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レビュー:『チェンジリング』(ネタバレ注意)

水曜日に思いがけず休みが取れたので、『チェンジリング』を観てきた。

といっても、アンジェリーナ・ジョリーの演技を目当てに行ったわけではない(別にことわるほどのことではないけれど)。僕はどちらかというと、ブランジェリーナご両人の、見るからに製作費が高い感じのスター・ペルソナを積極的には好きではない。お二人とも達者だなあ、とは思うけれど、時にはしつこいなと感じることもある。もちろん、上質の和牛みたいなもので、それだからこそ体が欲する、ということもあるわけだけれど、体質的に常習的に摂取したいとは思わない。

けれども、今回のブランジェリーナは何せ、デイヴィッド・フィンチャーとクリント・イーストウッドの監督作での主演である。この監督であれば、二人の演技以外の部分での「いい仕事」は予め保証されているようなものだ。この二人は、僕の中では「機会があれば映画館で作品を観たい映画監督」フォルダに堂々と鎮座ましましている。だからかねがね観たいと思っていた。

とはいっても、いくらこちらが観たいと思っても、仕事の繁忙期と重なるとなかなか観に行く時間が作れない。とりわけこの北関東の僻地にあってはなおさらである。けれども今回に限っては、両者ともアカデミー賞狙いで公開してきた(※)ので、ちょうど仕事が比較的少ない時期と重なって、観ることができた。いやはや、こういう時にアカデミー賞が年度末に決まるシステムのありがたさを感じる。

※近年、アカデミー賞を狙う作品の多くは、できるだけ遅い時期を狙って公開される。時期が遅いほど審査する会員の印象が強く残るので選考に有利に働くのと、もし受賞でもすれば、そのときまだ映画館でかかっていれば、劇場での収益増が見込めるからだ(逆に、年度内の早い時期の公開作品の場合、DVDリリースをこの時期に合わせてきたりする)。

しかし、いくら時間が都合できたからといって、「水曜日の夜にこの映画を観る」ということに関しては、もう少し事前に慎重になっておけばよかった。ということを劇場に着いたときに思った。

しかも場所は有楽町・日比谷のTOHOシネマズ日劇。

映画館には開場の10分前に着いたのだけれど、その時点ですでに、劇場前のエレヴェーター・ホールには女性客の黒山ができていた。そのうちの大半が、銀ブラを楽しんでいそうなマダムか、丸の内辺りの可処分所得の多そうなOLさんだった。逆に男性客は数えるほどしかいない。

まさに、言葉のいろんな意味で「レディース・デー」になっていたのである。

それはそうだよな。映画の内容からして、もっぱら男性客よりも女性客を集めそうな作品であるのは間違いない。このことを予想していなかった僕がばかでした。

いや、別に女性客ばかりだからといって僕個人は、単に気圧されるというだけで、特に困ることはないんだけれども。

ただ、観る前に予想していた映画の内容に照らしてみると、若干居心地の悪い気持ちがしないこともなかった。つまり、アンジェリーナ・ジョリー演じるシングル・マザーが、母性愛の気高さ、美しさをあふれんばかりに表現していて、それを観た観客席の女性客の皆さんが一様に

「そうよね。やっぱり母は偉大だわ。子供を生み、愛し育てる、という能力は、女性だけに与えられた神様からのプレゼントなのだわ。私もああなりたいわ」

という反応をするとしたら、なんとなく落ち着かないではないか。

こういうものの考え方、つまり、映画(館/産業)が観客を特定の思考の型に押し込んで、製作者の都合のいいように鋳造する、というようなものの考え方を、1970年代の映画理論では「装置理論」と言った。また、映画研究者ではないが、フランスの思想家・哲学者であるルイ・アルチュセールは「イデオロギー装置」という言い方で、同じようなことを言った。

そういう「母性」に関わる「イデオロギー装置」として、『チェンジリング』が働くとしたら、それはなんとも居心地の悪いことだ。少なくとも、このポスト・フェミニズムの時代にあって、手放しで賞賛できるものではない。人によっては、イデオロギー的な反動だとさえ言うだろう。

しかも、監督はクリント・イーストウッドである。僕は『パーフェクト・ワールド』以来、この人の監督としての才能を高く評価しているし(なんかえらそうだけど)、細部まで精度の高い作品を作る人だと思い、新作が出るのを楽しみにしてきた。

けれども1970年代に生まれカウンター・カルチャー世代の両親に育てられた世代の一人としては、心のどこかで、彼の作品に漂う「古臭さ」みたいなものに違和感を感じてもきた。

「古臭さ」というのは、いい意味では良質の古典趣味なのだろうと思う。彼の通過してきた映画史に存在してきた「古き良き映画」を彼自身が血肉化していて、それをいわば新古典主義的(※)に再構築しているのが最近の彼の作風なのかな、と思う。

※話は逸れるけれども、ここ数年のアメリカ映画を観ていると、コーエン兄弟、ショーン・ペン、ポール・トーマス・アンダーソンらの作風が、この新古典主義というか偽古典主義的な作風のひとつの潮流をなしているように思う。

けれどもその古典趣味は、一歩間違うとメロドラマになりかねないすれすれのものであって、すれすれのようでそれを微妙に回避したニュアンスのある物語であるところが、彼の作品の魅力であるわけだけれども、例えば『ミリオンダラー・ベイビー』ではそのような「すれすれ」の危うさを如実に感じた。しかもその傾向には、彼自身が劇中音楽をも手がけるようになって拍車がかけられてきた(メロドラマ=メロディ+ドラマなので)ようにも感じてきた。

だからこそ、この作品が「母性」を主題にした古臭いメロドラマに伍していたらいやだなあ、という危惧を感じながら鑑賞したわけだけれども、結果的にはこの危惧は杞憂に終わったように思う。子供を喪った母親の哀しみと子供を取り戻すための闘志とは、確かにアンジェリーナ・ジョリーの演技によって巧みに、力強く表現されていたけれども、それは決して感傷的なものではなかった。

むしろ、語義矛盾を承知で言うと、アンジェリーナ・ジョリーにはヒラリー・スワンクにも似た「マチズモ」を感じさえした。でも一方で『エイリアン』のシガニー・ウィーバーにはならない物腰の柔らかさもあって、見事な人物造形であったと思う。

付け加えて、「母性」というのはこの映画の主題のようであって実はそうではないのではないか、隠れた主題があるのではないか、という思いが強くした。

その隠れた主題とは「個人主義」である。

映画の中では一貫して、現代アメリカ社会における含意が非常に分かりやすい「腐敗した権力構造」「武力による恐怖政治」が強調される。そしてそれに対して一見無力な個人であるアンジェリーナ・ジョリーが戦いを挑む。

観客はそれを観て決して敵いっこないとはじめは思うのだが、アンジェリーナの意志は次第に周囲の別の個人へ、そして個人の集合体である団体へ、社会へと波及していく。そしてその力がついに体制に打ち勝ったとき、主人公は何がしかの獲得物を得る。この「個人が体制に勝利する過程」こそがこの映画の真の主題なのだろうと思う。

そしてこの「個人主義」の物語は、アメリカ映画史においてはフランク・キャプラ(アカデミー賞の歴史においても、アメリカ映画の戦時プロパガンダにおいても重要な人物である)という映画監督が最も得意としたものでもある。

だからイーストウッドは、映画の終盤で、そしてラスト・カットで、これ見よがしにフランク・キャプラ(の『或る夜の出来事』)に対する言及をしているわけだが(この件は物語の進行上、なくても全くかまわないものだ)、それはこの隠れた主題を明言しようとしているのに他ならないのだ。ま、だから結果的には全然隠れた主題ではないんだけど。

こういう「個人主義」のドラマとして観たとき、この映画はとても楽しめる。腐敗した体制に対する苛立ちや、最終的な勝利の感慨を、主人公とともに感じることができるし、個人の力を再確認することができる。そういう、エモーショナルに観客を乗せていく力は、とても優れた作品である。

もっとも、エモーショナルに観客を乗せていく、ということは、やはりメロドラマの主眼でもあるから、その力を本作品に認めるということは、「母性」が主題ではなかったにせよ、結局イーストウッド作品の「メロドラマすれすれ性」をここでも認めることになる、と言えるのかもしれない。

仮にそう考えてみるとき、別にメロドラマを頭ごなしに否定するわけではないけれど、例えば精神病院という道具の使い方とか、そこでの患者仲間の人物造形とか描写とか、あるいは猟奇殺人犯の死刑の描写とかに、どうも陳腐なものを感じてしまうことも否めないだろう。とするとますます、「すれすれ」の危うさは本作にも顕在であったと言いたくなる。

ただ、先にも述べたように、「すれすれ」でありながらありていなメロドラマに伍することがない、ということがイーストウッド作品のバンジー・ジャンプ的な妙技であるとすれば、今言った事をもう一度ひっくり返して、その「すれすれ」の妙技が今回も冴え渡っていた、と評価するのが正しいような気がする。

もっともそのせいで、映画館を出て行く観客が、「母性」の「イデオロギー装置」に巻き込まれないで済んだことと引き換えではあるにせよ、おなじみのメロドラマのような分かりやすいカタルシスを得られないことによる、ある種のフラストレーションを抱えて出て行くとしても。

追記①:全くノミニーにかすりもしなかったけれども、殺人犯の俳優さんの演技、NYの演劇畑の人だと言うけれど、助演男優賞をあげたいくらいの名演技でした。でも演じたのが非常に不快な人物だからあんまり評価されなかったのかな。

追記②:イーストウッドは、かつて自分が悪徳警官だったことを今はどう思っているのだろうか。

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深夜の替え歌(2)(っていうか歌詞の順番が混乱しちゃった歌)

ウルフルズの『バンザイ 〜好きでよかった〜』から。

♪スゲェスゲェ幸せな気分の時は

帰り道で君を思い出す

コンビニをうろうろしながら

心の中でかみ殺す♪

…ええ、ええ、もう寝ますとも。

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深夜の替え歌(っていうかメドレー)

アリスの『チャンピオン』から。

♪つかみかけた

熱い腕を

ふりほどいて

君はファンキーモンキーベイベー!♪

後の方を思い切りよく歌うのが何かのコツです。

ちなみに同曲には

♪リングに向かう

長い廊下で

何故だか急に

君はファンキーモンキーベイベー!♪

というポイントもあるので要注意です。

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ところ変われば

Sbsh00461そろそろ移住して二年になる北関東というところは、小麦の生産がさかんなところである。

以前の記事でも紹介したように、冷たい麺をねぎやしいたけや豚肉を入れて煮込んだめんつゆでいただく、この地方独特のスタイルの武蔵野うどん、という料理があって、それはそれで、関西人の思い描くうどんとはかなり違うけれども、けっこういける。

スーパーにならぶ製品のレヴェルでも、気に入っている銘柄の、地元の粉(地粉という)を使ったうどんがあって、やや浅黒いけれどもコシが非常にしっかりして気に入っている。

ということで、大阪に十余年住んだ似非大阪人にとっても、「こなもん」文化全般に対する飢餓を覚えるということはない。

が、その北関東「こなもん」文化の中でも、大阪人(似非を含む)には受け入れがたいものがある。

それは「ふらい」である。詳しくはリンク先のウィキペディアを参照してもらうといいのだが、「ふらい」とは何か?と聞かれれば、似非大阪人に言わせれば「キャベツの入っていないやっすいお好み焼き」「お好み焼き味のチヂミ」「壱銭洋食の上等なやつ(奥さん談)」としか言いようがない、主に埼玉県行田市~熊谷市地域のみで食べられているという、独特のB級グルメである。

この文章を読んだ大方の大阪人(一部広島人を含む)の皆様が即座に同意してくださるように、我々夫婦も初めてその存在を知ったときは「そんなものはもんじゃ焼きと一緒で関東のゲテモノに違いあるまい」と一笑に付して顧みなかった。そこには異文化に対する恐怖の念も少し含まれていたと思う。

しかしながら、この「ふらい」を拒絶したために、我々夫婦はしばしば、関西人特有の「お好み焼き食べたい」という「特殊飢餓状態」の回避策に悩まされることになった。「こなもん」自体に飢えることはないが、「お好み焼き」となるとこの地方は極度に手薄なのだ。

では具体的にどうして凌いでいたかというと、あまりに流行っているのでもう名前は出さないが、丸の内の某名店まで足を伸ばしていたのである。しかもそこで一時間以上行列に並んで食べてきたのである。

ここで小さな声で言いたいが、あの某名店に三人ぐらいで訪れて、お酒を飲みながらなんやかんや頼んで、結局食べ切れなくて残して出て行くOLさんたちには、あの味が我々にとってのコーシャーなのだということをどうか分かってもらいたい。あなたたちは興味本位で食べているかもしれないが、我々には死活問題なのだ。

閑話休題。ともかくそのように厳格なこなもん教徒である我々であるが、この日曜日、不信心の罰当たりとは思いつつも、ふらい屋さんに入ってみた。

そのお店は「慈げん」。熊谷市の地方ローカル百貨店「八木橋」の裏手にあるお店である。たまたま「八木橋」のデパ地下グルメに用があったので、そのついでの訪問である。

結論から言えば、この「慈げん」の「ふらい」が、美味しかったのである。食べたのは「野菜紅生姜ふらい」だったが、味は先ほども述べたように、たこ焼きがそのまま薄くなって、チヂミになったようなものを想像してもらうと分かりやすい。

生地がくちくち、もちもちとしていて、ソースもしつこくなくて食べやすい。異教徒の食べ物とはいえ、我々こなもん教徒にもこれなら食べられる。ということで、我々は即座にこれまでの「ふらい」に対する非礼を詫びたのであった。

Sbsh00471 ちなみにこのお店、15時までは出汁と粉にこだわった手打ちうどんが食べられるというので、そちらも頼んでみた。

頼んだのは「ねぎ醤油の和えうどん」。これが、メニューに謳ってあるとおり、もちもちとした焼きうどんのような、醤油ベースのカルボナーラのような絶品であった。聖地讃岐巡礼も果たした人間が言うのだから間違いない。あくまで「ふらい」がメインで、サイドメニュー的な意識で頼んだうどんであったが、実はこっちのほうが瞠目するくらい美味しかった。

メニューを見るとこのお店、他にも「クリームチーズうどん」「うどんの豆乳鍋味噌風味」「ミルクカレーうどん」「トマトスープうどん」など野心的なメニューがならんでいる(以上うろ覚えですので、正確な名称は細部違うかもしれません)。

これはぜひとも再来して試してみたい、と奥さんと意思を確認しあったのであった。

熊谷市の「慈げん」、おいしいです。興味のある人はぜひ(丸の内の某店はこれ以上流行るといやなので名前を伏せるけれど、この地方のお店は、国道沿いでも流行らないとすぐつぶれてしまう苛烈な環境にあるので、ぜひとも繁盛していただきたいと思います)。

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家族が心配しています(ver.2.23)

Sbsh00421またアホなものを買いました。ディズニーとトランスフォーマーのコラボレーション・アイテムです(いい年して相も変わらず続いている都並の「衝動買い」に関する記事を分類するために、今回から「プロジェクトSDG」というカテゴリーを設けました)。

さすがの都並も、30代も半ばにさしかかっているのにもかかわらず、こんなおもちゃを購入し続けることについては、ずいぶん逡巡する気持ちがあったのですが、このタッグが個人的にあまりに魅力的だったので、今回は負けました。ついつい気持ちを抑えきれず、購入してしまいました。

Sbsh0043この玩具、パッケージには「対象年齢5歳以上」と書かれているばかりか、その他のパッケージの文字と説明書の文字には全てふりがながふってあります。

それを優に30年ほど上回った「大きいお友達」が購入するというこの大人気なさ。さすがに自分でも心配になりました…が、奥様はもっと心配しているようです。

Sbsh0044_2 けれどもこの商品、なかなかよくできています。ちゃんとトレーラーにトランスフォーム(変形)するし、ロボット状態のときは頭にパイロット姿のミッキーが乗っています。

おまけに、トランスフォーマーは今年で25周年、TDLも25周年。ということは、我々の世代はまさにこの商品のターゲット・マーケットではないか…などと言っても、全然免罪符になっていないですね…。

あまりの大人気なさに自分でも不安になってきたのでせっせと研究書を読んで論文を書くことにします。

ところでこのアイテム、amazonで予約までしたというのは内緒です。

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トマトが赤くなるとセレブがやってくる

Sbsh00211週末にかけて突然信じられないほど暖かくなったので、都並と奥さんも北関東の巣穴からのそのそと這い出てきて、いつものように東京へと買い物に出かけた。

いつものように、というのは、いつものように強行軍である、ということである。この日は代官山と表参道(どうして電車一本ですっといけないのか)と新宿伊勢丹とを半日で駆けずり回ってきた。

その強行軍の途中で昼食を採ったのは、代官山の「Celeb de Tomato」※。今話題の(?)徹底的にトマトにこだわって、トマトをフィーチャーしたお店である。

※青山と表参道にもお店があって、青山が本店らしいのだが、スケジュールの都合で代官山店さんにおじゃました。それにしても三十路のおじさんには気恥ずかしくなるネーミングだけど、なんだかここまで直球勝負で来られると逆にポップですがすがしい気もする。少なくともちっちゃいチョコレートのことを「ボンボン・ショコラ」と呼ぶほど恥ずかしくはない。

トマトといえば、僕の十年来の悪友のひとりはトマトがだいきらいで、「トマトなんて悪魔教の食べ物だ」と言い放ったことがあるけれど、その彼にとってみればここはきっと悪魔教の教会ということになるだろう。

しかし都並にしても奥さんにしてもトマトはむしろ好物だから、こういうこだわったお店はぜひとも詣でてみたいと思っていた。そう思いつつ、今までチャンスがなかったのだけれど、今回タイミングよく代官山でお昼になったので、ここを先途と(いや、それほどのことじゃないけど)いそいそとおじゃましたのだった。

Sbsh0023 いただいたのは1500円のランチのメニュー。前菜としてトマトのサラダが出てきて、その後にトマトソースのパスタ、デザートにもトマトのスイーツ、食後にコーヒーか紅茶というメニューである。コーヒー/紅茶には別にトマトは入っていない。

これはいちばんお値打ちのメニューで、このほか、メインディッシュが魚のコースとお肉のコースがあったけれど、そんなに食べれないのと、パスタが食べたかったのでこのメニューにした。けちったわけじゃありません。

サラダのトマトだけれど、なるほど、完熟で甘くておいしい。いやな青臭さはちっとも感じられない。けれども、これは奥さんと意見の一致を見たところだけど、今まであったトマト観を覆してくれる、というものではなかった気がする。

例えば、素人の僕が登山をしていたら、後ろからやってきたベテランらしき人物が「そっちじゃない!そっちに行くと滑落するぞ!」と言ってくれるような、コペルニクス的転回を期待していたのだけれども、そういうものではない、ということである。

といって美味しくない、というわけではない。

もう一度登山の喩えを使うと、ルートは間違っていないんだけど、後ろから来たベテラン登山家のおじさんが「俺は荷物要らないぞ!あ、それと靴も要らないの。じゃ、お先にー!」といって物凄いスピードで追い越していくような、そういう美味しさである。

わかりにくいか。

Sbsh0024 ともかく、そういう正統路線のトマトだから、パスタとなるとそのオーソドックスさがますます際立ってくる。「なるほど。こういう味になるだろうな」という味ではある。

けれども味付けがしつこくなく、いたずらににんにく臭くも塩辛くもないので、舌が喜ぶというより、胃袋が癒される感じがする。

僕の胃の中で誰かが「おっ、今来たコレいいぞ!もっとカモンカモン」と呼んでいるような気がする。そんな味である。

わかりにくいか。

Sbsh0025 期待を裏切るという意味では、もっとも意外性があったのがデザートで、この日はトマトのブリュレだった。

もっとも、隣で同じコースを食べていたお客さんのデザートはトマトのティラミスだったから、それが売り切れになってこれに変更になったのかもしれない。

いずれにせよ、クレーム・ブリュレのまろやかさとトマトの酸味がうまく調和して、これは新しい味だった。

ただ、トマトの味とブリュレの味が同時に舌の上にあることに対して、ちょっと脳が認知的混乱を覚えている気はしないでもなかった。

でもおいしい。これはおいしかった。

Sbsh00221 この店のもうひとつの売りは、トマトジュースである。全国津々浦々から集められた、一本1000円から5000円もするようなトマトジュースがずらりと並んでいて、店内でも飲むことができる。

しかしこんなにいたずらにセレブ価格なジュースが並んでいても、どれが美味しいのかわからない、という人のために、店内ではテイスティングもできるようになっている。四種類の、それぞれ糖度が違うトマトジュース(糖度6~12くらい)がショットグラスでテイスティングできて、1200円。

これは正しい趣向だと思う。トマトジュースが積極的に好きな人以外は、やはりどんなに美味しくても、料理を食べながら一緒にグラス一杯飲むのはちょっと大変じゃないかなあ、と思うからだ。

Sbsh00261 テイスティング4種が運ばれてくるときはこんな状態。順番にお店の人が説明してくれる。この写真では右上の黄色っぽいのが「太陽の王様(オレンジキャロル)」といって、黄色いプチトマトのジュースで、この中では最も糖度が低い。

そこから時計回りに「千歳の雫」「薫寿~KOTOBUKI~」「あいこ」という名称で、順に糖度があがっていく。いちばん甘いものが「あいこ」。

これを糖度の低いものからテイスティングする。「順番を逆にすると、糖度の低いものがただのすっぱいジュースになってしまうのでお気をつけください」とお店の人。丁寧なインストラクションでありがたい。

まとめて言うと、都並の舌にとっては、この写真の右半分と左半分で分水嶺があるような気がする。「千歳の雫」(右下)までが、もちろん香りがさわやかで飲みやすいけれども、我々の知っている「トマトジュース」の概念に当てはまるといえば当てはまるもので、一方「薫寿」「あいこ」になると、もう「トマトジュース」ではない気がする。

言い換えると、左半分のふたつ(「薫寿」「あいこ」)は、甘さも充分であると同時に、独特の芳香というか醗酵した香りみたいなものがあって、ワインを連想させるというか、「これ、あなたの知らない南国のフルーツです」といわれれば、「そうなんだ」と思ってしまうような味である。おいしいけれど、そのぶんなんだか戸惑ってしまう。

しかしながらこれは、「トマトジュース」観を刷新してくれる、という意味ではいい「アトラクション」じゃないかと思う。でも、例えば「薫寿」は大瓶で5000円もするので、ここから自宅に発送して飲むか、と言われると、そこまでしなくてもよいような気がする。

まあ、なんだ。「Celeb de Tomato」、とってもおいしいです。トマトの好きな人はぜひ。

なんか無難なまとめ方だな。

追記:我が家では毎朝トマトを食べる。今朝、セレブでもなんでもないトマトを食べたら、代官山のアレが立派にセレブであるということがよくわかりました。

この店の真価は、次にふつうのトマトを食べたときに現れるのかもしれません。

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夕方を通過する

しようやくこのところ、我が職場でも授業期間が終わり、秋口からの怒涛のような忙しさにも小休止が訪れた。

とは言っても仕事がない訳ではなく、まずは今年度中に行った研究発表を二本、論文にまとめなければいけない。その合間にいくつか研究書を読み、また来年度の授業準備もしなくてはいけない。

ということで、やはり研究者には休みはないのだ。

ただそうは言っても、一時期のような会議と締め切りの数珠繋ぎ状態からは解放されたので、その分だけの開放感を感じているということである。

時間が工面できたので、今日は日頃ならありえない時間に大学をおいとまし、ぼさぼさに伸びた髪を切ってもらいに行くことにした。

早い時間にオフィスを出たことによる奇妙な罪悪感と非現実感を味わいながら、いつものバス停に並ぶ。

程なくして、2月の夕日が真っ赤に空を染める方角から、できのわるい猟犬のように体を揺らして、古びたスクールバスが やってきた。

学生たちの列にに混じって粛々と乗車する。前のほうに一人がけの席が空いていたので座らせてもらう。鞄を膝に乗せてとりとめない考えごとをしているうちに、バスは何回か曲がり角を曲がり、もときた夕日の方角へ進み始めた。

前方のガラス越しにきれいな春の夕日が見える。それを見てはたと気がついた。思えばもう長らく夕日を見ていない。

この時間帯はいつも日当たりの悪い研究室でPCに向かっているか、授業をしているうちに通過してしまう。

けれども昔々のことを思い出せば、山村育ちで毎日野山を駆け回る生活をしていた僕は、毎日毎日、故郷のちっぽけな稜線に、夕日が飲み込まれるのを見ていた。

そこから四半世紀、ずいぶん暮らしぶりも変わったものだ。もちろん歳を取っていいこともあるから、昔に帰りたいとは思わない。でも次に転職したら、夕日の差し込む研究室にしてもらいたいなあ、なんてことをちょっと思った。

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逃亡先の小江戸より

Sbsh0005
ただいま都並は、ふと思い立ってやってきた小江戸川越にて、奥さんと鰻を食べています。

追記:訪れたお店は「いちのや本店」さん、いただいたのは鰻重の菊、奥さんはひつまぶしでした。お値段は鰻重としては少し贅沢ですが、蒸した鰻はふんわり柔らかく、臭みも全くなくて、かつ脂ものっていて、実においしかったです。またたれも甘からず辛からず、決して主張しすぎないので、口に含んだ瞬間に、たれの味ではなく鰻自身の味が口に広がります。
浜松を郷里に持ち、三十余年鰻を食べてきた都並としては、正直さほど期待してなかったのですが、嬉しい誤算でした。迂闊にもその味にほだされて、郷里が思い出されてしまいました。とても優しい味で何だか癒されました。

川越は我が家から車で一時間ちょい、今度は観光をメインにゆっくり来たいなと思います。

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