、観る前に予想していた映画の内容に照らしてみると、若干居心地の悪い気持ちがしないこともなかった。つまり、アンジェリーナ・ジョリー演じるシングル・マザーが、母性愛の気高さ、美しさをあふれんばかりに表現していて、それを観た観客席の女性客の皆さんが一様に
「そうよね。やっぱり母は偉大だわ。子供を生み、愛し育てる、という能力は、女性だけに与えられた神様からのプレゼントなのだわ。私もああなりたいわ」
という反応をするとしたら、なんとなく落ち着かないではないか。
こういうものの考え方、つまり、映画(館/産業)が観客を特定の思考の型に押し込んで、製作者の都合のいいように鋳造する、というようなものの考え方を、1970年代の映画理論では「装置理論」と言った。また、映画研究者ではないが、フランスの思想家・哲学者であるルイ・アルチュセールは「イデオロギー装置」という言い方で、同じようなことを言った。
そういう「母性」に関わる「イデオロギー装置」として、『チェンジリング』が働くとしたら、それはなんとも居心地の悪いことだ。少なくとも、このポスト・フェミニズムの時代にあって、手放しで賞賛できるものではない。人によっては、イデオロギー的な反動だとさえ言うだろう。
しかも、監督はクリント・イーストウッドである。僕は『パーフェクト・ワールド』以来、この人の監督としての才能を高く評価しているし(なんかえらそうだけど)、細部まで精度の高い作品を作る人だと思い、新作が出るのを楽しみにしてきた。
けれども1970年代に生まれカウンター・カルチャー世代の両親に育てられた世代の一人としては、心のどこかで、彼の作品に漂う「古臭さ」みたいなものに違和感を感じてもきた。
「古臭さ」というのは、いい意味では良質の古典趣味なのだろうと思う。彼の通過してきた映画史に存在してきた「古き良き映画」を彼自身が血肉化していて、それをいわば新古典主義的(※)に再構築しているのが最近の彼の作風なのかな、と思う。
※話は逸れるけれども、ここ数年のアメリカ映画を観ていると、コーエン兄弟、ショーン・ペン、ポール・トーマス・アンダーソンらの作風が、この新古典主義というか偽古典主義的な作風のひとつの潮流をなしているように思う。
けれどもその古典趣味は、一歩間違うとメロドラマになりかねないすれすれのものであって、すれすれのようでそれを微妙に回避したニュアンスのある物語であるところが、彼の作品の魅力であるわけだけれども、例えば『ミリオンダラー・ベイビー』ではそのような「すれすれ」の危うさを如実に感じた。しかもその傾向には、彼自身が劇中音楽をも手がけるようになって拍車がかけられてきた(メロドラマ=メロディ+ドラマなので)ようにも感じてきた。
だからこそ、この作品が「母性」を主題にした古臭いメロドラマに伍していたらいやだなあ、という危惧を感じながら鑑賞したわけだけれども、結果的にはこの危惧は杞憂に終わったように思う。子供を喪った母親の哀しみと子供を取り戻すための闘志とは、確かにアンジェリーナ・ジョリーの演技によって巧みに、力強く表現されていたけれども、それは決して感傷的なものではなかった。
むしろ、語義矛盾を承知で言うと、アンジェリーナ・ジョリーにはヒラリー・スワンクにも似た「マチズモ」を感じさえした。でも一方で『エイリアン』のシガニー・ウィーバーにはならない物腰の柔らかさもあって、見事な人物造形であったと思う。
付け加えて、「母性」というのはこの映画の主題のようであって実はそうではないのではないか、隠れた主題があるのではないか、という思いが強くした。
その隠れた主題とは「個人主義」である。
映画の中では一貫して、現代アメリカ社会における含意が非常に分かりやすい「腐敗した権力構造」「武力による恐怖政治」が強調される。そしてそれに対して一見無力な個人であるアンジェリーナ・ジョリーが戦いを挑む。
観客はそれを観て決して敵いっこないとはじめは思うのだが、アンジェリーナの意志は次第に周囲の別の個人へ、そして個人の集合体である団体へ、社会へと波及していく。そしてその力がついに体制に打ち勝ったとき、主人公は何がしかの獲得物を得る。この「個人が体制に勝利する過程」こそがこの映画の真の主題なのだろうと思う。
そしてこの「個人主義」の物語は、アメリカ映画史においてはフランク・キャプラ(アカデミー賞の歴史においても、アメリカ映画の戦時プロパガンダにおいても重要な人物である)という映画監督が最も得意としたものでもある。
だからイーストウッドは、映画の終盤で、そしてラスト・カットで、これ見よがしにフランク・キャプラ(の『或る夜の出来事』)に対する言及をしているわけだが(この件は物語の進行上、なくても全くかまわないものだ)、それはこの隠れた主題を明言しようとしているのに他ならないのだ。ま、だから結果的には全然隠れた主題ではないんだけど。
こういう「個人主義」のドラマとして観たとき、この映画はとても楽しめる。腐敗した体制に対する苛立ちや、最終的な勝利の感慨を、主人公とともに感じることができるし、個人の力を再確認することができる。そういう、エモーショナルに観客を乗せていく力は、とても優れた作品である。
もっとも、エモーショナルに観客を乗せていく、ということは、やはりメロドラマの主眼でもあるから、その力を本作品に認めるということは、「母性」が主題ではなかったにせよ、結局イーストウッド作品の「メロドラマすれすれ性」をここでも認めることになる、と言えるのかもしれない。
仮にそう考えてみるとき、別にメロドラマを頭ごなしに否定するわけではないけれど、例えば精神病院という道具の使い方とか、そこでの患者仲間の人物造形とか描写とか、あるいは猟奇殺人犯の死刑の描写とかに、どうも陳腐なものを感じてしまうことも否めないだろう。とするとますます、「すれすれ」の危うさは本作にも顕在であったと言いたくなる。
ただ、先にも述べたように、「すれすれ」でありながらありていなメロドラマに伍することがない、ということがイーストウッド作品のバンジー・ジャンプ的な妙技であるとすれば、今言った事をもう一度ひっくり返して、その「すれすれ」の妙技が今回も冴え渡っていた、と評価するのが正しいような気がする。
もっともそのせいで、映画館を出て行く観客が、「母性」の「イデオロギー装置」に巻き込まれないで済んだことと引き換えではあるにせよ、おなじみのメロドラマのような分かりやすいカタルシスを得られないことによる、ある種のフラストレーションを抱えて出て行くとしても。
追記①:全くノミニーにかすりもしなかったけれども、殺人犯の俳優さんの演技、NYの演劇畑の人だと言うけれど、助演男優賞をあげたいくらいの名演技でした。でも演じたのが非常に不快な人物だからあんまり評価されなかったのかな。
追記②:イーストウッドは、かつて自分が悪徳警官だったことを今はどう思っているのだろうか。














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