ただいま忙殺中
ただいま都並は、来月に開催される研究会(学会)の準備作業やらなんやらで忙殺されております…。
【この日記はフィクションです】
ここ二日間ばかり、入試関係で大学に詰めている。
しかも朝の8時半からだ。世間様には申し訳ないがいつもこんな時間に研究室にはいない。なので、自分が少しだけまともな人間になったような気がする。
しかも我が家の近辺は今朝になってまたずいぶんと冷え込んだ。そこで喜々として先日アウトレットで破格で購入したブルゾンを出してきた。
防寒(というよりこの地方では防風だ)の用意を整えた後で、愛する奥さんの用意してくれた朝食を採る。
スターバックスの「エイジド・スマトラ」で淹れた熱いコーヒー。黒パンにペッパーシンケンとチーズを乗せたトースト、卵、プチトマト、バナナ入りのヨーグルト、それから、最近我が家のフェイヴァリットになっている、京都にあるのに「松屋長崎」という老舗洋菓子店のマドレーヌというのが今朝のメニュー。
阪神・岡田監督の辞任騒動などショックな事件が多いが、それでも朝の光の中でしっかり朝ごはんを食べると元気が出てくる。
特に、このマドレーヌは都並の元気の素だ。昔ながらの洋菓子、といった趣の、芳しい風味としっとりした食感。
非常においしいんだけど、これを食べるには京都にいるお父さんお母さんに買いに行ってもらい、それを送ってもらわないといけない。だからいつでも随意にオーダーできるものではない。あくまで、何かのついでで我が家のぶんも買ってもらえたときの行幸である。
それにしても、このマドレーヌのおいしさは、マルセイ・バターサンドに匹敵するね。
おなかもいっぱいになって、前述のブルゾンをいそいそと着込んで、家の外に出たら案の定風がとても涼しかった。
その皮膚感覚で何かを思い出した。
キャンプだ。
大学生の時分、時間を見つけては友人たちと野営に勤しんでいた頃の記憶が、頬を撫でる冷たい風でふいによみがえってきた。
思えばこれくらいの気温の頃、アウトドア・ブランドの高機能なウインドブレーカーを着込んで、「これっくらいへっちゃらだぞ」という一種の万能感とともに、野へ山へ分け入り、浜辺の流木を拾い集めていた頃からもう十年。
もう久しく野営に行っていないなあ。近頃日常生活は日に日に安全で堅実になり、仕事も来るものから順番に着実に片付けるようになって、我が家は奥さんのおかげでいつも清潔で、食事はおいしく、学生の時分から比べたらずいぶんQOLの高い生活を送っている。
そのことはもちろんいいことだし、この生活をこれから守っていくつもりなんだけど、わが身一つとノースフェイスのブルゾンとヴィクトリノックスのナイフが一本あれば、それだけで万能で無敵だったあの頃(といっても浜辺を走り回って吠えていただけなんだけど)。
そこからずいぶんきてしまったことだ。
けれどもそんな思考は一瞬のこと。通勤駅の改札にスイカをかざす頃には、秋の風に飛ばされて消えてなくなっている。その代わりに都並の頭の中は、今日すべき仕事を反芻している。
研究室に着いたらまずメール・チェックして返事を書いて、それを受けてたぶんあの書類の直しが入って、残った時間で授業の準備をして、あの本をちょっと読んで、それから某ホテルに打ち合わせに行って…いまやこれが僕の野山である。
分け入っても分け入っても活字ばかりだ。
それにしても、さっき食べたのにマドレーヌの風味では何にも思い出せないところが、偉人マルセル・プルーストと凡人・都並との違いだ。
【総力特集もついに(3)に突入です。でも(4)までいきそうです】
次に、この映画の物語構造の話をしておきたいと思う。
この映画には、実はそっくりな構成を採る作品があって、それはアメリカ映画史に残る傑作、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)である。
どういうことかをできるだけわかりやすく説明しよう。
まず、この二作はどちらも、「死んでしまった人物の生前の生き方を、彼の知己が語る」という構成を採っている。
もっとも、『市民ケーン』の場合は文字通り、ケーンの死んだ後の「現在」のシーン、新聞記者トンプソンがケーンの知己を順に取材して回るシークエンスが映画の要所要所に出てきて、ケーンの生涯はその「現在」からのフラッシュバックで語られる。
一方『イントゥ・ザ・ワイルド』では時間軸の構成はもう少し複雑になっているし※、実際原作の書き手クラカワーによる知人へのインタビューのシークエンスがあるわけではないので、そういった意味での差異はある。
※クリスの死後の時点から妹がヴォイス・オーヴァーで語ると同時に、映画はクリスがそこで死を迎えることになる「魔法のバス」でのシークエンスと、「魔法のバス」までの旅程のシークエンスとを交互に語る。
しかしいずれにせよ、このような構成のおかげで、我々観客は予め「この人は映画の結末で死ぬんだな」という(必ず的中する)予測をもって映画に臨むことになる。
すると、こういった映画では通常の映画の「結末はどうなるんだろうか」という関心の煽り方は成立しなくなってしまう。
では、その代わりに我々はどういう態度をもって映画を観るのか。それは、ケーン/クリスがどのように生き、何を経験し、何を考えたかを見届けよう、という観察者の態度である。別の言い方をすると、主人公の人となりに最大の関心を持つことになるのだ。
こういった態度は、例えば『クローバーフィールド』や『バンテージ・ポイント』のような映画に対する態度とは全く異なるものであるし、さらにいうと、最近のアメリカ映画ではまれなものだと言えよう。そこをあえて挑戦したところにこの映画の価値があるのかもしれない。
さらに、ロード・ムーヴィーというジャンルが、このような人間観察の趣を強化している。ふつうの映画とロード・ムーヴィーとの違いは、専門的な言い方をすると、因果的構造を採るか挿話的構造を採るかの違いとも言える。
ふつうの映画は、因果(原因と結果の連鎖)で物語を運ぶことが多い。「はじめに○○がおきて、その結果××があって、さらにその結果…」という連鎖が物語の出来事をつないでいるのだ。
一方、ロード・ムーヴィーは、そういった原因と結果の連鎖に縛られない、突然の、偶然の出来事を許容する。桃太郎が犬・猿・キジの家来に出会ったのはただの偶然で、犬に出会ったからその結果猿にも会ったわけではないし、猿に会ったからキジにも会ったわけでもない。ただ、犬に会い/猿に会い/キジに会っただけだ。こういった、ぶつ切りの出来事が挿話のように並べられている物語を挿話的構造を持つ、という。
このようにして、原因と結果の連鎖を断ち切ったところにある、いくつもの偶然の出会い。それがこの映画の大部分を占めているわけだが、こういった挿話的構造では、さらに「観察」の趣が強くなる。
我々は、ふつうの映画に対してするように、今目の前にある出来事を分析し、前の出来事の結果と次の事件の原因を探すわけではなく、まんべんなく出来事の全体を眺めようとするからである。
そこには、極端な喩えを使えば、イラストの「間違い探し」をする人と、絵全体を鑑賞する人のような違いがある。
では、このような「観察」でもって我々が眺めるのは何か。まさに彼が自分自身の旅を旅にしてしまった悲しみである。クリスは、留まろうと思えばどこにでも留まれたのに、あえてすべての出会いを断ち切って、孤独な荒野へ踏み入っていった。いわば挿話的な生き方を彼自身が望んだわけで、その悲しみを我々は観察するのだ。
さらにこのことを別の角度から見ると、クリスの生き方には、ふつうの映画に観られるような「目的」がない。ふつうの映画では例えば、「王子様と結ばれる」だとか、「ファッション業界で成功する」だとか、「連続殺人犯を逮捕する」だとか、様々な行動の目的があるのだが、クリスにはそれはない。
いや、こういう言い方は正しくなくて、彼は「生きのびる」ということを目的にしたのである。ふつうの映画では登場人物は生きているのが当たり前で、その上で何らかの社会的な目的があるのだが、そういった社会的目的をクリスは拒否したのだ。その上で、「生きる」ことを再度目的に設定したのだ。
その結果、彼は他人とのかかわりを断ってしまう。他人とのかかわりは、社会的な目的のためには必要だけれど(他人こそが社会だからだ)、「生きる」という目的には必要ない、と考えたのだ。
そのような実存主義的な目的のあり方が、ロード・ムーヴィーの挿話的構造へとつながっていく有様を我々は「観察」することになるのであり、ここにこの映画の痛み/悼みがあるのだろう。
しかも、映画の結末で我々はさらに、クリスが悲しい認識にたどり着くのを観る。文学からの引用を好むクリスが最後の最後にたどり着いた答えは、愛読書の中の「幸福は他人と共有したとき現実になる(Happiness is real when shared.)」という一節である。
つまり、幸福は他人=社会とのかかわりにしかなかったのだ。クリスの命がけの思考実験がたどり着いた先は、そんな当たり前の答えだった。そこにたどり着くまでのなんという長い、孤独な旅だろうか。
しかしともかくも映画は、こうして実在のクリス・マッキャンドレスの試みについて何かを考えさせるきっかけを与えてくれるわけであり、そういった意味ではクリスの人生は「共有された(shared)」ともいえる。我々はクリスの旅に同行したのであり、その意味で彼は孤独ではなかったのだ。これを映画による救済、と呼びたくなるのは、僕自身の身内びいきだろうか。
(4)に続く(次は、「実話に基づく(based on a true story)」映画と「実話」の関係について考えます)。
まずは3人のミスター「E」がいい仕事をしているのは間違いない。
(1)であまりに青臭い恥ずかしい文章を書いた直後なので、照れ隠しに「E仕事」と書こうと思ったけれど、文体を見失いそうなので止めておく。
まずは、主演のエミール(Emile)・ハーシュ。
この人は何でこんなにすばらしいんだろうか。一昔前ならレオナルド・ディカプリオがやっていたような、知的で人懐っこくて、でも頑固で向こう見ずなところと繊細なところを兼ね備えている青年、クリス・マッキャンドレスを見事に演じている。まさに血肉化しているのだ。
きけば、先にウォシャウスキー兄弟の変な映画に主演しているとのことだけれど、あれは全く無視していたので、初めてこの人のことを知って驚愕している。シャイア・ラブーフと並んで、今アメリカ映画界で最も才能のある若手だろう。この人に比べればアシュトン・カッチャーなんか全然かすんでしまう。
次に、撮影監督のエリック(Eric)・ゴーティエ。『ポーラX』や『モーターサイクル・ダイアリーズ』を撮った人だというけれど、この人の撮影するアメリカの大自然ははっとするくらい精細で美しい。なんとなくぼかして撮って、映像をいじっていじってきれい、というのならいくらでもいるけれど、高精細で美しい、ということに驚嘆する。
そもそも僕はこの映画のようなロード・ムーヴィーを愛して止まないのだけれど、それはひとつには、アメリカのロード・サイドや自然の風景が味わえる、擬似旅行的な楽しみがあるからである。
この映画ではその擬似旅行の趣が、かつてないほどのヴィヴィッドさで味わえる。これは、撮影対象そのものの美しさもあるとはいえ、それでもすごいことである。昨今『私がクマにキレた理由』とか『プラダを着た悪魔』とか『魔法にかけられて』とか『SATC』とか、NYの紋切り型の風景ばかりが映画界を席巻していることを思うと、この映画がアメリカの自然美を再度見つめなおした功績は大きかろうと思う。
一部、アラスカの丘の上に立ったハーシュの周囲を一周するショットとか、ホーム・ムーヴィーのロウファイな映像を使う手法とか、ベタなショットもあったけど。
三人目はもちろん、エディ(Eddy)・ヴェダーである。僕はクリスと同世代で、グランジ・ブームのときにいちばん洋楽を聴く年齢だったわけだけれど、実はパール・ジャムは苦手だった。当時一番人気のニルヴァーナが、パンクなところとポップなところを併せ持っていて、それでもってオルタナとか言われていたのに比べると、ちょっとパール・ジャムは渋すぎたし器用すぎた。
けれどもこの映画ではその渋さと器用さが、見事に映画のBGMとして成立している。ちょっと野太い声が前景化しすぎる感もあったけれど(R.E.M.のマイケル・スタイプさんの声を太くしたような感じである)、それでも、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』のサントラをニール・ヤングが担当して成功したように、一人のミュージシャンが持つスタイルが、映画の雰囲気をぐいぐいと引っ張っている。
…と、こんなふうにそれぞれのプロフェッショナルの仕事を褒めるのはかんたんだ。でも、この映画の成功はそこだけにあるのではないはずだ、と思うとき、どう考えればいいかわからなくなる。
だから、いろんなことを考えてみよう。
ひとつは主題の問題である。
この映画は、全編をクリスの人生に喩えて章立てしたショーン・ペンの構成が如実に表しているように、人生の主題がいくつも詰まっている。そのなかには親子の確執、男女の恋愛、他人との出会いなどなど、普遍的なものもあれば、いかにもアメリカ的なものもある。
例えば初めに、クリスはトルストイとソロー(『森の生活』)、ジャック・ロンドン(『野生の呼び声』)が好きだと言っていて、そのあたりはアメリカにおける文学と思想の系譜みたいなことを考えるきっかけにもなる。
それから、時代遅れのヒッピー・コミューンと、クリスと親密な関係になるヒッピー・カップル※1が出てきて、「魔法のバス※2」が出てきて、ヌーディスト・キャンプとかも出てきて、まるで都築響ー的なアメリカ暗部ツアーみたいな趣も感じさせるところも(そしてそれが雄大で健全で美しいアメリカの自然と対置されるところも)面白い。
※1 どうでもいいけれど、このカップル、男の方は素人俳優で本職は海洋コーディネイターというから驚く。さらに女性の方は、個人的にその器用さに感服しているキャサリン・キーナー。『マルコヴィッチの穴』でのセクシーなレズビアン、『カポーティ』での母性を感じさせる女性作家ときて、この役どころだからまいってしまう。さらにまいってしまうのは、このプロの女優と素人俳優のカップルの演技が完全にマッチして成立していることだ。
※2 "Magic Bus"は、字幕では「不思議なバス」となっていたけれど、ザ・フーのアルバム名とか、ケン・キージーがカウンター・カルチャー全盛期に乗っていたアレとかに対する含意もあるのだから、パンフレットにあるように「魔法のバス」とするのが良いと思う。
そしてこのアメリカの裏側を通過した後で、最後の老人との出会いで明らかに「汝光あるうち光のうちを歩め」といったトルストイに帰ってくる構成は非常に巧みである。ここにきて、クリスの思考の流れを形成していた現代アメリカの様々な思想が、トルストイ的な素朴な信仰観、人生観へと還流されていくのである(トルストイは結末近くでももう一度言及される)。
こういった思想面からアプローチすると、アメリカ史を貫いてきた様々な思想の流れの結節点、その力がかかって押し出されるところにいた人物、としてクリスを捉えることもできるだろう。
さらにいうと、そういった抽象的な思想の原則と、彼の家族に起こった具象的な事件とがぶつかり合って、クリスにああいった行動を取らせた、とも考えられる。パブリックなものとプライヴェートなものの衝突というか、そういうことを考えさせるのも面白い。
(3)に続く。
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