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スティル・ハプニング(レビュー:『ハプニング』その2ver.8.4)

前回この『ハプニング』のレビューを書いたのは封切りの金曜日だったが、その直後からかなり多くのアクセスがあったみたいで、その後4日間くらいで延べ500回くらいのアクセスをいただいた。

これは、一日平均30アクセスのわが隠遁ブログにとっては大きい数字である。

それに気を良くしたから、というわけではないが、別件の仕事で論文を読んでいて、この映画について改めて思うところがあったのでまた書く。

今回考えるのは、ハリウッド映画の「二重の行動軸(lines of action)」について、である。

「行動軸」などというと難しく聞こえるが(ちなみにこの訳語は都並の独断に基づくものである)、簡単にいうとプロット、あらすじ、あるいはもう少し丁寧に説明すると「主に登場人物が行動し働きかけることで、紛糾から解決に導かれる話の筋」が、ひとつのハリウッド映画にはしばしばふたつ、あるいはそれ以上ある、と一般的には考えられているのである。

「一般的に」ってそれはどこの一般なのか、という突っ込みが当然あるだろうが、日米英の映画研究者一般、ということである。

つまり、主人公を含む一群の登場人物が解決しなければならない問題が、ハリウッド映画にはしばしば二つ(以上)あるということだ。

そしてさらにそのなかでの一般的なパターンは、その行動軸のうちのひとつが「恋愛」をめぐるものである、というパターンである。

例えば『ダイ・ハード』というアクション映画を例に挙げて考えると、主人公ジョン・マクレーンが解決しなければならない問題は

①ナカトミ・ビルを占拠しているテロリストの制圧

②不仲となっている妻との和解

の二つである(ちなみに『ダイ・ハード』シリーズは、少なくとも3まではこの二重の行動軸をもっていたのだが、続編を重ねるにつれて②のプロットが希薄になっていった)。

同様の構造は『タイタニック』でも『アルマゲドン』でも確認できるだろう。

この二重の行動軸について、付記すべき興味深い点は、我々観客の側がその解決時に抱く印象という点にある。

かいつまんでいうと、片方の問題が無事(円満)に解決すると、その安堵感は我々の心理に作用し、もうひとつの問題が仮に無事(円満)に解決しなくとも、その終結時の評価に影響を与えるのだ。

その古典的な例を見てみよう。例えばハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』では、次の二つの行動軸が認められる。

①殺人の容疑者アール・ウィリアムズを市長の悪意ある政治的判断と死刑から救うこと

②ウォルターが、元妻のヒルディとよりを戻すこと

この映画では、①のプロットは無事解決される。が、②のプロットの解決は、ほのめかされるにとどまる。一度離婚した相手と復縁して、そのまま円満な関係を築けるということはなかなか考えにくいからだ。

しかしこの映画では、①のプロットで道徳的に正しいことが行われ、それが無事に成果を得るので、観る側は②の復縁もまた道徳的に正しいことであり、①と同様に成果を上げるだろう、という印象を持つのである。

このように仮定したとき、このような二重の行動軸の心理的効果は、これまでハリウッド映画において巧みに利用されてきたのではないか、とりわけ『ハプニング』のような「天災映画(disaster movie)」においてそうであったのではないか、と考えてみたわけである。

例えば『デイ・アフター・トゥモロー』では、

①突然の異常気象の収束

②親子の再会

というふたつの行動軸がある。このうち①は、始まったときと同様に突然に収束するのだが、それは主人公の行動によるものではない。自然という大きな力の前に人間は成すすべがないからだ。

実際に成すすべがないかどうかはわからないが、この手の天災映画ではそういっておかないといけない。でないと、観客の畏怖の念をかきたてることができないからだ。これは映画の感情面での成否に関わる大きな問題である。

いずれにせよこの①の強引な(機械仕掛けの神のしわざのごとき)解決は、そのままでは観客の側に不満を残しかねない。

「そんなの、突然治まったってまた始まるんじゃないの」という疑念を与えかねないのだ。

しかしながらこの映画では、②の親子の再会は無事果たされている。これが一件落着の印象を強く与えるので、観客は①の天災のプロットについてもなんとか受け入れることができるのである。

蓋し『ハプニング』も、全く同じ構造を採っているのではないだろうか。この映画では

①植物の出す毒素攻撃の回避

②夫婦間の不仲の解決

というふたつの行動軸があり、このうち①は『デイ…』同様に何の理由もなく(少なくとも北米大陸では)治まる。これだけではいささか映画の結末としては受け入れかねるが、②の夫婦間の不仲は無事解決され、しかも養子と実子という新しい家族を得るという幸福な形に結実する。

この②の行動軸の無事の解決のおかげで、我々は「とりあえずは一安心だな」と思うことができるのだ。というか、できるのだろう、と思う。

もし観た人によって「そんなことないよ、フランスでまた始まったじゃないか。アメリカも再開するよ」という印象が強いとしたら、それは②のプロットの感情的な高まりに我々を乗せていくことに、映画が失敗しているからかもしれない(実は僕はこの立場なのだが)。

ともかくこんなふうに、人智を超えた災害を描く映画のエンディングは、二重の行動軸の心理的効果にしばしば大きく依存しているのではないか、というのが今のところの僕の仮説である。

ちなみに『宇宙戦争』では二重の行動軸の心理的波及効果の流れが逆になっている。

①宇宙人からの攻撃への抵抗

②家族の再会

という二つのプロットのうち、どうやら受け入れることのできる結末を迎えるのは①で、宇宙人は地球の微生物に弱かったのだから、もう二度と攻撃してくることはなさそうだ。

この安堵感が②の離婚家庭の再会に心理的な効果を及ぼしているだろうと思うのである。「宇宙人の攻撃は治まった。もう大丈夫だ。この家族もきっと大丈夫だろう」ということである。

こういう暗いかたちでしかアメリカにおける家族の未来・希望を謳えないところに、『ユリイカ』の蓮實重彦先生×黒沢清監督の対談の表現を借りれば、「黒いスピルバーグ」らしさを見て取ることができるのかもしれない。

8月4日追記:この「パニック映画」あるいは「天災映画」における二重の行動軸については、『入門・現代ハリウッド映画講義』という論考集の中で、鷲谷花さんがデスピーナ・カコウダキを引用して「パブリックな解決」と「プライベートな解決」という表現で言及しています。

この日記の内容は別の海外の論文に触発されたもので、こちらはこの日記の内容とは若干違う論旨ですが、大変興味深い論ですので興味のある方はぜひ。ずっと前に読んだので忘れていたのを昨日ふいに再読して思い出しました。

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