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レビュー:『ノーカントリー』後編(ネタバレ&長文必至)

話の続き。

コーエン兄弟は環境音を「サスペンスを盛り上げるための道具」として使っている、という話であった。どのようにか。

そのもっとも端的な例は、最初にモス(ブローリン)にシガー(バルデム)の追っ手がかかる、一つ目のモーテル(リーガル・モーテルだったか)での場面に見出すことができる。

ここではモスがふたつの部屋を借りて、一方の通気口から入れた大金のトランクを、もうひとつの部屋の通気口から取り出そうとする。この場面で、モスに追っ手がかかっていることを知らせるのは、シガーの撃った消音機つきのショットガンの「音」、それから犠牲者となった哀れなメキシコ人の「声」、なのである。

また、狭い通気口の中ではトランクがぶつかり、不用意に大きな「音」を立てるのだが、この音も「これでモスがシガーに気づかれるのでは」という恐怖を観客から引き出すのに成功している。

さらにコーエン兄弟が抜かりないのは、こういう「聴覚のゲーム」に観客を抜かりなく参加させるために、それに先立つ場面で、モーテルの中のモス(ブローリン)に、耳を澄ますアクションをさせているところだ。これは観客に対する「耳を澄ませ」という合図なのである。また一方で、カメラが靴を脱いだシガー(バルデム)の靴下だけの足首を執拗に映し出すのも、同様の「聴覚のゲームでは音を立ててはいけない」という合図だ。

ここまで書いてきて、「えー、本当にそんな大げさなものかなあ?コーエン兄弟じゃなくたって、そんなのはサスペンス映画やホラー映画なら誰でもやってるんじゃないの?例えば『暗くなるまで待って』とかさ」という批判の声が聞こえてきたので(その批判はある意味当たっているのだが)、ここである比較をしよう。

その比較対象はヒッチコックの『サイコ』である。

これも都並が鬼の首を取ったみたいにえらそうに言うまでもなく、映画好きなら誰もが、この映画と『サイコ』の類似点に気づくだろう。モーテル、殺人鬼、マクガフィンとしての大金を持った逃亡者…(たとえば内田樹先生のブログを拝見すると、先生もそう書いている)。

しかしコーエン兄弟の偉いところは、単にこのヒッチコックの名作をオマージュ※としてサンプリングしているのではなく、その説話の技を完全に換骨奪胎しているところにある。端的に言うと、『サイコ』は「視覚のゲーム」であったのだが、それをコーエン兄弟は「聴覚のゲーム」に造り替えているのである。

※単なるオマージュとしては、同じアメリカ/メキシコ国境を舞台にしたオーソン・ウェルズ監督主演の映画、『黒い罠』へのオマージュなら、この映画には存在するかもしれない。いちばんわかりやすいのは、ウディ・ハレルスンが演じるのはカーソン・ウェルズという人物だし、『黒い罠』の冒頭は有名な車の爆発ショットなのだが、この映画にもシガーの起こす車の爆破のショットがある。そう思ってみると、ジョシュ・ブローリンはなんとなくチャールトン・ヘストンと似たタイプに見える。

例えば『サイコ』では、大金を持ったマリオン・クレーン(ジャネット・リー)が、車を買い替える場面がある。ここでは中古車販売店の向かいに巡回中の警察官がいて、マリオンはその「視線」をしきりに気にしている。さらにマリオンは、新聞の販売機で新聞を買い求め、自分の起こした横領事件が記事になっていないかを「見て」確かめる。ここでは「見ること」が「知ること」と一致しているのである。

このことを裏付けるように、その後、ディーラーと商談が成立したマリオンは、代金をバッグから取り出すためにトイレに隠れるのだが、この個室に隠れるのは「見られる」=「知られる」ことを避けるためなのである。

こうした「視覚のゲーム」で最後にマリオンには何が起こったか。彼女は最終的にベイツ・モーテルで、壁の覗き穴からベイツに「見られ」、「視覚のゲーム」に負けて、殺されてしまうのである。

このモーテルを舞台とした「視覚のゲーム」を、「聴覚のゲーム」に置き換えて再構築したところに、『ノーカントリー』のすばらしさがあるのである。「箱庭」感から議論を進めてきたが、気がつけばこの映画でもまた二人は「新しく作られた映画による、過去の映画の批評およびオマージュ」を行っていたわけだ。確かに、聴覚を用いたサスペンスやホラーはたくさんあるだろうが、その「聴覚のゲーム」を、ヒッチコックへのオマージュともとれる手法で再利用したところに、コーエン兄弟の手腕が光っているのだ。

さらに映画本編から論の補強材料を探すなら、もうひとつのホテルでのモス(ブローリン)/シガー(バルデム)の対峙のシークエンスを思い出すとよい。

ここではモスはついに、自らを追跡する発信機の存在に気づく(この発信機と対になる受信機も、ランプの点滅とともに、警告音のインターバルで発信機の遠近を知らせる、「聴覚」の道具であった)。そしてシガーの到着を待ち構えるのだが、このときも彼は「耳を澄ます」のである。そして遠くにシガーの足音が聴こえてくる。

しかしこの「聴覚のゲーム」でモスはひとつ誤りを犯す。彼は、ドアの隙間からの光でシガーを「見よう」としてしまう。「見る」ことは、この「ゲーム」ではルール違反である。そのためシガーによって廊下の照明を消されてしまったモスは、シガーの不意打ちを回避できなくなるのである。

…長々と書いてきたが、最後に改めて、ヒッチコックに比肩しうるテクニックを手に入れたコーエン兄弟のキャリアを祝福したい。これからの作品も、これまで以上の期待を込めて、観続けていきたいと思う。

難しい話を気取って書きましたが、興味のある人はぜひ観てください。一度観た人も、今度は耳を澄ましてもう一度見てください。この映画の音響効果のすばらしさに気づくはずです。環境音の細やかな配慮のおかげで、どの場面でも「まるで同じ場所に自分もいるかのような」臨場感が半端ないです。小理屈は抜きにしても、単純に音効さんを褒めて差し上げたい、そんな作品です。もちろん100点。

追記:ネット上でヒッチコック作品と『ノーカントリー』を比較したものを探すと、『サイコ』とともに『鳥』を挙げているものがあって、これは興味深い見解だと思った。その筆者いわく、『サイコ』のノーマン・ベイツはまだ理解可能な人間的側面を持っているが、「純粋悪」とも言われるアントン・シガーはまるで「壁」みたいなもので、到底理解できない、人間的でない存在なのだから、そういう意味では『鳥』の災厄の方が近い、というのである。なるほどな。

追記その②:この映画を端的に人に説明するなら『サイコ』×『黒い罠』×『激突!』(純粋悪の追跡という意味で)×『ターミネーター』(自らの怪我を治療するバルデムの鉄面皮ぶりに、同じようなモーテルでのシュワちゃんの振る舞いを思い出したのは僕だけではないはずだ)になるだろうと思う。そういうことを本文にうまく入れ込みたかったが入れられなかったのでここに書く。

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レビュー:『ノーカントリー』前編(ネタバレ&長文必至)

まだ『君のためなら千回でも』と『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』のレビューも書き留めてない時点で(書かなくても誰から要請があるわけでもないのだが)、『ノーカントリー』を遅ればせながら観てしまった。これがあまりによかったのでレビューを書いておきたい。

保留になっているものも、とりわけ前者はアカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した、アフガニスタンの拘置所での米軍の拷問行為を取り上げた秀作、『「闇」へ』Taxi to the Dark Side と対比させることで、「何が語られないことによって何を語っているか」を明らかにすることができると思うのだが、とりあえずそれよりも先に『ノーカントリー』である。

何せ、夕べは鑑賞後あまりの興奮に、同じく映画好きの兄弟二人にメールをしたのだが、あまりに興奮しすぎて件名のところに全文書いてしまったくらいなのである(その直後に兄と弟二人から「また件名のところに書いて」とダメ出しのメールをもらった)。

さらにいうと、なんとなく映画鑑賞後まっすぐ帰る気にならなくて、日比谷から新橋まで歩いてしまったくらいである。いやはや、新橋は初めて行ったけど、SL広場を埋め尽くすサラリーマンさんOLさんの群れにびっくりしてしまいました。

それはさておき。ここから本文です。

コーエン兄弟の映画は昔から好きでよく観ている。最初はVHSで『バートン・フィンク』、それから劇場で最初に見たのは『ファーゴ』だったか。その後またレンタルで『赤ちゃん泥棒』『ブラッド・シンプル』を観て、映画館では『ビッグ・リボウスキ』『オー、ブラザー!』(これはいまだに僕の中でベストテンに入る傑作だと思っている)『バーバー』『レディ・キラーズ』と観てきた。

コーエン兄弟の映画のどういうところが好きかというと、登場人物の造形とプロットがさりげなく「新しく作られた映画による、過去の映画の批評およびオマージュ」になってたりする、そういう意味でのヌーヴェル・ヴァーグっぽさももちろん楽しいが、物語世界がなんともいえない「箱庭」っぽさを醸し出しているところが好きなんだろうと思う。

「箱庭」というのは、コーエン兄弟の作品はどれも、細部の細部まで目が行き届いていて、ひとつひとつのショット、それから全体の物語が完全に統制されている、という感覚を僕に与えてくれるのである。言い換えれば、まるで物語の世界自体が巨大なジオラマで、空からコーエン兄弟が楽しげに見下ろしていて、登場人物を人形のようにつまみあげて遊んでいるかのような、そんな感覚とでもいうか。

実際ジョエル・コーエン自身、今回のアカデミー最優秀監督賞受賞の際のスピーチで、映画作りを砂場遊びに喩えているわけだけれど、このコメントは言いえて妙で、これほど自身の創作行為を巧みに捉えている言葉はないな、と思う。

今回の『ノーカントリー』もそういう作風の例に漏れない。それどころか、この路線をさらに推し進めた傑作だと思う。

この「箱庭」感はしかし、それでは、どこから来るのか。

その答えのひとつはもちろん、映画の視覚的な要素に見出すことができる。今回美術監督を引き受けているジェス・ゴンコールは、一昨年度僕のベスト3に入った『カポーティ』でもその時代性と様式性を兼備した美術で手腕を発揮しているが、今回の『ノーカントリー』でも1980年代テキサスという世界を、ハードボイルド西部劇という味付けをしつつ、巧みに再構築している。

その匂い立つような時代感・西部感はさすがである。ハビエル・バルデムが最初にコイントスをする雑貨店や、トミー・リーが最後に訪れる元保安官代理エリスの住まいなどのディテールには唸らされる。聞けばもともと演劇畑の人、というが、そういわれてみると、現代演劇の舞台美術のような作りこみと見えなくもない。

が、しかし、美術もすごいのだが、今回都並が褒めたいのは音響である。「箱庭」感の由来するところを探す試みのもうひとつの答えは、聴覚にあるのではないか、と思う。

慣れた観客ならすぐ分かるとおり(パンフレットにも書いてあるけれど)、この映画にはBGMが(皆無ではないが)ほとんどない。

ちなみに、劇中で最初にBGMが用いられていたのはどこか?と聞くと、どれくらいの人が答えられるだろうか。答えは、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)がデル・リオに車で向かう場面である。その時点まで、映画は伴奏音楽を使っていないのだ。もちろん、その後もほとんど使っていない。

このようにBGMの使用を抑えるかわりに、コーエン兄弟は環境音を巧みに用いている。ルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)の住居では遠くに子供の遊ぶ声が聴こえているし、モーテルの場面では街道を行く自動車のノイズが常に聴こえている。これが、得も言われぬ臨場感を醸し出すのに成功している。さらに二人は、そのような環境音の大小を巧みに用い、ショットのリズム感を生み出してさえいる。

が、これだけなら、この種のテクニックは日本映画の得意とするところでもあるし、特筆に価するものではないかもしれない。

コーエン兄弟のすごいところは、映画のサスペンスを盛り上げるための道具として、この種の音を(まさに伴奏音楽の代わりに)用いているところである。

(以下後編へ。長くなったのでいったん切ります)

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ストレンジャーin六本木

せっかくの三月だが毎日仕事で忙殺されている。

こういうとき、なぜだか学者の間では

「だいたい世間の人は、授業のない時期は大学の教員というのは暇だと思ってるんだよな…とんでもない誤解だよいろいろ忙しいんだっつうの」

というのが定番の愚痴になっている。

自分もそう書こうと思ってふと筆を止めた。

というのは、過去にもそう書いたような記憶がひしひしとするし、まだこの年で(そういや同い年の松井秀喜さんご結婚おめでとうございます)同じ話を何度も繰り返すおじさんにはなりたくないからである。

事実、先日も「アンシェヌマン・ユニ」という洋服屋さんのインテリアの話を書いたときに、「あ、これは過去に書いたのではないか」という恐怖にとらわれて、思わず過去の日記を読み返したくらいである。このときは結果的にはセーフだったが、それぐらい記憶能力が衰退していっているのだ。

さらに言うと、あるマイノリティの(と自分たちが認識している)社会集団の構成員が「世間の人は…」というときの「世間の人」というのはひょっとすると自分たちの被害妄想の産物以外の何者でもないのではないか、という危惧の念が頭をもたげたからだ。

などと小理屈はどうでもよくて。

この日は来年度(というと遠い未来のようだがもう数日後である)から始まるゲスト・スピーカーの連続講義の打ち合わせで、六本木へ。

こういうものは相手のあることなのでどこまで書いていいかわからないが、六本木にある某社のプロデューサーさんに講義をお願いしていて、その講義がもう二週間ほど先に迫っているのである。

が、これがなかなか緊張した。

というのは、世間からずれてずれまくって生きてきた研究者の一人として、都並には民間企業の「打ち合わせ」というのがまったく未経験である。「プレゼン」とか「コンペ」とかいう言葉と同じくらい「TVの中の世界」の用語でしかない。もっと端的に言うと、「打ち合わせ」という言葉から都並が率直に思い描くのは、「ダウンタウンDX」の「打ち合わせでこんなもの撮れちゃいました」の風景でしかない。

しかも、そもそも都並は都会っ子ではない。これは我が記憶能力の衰退にもかかわらず過去に何度も書いていると自信を持って言えるが、また人前でも何度も話しているが、『となりのトトロ』が公開されたときに「これのどこが面白いの?うちの近所じゃん」と思ったくらいの山村育ちである。実際にトトロも中学校に上がるくらいまでは何匹も群れで跳梁跋扈していた。

それをなんとか、大学~非常勤講師時代まで大阪の都心部で過ごし、去年一年間を京都の中心地で愛を叫びながら暮らし(本日は全面的に筆がすべっております)、なんとか都会の絵の具に染まって生きてきたのだが、この北関東暮らしで一気に退行してしまった感がある。

それをいきなり六本木である。六本木ヒルズと東京ミッドタウンのど真ん中へ乗り込んでいくのである。緊張しないわけがない。

緊張のあまり30分も早く着いてしまったので、ウェンディーズでコーヒーを飲みつつ時間をつぶした。そのコーヒーを飲む手も震えていた。というのはうそだ。30過ぎてそこまで緊張することはまずない。

ともかく、さまざまな憶測(と名づけてデイドリーム)をもって、びびりながら人生初の「打ち合わせ」に臨んだわけだが、いざお相手のプロデューサーさんにお会いしたところ、そんな都並の「びびり」はまったく無用であったことがわかった。

受付まで出迎えに来てくださった時点から、とっても物腰の柔らかそうな方で、それで都並の緊張は一気にほぐれた。やはり物事にあまり先入観を持ちすぎるものではない。

さらに、今回の「やっかいごと」(大学の授業なんていうものは、一般企業の方にはそういうものではないかと思うのだが)についても真摯に受け止めてくださり、エクセルやパワーポイントの資料もたくさん用意していてくださったことがわかった。

訊けば、過去にもそういう授業の経験はあるのだということ。さもありなん。

授業の内容についての話も大変感覚がシャープで、最初から単刀直入に「僕の立場からだと落としどころはどこへ持っていけばいいのかな」と核心を突いた質問が出てくる。

というわけで最初の杞憂はどこへやら、非常にリラックスして「打ち合わせ」をすることができた。打ち合わせの終わりごろには、ここで働いている僕の大学時代の同級生、R女史も合流。共通の知人(?)を交えてよもやま話に花が咲いた。

その後某社を出てきた都並の後姿は、トヨタ・ヴィッツのCMのリラックマくらいリラックスしていただろうと思う。

追記:その後時間があったので日比谷に移動し、シャンテシネで『ノーカントリー』を観た。これはほんっとにすごい。早くも今年マイベスト3入りしそうな傑作である。オスカーも納得の作品であった(レビューは別記事で)。

追記その②:ところで、実際に経験した「打ち合わせ」は「ダウンタウンDX」の「打ち合わせでこんなもの撮れちゃいました」とどれくらい似ていたか?思い返せばかなり似ていたような気がするのであった。

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遠くの観察者へ

最近微妙についてない。今朝方テレビをつけたら朝の番組によくある占いの類で、星座・血液型・生まれ年のすべてで最悪の運勢だった。

その悪運の明らかな顕れとして、今年6月に出動予定だった学会のシンポジウムは諸事情で企画自体が中止になるし、アマゾンを通じてイギリスから取り寄せた洋書も100頁以上読んだところで乱丁(英語ではerratic paginationというそうです)が見つかって現在問い合わせ中だし、おとといは帰りのJRが一時間以上も遅れた。

そんな地味な不幸が続く中で、せめてもの慰めは、DB先生のブログに都並の写真が掲載されたことだ(トーク・イベントと懇親会の一場面、としてだけど)。

ところでこのDB先生、なかなかお茶目な人で、ブログを読んでいるとどうやら、今回の日本旅行では溝口健二のお墓参りをする予定が見つからず(過去に一度来たことがあるので記憶を頼りにもう一度きたところ見つからなかったのだそう)、代わりに、というべきか、東映太秦映画村を訪ねたらしい。

ま、都並がNYでクイーンズの映像博物館を訪ねるのと同じような心理か。

Twoheroes300それはさておき、DB先生はさすがに異邦人らしく、コメントがふるっている。

以下、都並の要約である。

「松竹は(メインアトラクションが小津と寅さんだけだったというのもあって)テーマパークには失敗したけれど、東映には剣戟のヒーローたちと、パワーレンジャーがいる。建物の一棟がまるまるこの人たちの等身大の、あるいはそれより大きい人形の展示に使われている。

私(DB)はこの固そうな顔の二足歩行の生物が何かについてはよく知らないのだけれど、でも確かにかわいいではないか。彼らのスノーモービルもいいね。それから微妙にひわいなポーズもいい」。

ひわいなポーズって…異文化の人間が見る、というのはこういうことなのだな、と実感。

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飛び込みたくはないけれど(プロジェクトTNT)

Vfsh0192繰り返しになるが今月は週末毎に旅の空である。

第一週が京都、第二週が名古屋、そしてこの週末は法事で浜松に帰省してきた。ちなみに来週は滋賀・長浜である。

浜松という町には(郷里というものは誰にとってもそうだろうけれど)もはや何の新鮮味も感じないけれど、今回初めて泊まったホテルは面白かった。

この写真のとおり、エレヴェーター・ホールがスタンリー・キューブリックばりの真っ赤な照明なのである。軽く狂気の世界に誘われている気がする。あるいはラブホテルだろうか。

しかし部屋そのものは新しく快適で、朝食もパンとゆで卵とバナナと最低限のものではあったが何の不満もなく、駅からも程近く(窓からJRの線路が一望できる)何より料金が安かったので今後の定宿にしたいと思った。

というわけで、ホテルの名前は伏せる。人気が出すぎて部屋が取れなくなったらいやだからである。とはいっても、浜松のビジネスホテルに宿泊客がわんさと押しかける状況って、お祭りのときを除けば、あんまり考えられないけど。

ところで泊まった日はたまたま、寝台特急「銀河」の最後の便が出る日だった。テレビをつけると富川悠太くんが東京駅からレポートをしている真っ最中だった。部屋からは東海道線の線路が見下ろせたので、そのまま4時間ほど眠気をこらえて起きていれば、目の前の線路を通過していく最後の雄姿が拝めたはずだが、鉄道に何の思い入れもないのですかっと就寝した。

Vfsh0193_2浜松では久しぶりにうなぎを食べた。実家があるので幼い頃から数え切れないほど食べてきたうなぎだが、今回は奥さんもいることだし、ちょっと本格的なところで食べてみよう、ということになったのである。

そこで、案外地元のことは知らないもので、インターネットで調べた上で、観光客に人気の「八百徳」さんで「お櫃鰻茶漬け」(いわゆるひつまぶし)をいただくことに。

これは、ちょっと価格的には浜松の平均価格より高いところがあるんじゃないかと思うけれど(だからビルが建つんじゃないかと思うけれど)、しかしながらその割高感を打ち消すに十分なだけおいしかった。うなぎがふわふわで、しつこさや生臭さといったものは微塵もなく、こぶ茶でお茶漬けにすると何杯でもいける感じだった。

あんまりおいしかったので奥さんは、自分のおなかの容量を超えて食べてしまったようで、食後しきりに「苦しい」と唸っていたけれど、それも納得の代物だった。

アンジャッシュの渡部さんみたいに「巨大なこの蒲焼きを作って、そこに思いきり助走をつけて、飛び込みたい!」とは思わないけれど。

浜松から帰ってきた後は東京駅でいつものように買い物&お茶。奥さんと僕の嗜好および行動パターンだと、大丸と丸の内でけっこう事足りてしまう。

Vfsh0194_2 今回は大丸の中にある「ブルディガラ・カフェ」に初めて入ってみた。大阪にいたときは、ここのハービスPLAZA店のサンドイッチ(へんじんもっこのハムとブリー・ド・モーとアボカドのサンドイッチ)とクロック・ムッシュにお世話になったものだ。

今回は、にわかにいちごのショートケーキに目覚めてしまったので、「ジャージー牛乳のガトーフレーズ」を試してみた。「ショートケーキ」ではなく「ガトーフレーズ」であるところに軽い抵抗を覚えなくもなかったけれど。

肝心の味のほうは、僕自身の好みから言うと甘さが控えめ過ぎたような気がする。本来都並は生クリームは得意ではないので(じゃあなんでショートケーキにはまっているんだ)、濃厚というよりはすっきりした味わいなのは嬉しいのだけれど、それにしてももう少し味に力があってもよかったのではないか。好みの問題だけど。

Vfsh0195_2奥さんが食べたのはパリブレスト。チョコレート味のシューにクリームが挟まっていて、真ん中のピンクはフランボワーズ。これは酸味と甘みのバランスがいい感じ。

しかしそれにしても、店内はおばさまだらけであった。またこのおばさまたちの香水の匂いが濃厚で…あんまり人の悪口は言いたくないけれど、食事をするところにきつい香水の匂いで入ってくるのって、一種のマナー違反だと思うよ。

お茶をし終わった後は、丸の内でお買い物。奥さんのデニム・パンツをアンシェヌマン・ユニで購入。同店がhermafrodite(エルマフロディット)という名前で展開しているところのものだそう。ライトオンスで、かなりハイライズだけれど、脚のラインもすっきり見えたし、マリンパンツふうのフロントデザインと、尾錠部分のリボンがかわいかったので、これは都並の方が気に入って押した。

奥さんの試着中に店員のお姉さんに聞くと、ここは青山にメンズの展開もあるそうなので一度見に行こうと思う。一部、新丸ビル店にもメンズの商品は置いてあって、ガーゼ素材のシャツなんかは確かにアンティークな感じでかわいかった。

ところで、アンシェヌマン・ユニといえば、什器というか、店内展示用の棚や家具がかなり本気のアンティークなので気になっていた。新丸ビル店にも立派な螺旋階段がある。また、そういう旨を過去にこの日記に書いたら、そういうキーワードで当ブログを訪れる人も定期的に存在するようで、他にも気になっている人はいるんだろう。

そう思って、「こういうのをどこで見つけてくるんですか」と店員のお姉さんに訊いたら「社長が好きで、パリから持ってきちゃうんですよ」との回答を得た。

だそうですよ。皆さん。おわかりいただけましたか。

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レビュー:『ファーストフード・ネイション』×『いのちの食べかた』(ネタバレ&理屈っぽい長文注意)

『ファーストフード・ネイション』についてのレビューを書こうと思っていながら、忙しさにかまけているうちに(怠惰な人間にとってこれはなんと都合のいい言い訳になることか)、「Variety Japan」の方にプロの批評家トッド・マッカーシーのレビューの和訳がアップされ(英語版はココ)、それを読んだらまったくの同感で、書きたいことはほぼ書いてもらったような気になってしまった。さすがはプロである。いや、僕もある種のプロなんだけど。

なんにしても、こういうネット上の媒体にレビューを書こうとする人は、他の人のレビューもせっせと読まないといけないな、と、自戒の念をこめて思った。まったくの当て推量なのだけれど、ブログにレビューないし感想文を書く人って、自分の書きたいことを書いて、他の人のは読まない、ってことが多いんじゃないだろうか。だとすると、せっかくのコミュニケーション・ツールが生かせていないということになるわけで、「人の意見を聞く力」というのを我々は身につけないといけない。

などと説教くさい話は置いておいて…説教くさいといえば、この映画はもっと説教くさくなってしかるべきだったと思う。それが、マッカーシーも指摘しているように、「物語の構成に緩慢なところが目立つ」「荒削り」で「雑」なものになってしまった。結果、「ゆったりとしたペース、のんびりとした映像スタイルは、物語を語る上で自由奔放な感覚を生み出してはいる。これを不快に思うかどうかは別として、シュローサーの原作にあるシステマチックな姿勢が喚起する攻撃的モードを、十分にこの映画が引き継いでいるということでは決してない」。

この見解に僕もまったく同意する。一応レビューをするために原作本『ファストフードが世界を食いつくす』も読んだのだが、この原作本にあって、映画にはないものがいくつかある。で、その欠落が映画の大きな瑕疵となっているのである。

その欠落のうちのいくつかは、すでに指摘されているものだ。たとえば、原作で大きく取り上げられていた肥満の問題は、映画では考慮されていない。が、このことは、同じファーストフードをテーマにした映画(こちらはドキュメンタリーだが)『スーパーサイズ・ミー』が、まさに肥満の問題を中心に取り上げたものであったことを思えば、マーケティング的発想として、肥満の問題がオミットされたのはうなずける。

それよりも大きな欠落は、法制度と圧力団体、およびロビイストの問題だろう。一部の資本家が、法律およびその他の公的制度を自分たちに都合のいいように操作して、甘い汁を吸っている、という構造の問題が、この映画では取り上げられない。一応映画にも「ミッキーズ」なる架空のファーストフード・チェーンの重役らしき人物が登場するが、どの人物も一様に柔和で、政治的発想のない愚鈍な人物に見える。

この点も、架空のファーストフード・チェーンなどではなく、実在の人物に取材を行ったモーガン・スパーロックの方が、その闘争的姿勢、という点で評価されるべきだろう。

さらには、原作本の前半に登場する、モータリゼーションとファーストフード産業の発展の相互作用性などの歴史的観点が、個人的には新鮮な視点で興味深く読めたのだが、この部分も映画では省略してしまっているのが残念だ。

というのは、うまくこの部分を映画に組み込めたら、アメリカの現代的社会構造が成立する過程に、根深くファーストフード文化が入り込んでしまっているということを指摘できたと思うからだ。

だがしかし、おそらくこれらのことよりももっと大きな問題がある。そしておそらくそれは、アメリカ映画全般に共通する構造に関わる問題であろうと思う。

その問題とは、映画が特定の、名指しされる複数の登場人物を中核に据えてしまっているそのこと自体である。

概してアメリカ映画は、個人ないし特定の少数の登場人物に重きを置きたがる。それはアメリカという国家が重んじる個人主義の反映の結果かもしれないし、あるいはそうではないかもしれないが、いずれにせよアメリカ映画、とりわけハリウッド映画は、観客が身近に、あたかも自分の友人や、ことによると自分自身の写し身であると感じられるような登場人物の個人的な行動によって展開される物語を好んできた。

ところが、『ファーストフード・ネイション』で取り上げられるべきは、そういった特定の、特徴ある個人ではないのだ。少しエキセントリックで元気のいいアヴリル・ラヴィーンや、お人よしでいつも困り顔のグレッグ・キニアではないのだ。

そうではなくて、ファーストフード文化の問題は、そういった個々人が個々の特徴を度外視して、社会全体の一構成員として、ある構造の中に取り込まれてしまっていることにあるのだ。

だからその意味でも、統計学的なデータを(おそらくシュローサーの本から入手して)映画の冒頭に流し込んだモーガン・スパーロックの方が、リチャード・リンクレイターよりは的確だし、おそらくより的確にこのテーマの映画を撮ることができたのは、エイゼンシテインだっただろうと思う。

そう考えるのは、単に牛を殺す場面がエイゼンシテインの『ストライキ』を想起させたからではない。エイゼンシテインは多くの作品で、労働者という階層全体を主人公にした集団のドラマを描くことに成功したが、彼の用いるエキストラの手法(オデッサの階段を思い出すといい)こそが、名もなく顔もない多数の一般人が、ある巨大な構造に巻き込まれていっている様を描くのには適していたはずだ。

同じ見地から、そういう巨大な、概して眼には見えない構造を把握するのを可能にするという意味で、『いのちの食べかた』にはあるリアリティがあると思う。この映画にはナレーションも何もないが、そのことによって、特に名指しされない無名の個々人が、ある無感覚のもとに食品産業に従事しているのだ、という状況を主張するのに成功している。

このように考えてくると、やはり映画『ファーストフード・ネイション』は空振りであっただろうと思う。ただ、我々は今や簡単にその原作本も、同じテーマのドキュメンタリー『スーパーサイズ・ミー』も『いのちの食べかた』も入手できるのであるから、この4点セットで何かを考える、ということは有意義であると思う。

そこへの入り口を、物語映画というもっとも大衆的な媒体を用いることで用意した、という点において、リンクレイターのしたことを評価したいと思う。65点。僕は個人的には『ウェイキング・ライフ』と『スキャナー・ダークリー』の実存主義的アニメーションが好きだし、そっちの方に今後も進んでほしいけれど。

追記:渋谷のイメージフォーラムを出て、宮益坂を駅の方に下っていくと、『クア・アイナ』という僕が愛してやまないハンバーガー・ショップがあります。イメージフォーラムで『いのちの食べかた』を見た直後に、そこに寄ろうと思ったんだけれど、時間の都合でできなかった。残念。

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一に一保堂、二にふたば

Vfsh0179今日は我が町では季節はずれの暖かさ。怒涛の20度越えである。

こうなるともうダウンどころかコートも不釣合いなので、カーキのミリタリー・ブルゾンをクローゼットから出してきて着る。それでぜんぜん大丈夫。

この暖かさで花粉もぶんぶん飛んでいる。僕自身は花粉症ではないけれど、奥さんがそうなので気の毒だ。

いや、花粉症ではない、といったけれど、厳密には極々軽度の花粉症なのかもしれない。その可能性を示唆するものとして、先ほどから鼻の穴の入り口(出口?)付近が少しむずむずする。

いや、そうではあるまい。花粉症でないとしても、花粉症でない人間も鼻がむずむずするくらい花粉が飛んでいるということだ。うん、そうに違いない。

などといった非科学的な思考はおいておいて、今日は「一保堂」さんのお茶について。「一保堂」さんはいうまでもなく京都でも超有名な日本茶専門の老舗である。

しかし僕は、もともと「煎茶を急須に入れて飲む」という文化に縁がなかったので、今までここのお茶を買ったことはなかった。

それが先週、京都に帰省したときにたまたま近くを通ったので(寺町二条というのは僕らの世代には何かのついでには通りにくい場所です)、ここの本店限定の玉露とお抹茶を買ってみた。一保堂さんは全国のデパートに出店していて、近くでは埼玉・大宮のそごうにあるので、本店限定品でないとありがたみがないかなと思ったのである。

でもって、これを飲むにあたって、「お茶菓子は何がいいかねえ、この前買っておいしかった谷中せんべいなんて最高かもねえ。京のお茶と東のせんべいなんて粋じゃない?」などと話していたのだけれど、残念ながら谷中せんべいを買いに行くチャンスはなかった。

そしたらこの週末、僕が名古屋に行っている間に御学友の結婚式で奈良に行っていた奥さんが、帰りがけに京都で「出町ふたばの豆餅」を買ってきてくれた。ここの豆餅は、ほどよくボリュームがあって、でも甘さ控えめで、塩味もいいあんばいで、本当においしいのである。

この豆餅をお茶菓子に、さっそくお茶タイムを開始する。午後の遅い時間、それも夕食後だったことは内緒である。

奥さんが冷ましたお湯で慎重に入れてくれたお茶を飲んだら、これがまたおいしかったのでびっくりした。いやはや、有名なだけはありますね。おみそれしました。

なんというか、お茶の苦味はあるんだけれどすっきりして後を引かず、口に入れた時には液体の中に甘みの芯みたいなものがしっかりと感じられ、飲み終わった後はお茶のすがすがしい香りが口の中にはっきりと残るという、そういうお茶でした。

このお茶とまた豆餅の合うことよ。時ならぬおやつタイムを夫婦そろって満喫しました。

よし、次は「神馬堂の焼餅」を買ってこよう。

追記:「モリカゲシャツを買いに」「赤メック会議」「アントキの猪木がアントニオ猪木に会うようなもの」「名古屋ひとりぼっち」にHOLGA135の写真を追加しました。

Vfsh0189_2 3月19日追記:12日の結婚記念日に、奥さんが上記の抹茶でパウンドケーキを焼いてくれました。色、香りともに申し分のないケーキが出来上がり、さすがは一保堂さんというべきか、あるいはさすがは奥さんというべきか、とにかく感謝感謝していただきました。

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名古屋ひとりぼっち

空けて名古屋二日目。慣れない深酒で頭が痛い。ふと気がつくと、以前大学の保健室でもらったバファリンがペンケースに入っている。それをとりあえず飲む。

深酒をしてしまったのは、昨夜コースの料理をろくに食べずに飲んだからだと思い当たり(DB先生の前で舞い上がり、食欲がどこかへ飛んでいってしまったのだろうか)、とりあえずがっつり炭水化物を採りに行く。

そこで吉野家へ。最悪の選択肢ではある。しかし体が如実に炭水化物(糖分)を求めているのが分かったのでこれは仕方ないことである。

と言い聞かせ、豚丼を完食。その後栄近辺をぶらぶらし、最近お気に入りのカメラHOLGA135で名古屋の風景を撮る。

Fl000009_2 名古屋は別に初めてではないし、学会等々で述べ10日くらいは来ているのだが、久しぶりに来てみると、なかなか面白い街である。特に、ラシック(名古屋でいちばんおしゃれなことになっている集合店舗ビル)とかオアシス21のような最先端の建物よりも、中日ビルとか、その前のバスロータリーにある丸い大時計とか、70sの生き残りみたいな雰囲気がそこここに残っているのがよい。

午前中の光もよかったのでここでパシャパシャ撮る。ちゃんと撮れているといいが(3月10日付記:なんとか撮れていました)。

Fl000015 オアシス21にもいちおう上がって、写真を撮る。面白いことに、屋上の池(?)の水面を見ているうちに、猛烈に喉が渇いてきた。恐水病とは逆の症状である。これも二日酔いの顕著な表れだろう。吉野家でもお茶をたくさん飲んだのだが、まだ足りないらしい。

仕方ないので下のスタバで朝一のアイスコーヒーをゲット。こういうとき、ごくごくコーヒーを飲めるスタバっていいな、と思う。

080309_1234 オアシス21ではトミカ・ショップで足が止まる。先日始めたばかりの趣味「企業ロゴ入りの(ノベルティ)ミニカーを集める」を思い出したからである。

中に入るとすごい品揃えである。くるっと見て回るうち、「トミカくじ」でコカコーラのペイント・カーが当たる、というのを発見。全11種である。この中のミゼットがかわいかったので(この方のブログに画像があります)、あたるといいな、と思ってやってみる。一台525円。

結果は上の画像である。ふつうのトラックだったが、先に購入したFedExのトラック(後)と好相性だと思ったのでそれ以上追いかけるのを止める。

だいたい、こういうもんは深追いしちゃいけません。「ミニカー集め」は楽にやれる趣味として続けたいので、ここで終了です。でも誰かミゼット持ってたら連絡ください。

遊んでいるうちにいい時間になったのでオアシス21内のパン屋さんでサンドウィッチを買って、慌てて名大へ移動。図書館でうちのこじんまりとした図書館が持っていない文献を複写させてもらい、ついでに本を読んでくる予定である。

名大の図書館もまた、70sの香りと古い本の匂いが立ちこめる、いい感じの建物である。母校の図書館を思い出しながら渉猟する。学習用のブースも充実していて、ここも70s風で感じがいい。窓のそばに陣取って、文献を読んでくる。

Fl000018 2時ごろ、遅い昼食を採りに中庭へ。先ほどのサンドウィッチを食べる。春のぽかぽか陽気がびっくりするくらい気持ちいい。

ベンチに腰掛けてサンドウィッチを頬張っていたら、どこからともなく、かわいいピンクの服を着たシーズー犬が。「だんな、そのおいしそうなものおいらにもわけてくだせえ」という風情で寄ってくる。

そのつぶらな瞳がかわいいので写真を撮ろうかと思っていたら、後から飼い主のおばさんがやってきて、「すいません、大丈夫ですか?」と気遣ってくださる。「あ、大丈夫ですよ」なんて言っているうちにお犬様はむこうに行ってしまわれた。

おそらく近所のおばさんなんだろう。そりゃあ、そうだ。こんだけ広かったら散歩にうってつけだもんな。もうだだっ広いを通り越して「だだだだだっ広い」って言ってもいいくらいだもんな。

同じ中庭では、男子学生がこのだだだだだっ広さを利用して缶蹴りに興じていた。息を切らして、はあはあ言いながら、でも皆が笑っている。幼いなとは思うものの、心和む光景でもある。

また別の場所には女子学生2人が座っている。彼女らはまるで秘密の物々交換でもしているような静けさで何かを話しているが、その声はこちらには聞こえない。

また自動車の通る道路を隔てた向こう側からは、応援団の団員たちの「ばんざーい」が間欠的に響いてくる。今日は合格発表の日だったのだろう。

全体として、いつまでもここにいたい、というような日溜まりであった。春の好き日、というのはこういうことを言うのであろう。これも間違いなく「小確幸(小さいけれど確かな幸せ)」のひとつである。

そうはいってもいつまでものんびりはしていられないので、もう少し図書館に籠って仕事する。

夕方、名大を出て栄に戻ってくる。新幹線に乗る前に、早めの夕食を採りたかったのと、やっぱり結婚記念日に奥さんに何か買ってあげたかったからである。そういってこの前もエイミー・ワインハウスのCDを買ったんだけど。

ラシックをぶらぶらした結果、「おばけのラーバン」のミニバッグがあったのでそれを買ってみる。果たして結婚記念日のお祝いがそんなものでいいのかは分からない。おまけに「おばけのラーバン」なのに肝心のラーバンが絵柄に入っていない。でも、結婚記念日のちょうど一ヵ月後が奥さんの誕生日なので、本格的なものを買う予算もない。ということでこれに決定。

早めの夕食は、昨日家を出てくる前までは「よし、味噌煮込みうどん」(好物なのである)と思っていたのだが、名古屋に着いてみるとあまりの暖かさにちょっと季節外れな気がした。

Vfsh0173 そこでラシック内の「矢場とん」に方針変更。恥ずかしながら、いや別に何にも恥ずかしくないが、味噌カツなるものを食したことがなかったので、ここで食べてみようと思ったのである。栄養バランス的にも野菜がとれていいかもしれないし。

で、基本のロースかつを頼んでみたのだが、なかなかおつなものであった。確かに、お店の注意書きにあるとおり、味噌は関西人の感覚では甘すぎるので、和辛子をつけて食べたのだが、そうするとすっきりと食べられた。その他すりごま、一味、トッピングのねぎ(これは別に注文)をつけて味の変化も楽しめる。そもそも、豚肉がおいしい。

でも、別に味噌じゃなくてもいいような気がするよ。これは慣れというか馴染みの問題なんだろうな。

Vfsh0176 食後、地下のスタバで豆を購入。ここの店には「ブラックエプロン エクスクルーシヴ」が置いてあったので記念にそれを買う。通りすがりの男子が「2000円だって。誰がこれを買うんだよな。セレブ用か」などと言っていたので「じゃあ、買ってやろうじゃん」と思ってしまったのもある。

でもそれよりも、この「コロンビア ナリニョ エル タンボ」という豆がデザイン的にかっこよかったのである。黒とライトグリーンの組み合わせが、ナイキのスニーカーみたいで。

買い物終了後、名駅へ。名駅では不思議な現象が2回見られた。

ひとつは赤福である。売店の前に何十人というお客さんが並んで赤福を待っている。その前では売店のおばさんたちが段ボールから赤福を出して山ほど積み上げている。

要は、また大ブレイクしているのである。こういうのを見ると個人的にはなんだかな、と思う。もう少し会社に反省してもらうために、買い控えしたほうがいいのではないか。

もうひとつは、新幹線の有人チケット売り場で僕の前に並んでいたお兄さんが、黒人で、ビギー・スモールばりの巨漢で、真っ白に黒いピンストライプのスーツ、ボルサリーノふうの帽子、真っ白な毛皮のコートを着ていたことである。

要は、どっから見ても本家のギャングスタなのである。しかもこのビギー・スモール、目の前で流暢な日本語で「広島まで」と言っていた。

一体何者だったのだろうか。本家ギャングスタと広島のその筋の方たちとの何か楽しいイベントがあったのだろうか。

そんなことを言いながら新幹線に乗ったのが18時半。なのに家に着いたのは10時過ぎだった。とほほ。

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アントキの猪木がアントニオ猪木に会うようなもの

Fl000005 毎週末家を空けるこの3月。今週末は名古屋に行ってきた。

実は、都並の研究上のヒーローであるアメリカの某映画研究者(以下、分かる人には分かるのでDB先生と記す)が現在日本に来ていて、名古屋大学でスペシャル・トーク・イベントを行うというので、それに参加するためである。

DB先生といえば、今や北米の映画研究では押しも押されぬ大御所であって、彼の研究書を参照していない文献はないくらいのスーパースターだから、これは都並にとっては衝撃のサプライズであった。

おまけに都並自身、個人的な研究の出発点もDB先生の本だったし、結果、ことの自然な成り行きとして、その後の研究の方向性も彼と同じcognitivismの方向に行ったので、思い入れはひときわ大きい。言ってみればこれは都並にとって、タイトルにも書いたとおり、「アントキの猪木がアントニオ猪木に会う」くらいのビッグ・イベントになるわけである。

これは何を差し置いても行かずばなるまい。行って闘魂注入してもらわなければなるまい。

ということで、上述のDB先生の本を京都で買った新しいバッグに放り込んで、朝10時から電車に飛び乗った。

が、名古屋大学駅についたのは14時半。このへんが北関東生活の悲しいところである。

Fl000019 名大は実は初めてだったのだが、その広さに愕然とした。都並の出身大学も同じくらいの規模はあるはずなのだが、現在の勤務地がこじんまりとしているので、そこからの認知的なギャップがあったせいなのだろう。

くわえて、名古屋的な建築の感覚というか、建物と建物の感覚や中庭の広さなどが、他の地域よりも堂々と広々としているような気がする。

でも、これが本来の「大学」なんだよな。と思いつつ、トーク・イベントの会場へ。早めについたので席について待っていると、教室の背後にDB先生が。機材操作用のブースでPCをいじって、トークの準備をしているのがガラス越しに見えた。

「あのDB先生がここに!」と都並の胸は高まる、じゃない、高鳴る。DB先生は、リチャード・アッテンボローをベースに、ジョン・マルコヴィッチをしこたま加えて、最後にオーソン・ウェルズで味付けしたようなルックスである。

時間が来て、ブースからフラットに出てきたDB先生を、名大のF先生が御紹介されて、トークが始まる。内容は日本映画の「視覚の遊び」について。小津安二郎と溝口健二を中心に、近年の著書の内容を前提に話された。PCでスティール・ショットをふんだんに用いていたので非常に説得力があるものだった。おまけにDB先生の英語は分かりやすい。逐次通訳がついていたのだが、大体聞き取れた。もちろん、先生の本を読んでいるので内容が分かる、というのもあるが。

楽しい時間は瞬く間に過ぎ、質疑応答の時間に。皆が手を挙げていたので「じゃあ僕も」とダチョウ倶楽部の上島さんみたいに手を挙げたところ、当ててもらい、小津とジャームッシュの類似性について質問できた。質問はうまくできなかったが、非常に懇切丁寧に答えてもらえて、ここでも感激である。

会が解散になった後、名大のF先生のもとにご挨拶に。F先生が学会誌に載せる僕の英語論文を校正してくださり、その縁で今回のイベントも教えていただいたので、まずはご挨拶をかねて一言お礼を言いに行く。

その後、「DB先生にサインもらってもいいですか?」とF先生に聞くと「もちろん、もちろん」と。喜び勇んで後片付け中のDB先生のもとに行き、「あなたは僕のヒーローです。この本は僕の出発点です。サインを下さい」と告白。DB先生は僕の発言に目を見開いてみせ、それから気前よくサインをしてくれ、名刺交換もしてくれた。「今日は研究者として最良の日です」と伝えると、またもおおげさに驚いてみせた。

それを見ていたF先生がDB先生に僕を紹介してくれる。すると、DB先生が主催するcognitivismの学会が来年度にウィスコンシンであるのでどうぞ、と教えてもらう。「詳しくは私のHPを見てください」とのこと。「行きたいです」と答えたが、もろに学期中だし、自分が担当するゲスト・スピーカーの連続講義の真っ只中である。来年はコペンハーゲンだというから、そっちにいけたらいいな。とりあえず学会員になろう。

その後の流れで、名大の皆さんとDB先生と近所の飲み屋さんへ。いわゆる飲み会である。DB先生と差し向かいの席に座らせてもらい、またもや感激ひとしおである。

飲み会でのDB先生は気さくでとても愉快な人だった。まず、日本や香港には何度も来ているのでためらいなく日本食を食べる。生のエビだって器用にお箸で食べていた。

それから「私はめったにお酒を飲まないんだ」というので「なぜですか?」と訊くと「だって、自分がバカになった気がするからさ」と答える。さらに聞くと、タバコも吸わないしコーヒーも飲まないらしい(!)。

「じゃあどうやってリラックスするんですか」と隣の席のYくんが聞くと「うーん…散歩したり…奥さんを殴ったり…」などとジョークを飛ばす(奥さんも有名な研究者である)。僕が「あなたはいつもリラックスしているのではないですか」と聞くと「そうかもしれないね」とのこと。

その後久しぶりのお酒で酔ったのか、DB先生はデジカメを手にあちこち参加者を撮り始めた。写真を撮っては「これは小津の左右対称のショット」「これは溝口のフレーム内フレームを使ったショット」などとはしゃいでいる。本当に還暦を迎えるとは思えない童心ぶりである。

やがて宴もお開きに。映画監督志望のY青年はDB先生と2ショットを撮りたがっていたので撮って差し上げる。このとき、フラッシュの加減でどうしても顔が白く飛んでしまうので困っていたら、DB先生が「カメラは分かるんだ、貸してごらん」とマニュアルで露出を調整してくれた。どこまでも博学で、かつ気取らない先生である。

僕も2ショットをお願いしようかと思ったが、「いや。今度は海外で会おう。そしてそのときに撮ってもらうんだ」と決意して辞退する。

皆さんと別れて当夜のホテルにチェックインしたのが23時。こっちもふだん飲まないお酒で酔っ払い、シャワーもそこそこに倒れるように就寝。

朝目が覚めて、二日酔いの頭痛にびっくり。でも二日目も名古屋で仕事だ。そのためにはまずはコーヒーだ(僕もDB先生同様タバコは吸わないが、DB先生と違うのは、僕が極度のコーヒー中毒者であるということ、それから、妻を殴ったりしないということだ<嘘だ。前に寝ぼけて二発殴ったことがあります)。

朝10時にチェックアウト。朝食を採れる場所を探して出発。

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パイプロイド出動!(駄犬)

Vfsh0158 あなたは、「パイプロイド」をご存知だろうか。

「パイプロイド」とは、京都にあるコンピューター機器・ソフト開発会社、株式会社コトがプロデュースしているペーパークラフト・トイである。

しかもただのペーパークラフトではなくて、部品はすべて紙管製、はさみさえあれば糊なしで数分で組み立てられるというゆるいトイである。その全高もわずか数センチ。吹けば飛ぶよなたたずまいである。

この「パイプロイド」のデザイン・コンセプトは、我々昭和生まれが慣れ親しんだロボット・アニメであって、ここを見てもらえればわかるように、そのラインナップも飛行機型、戦車型とバリエーションに富んでいる。そこに、内向型とか自由人とか、いかにも現代的な性格付けがしてあるところも面白い。

これを最初に発見したのは一年半ほど前、情報誌「Lマガジン」の誌面だったと思うが、そのときは僕よりも弟が興味を示して、そのときは京都に住んでいたので、弟のために二体ほど購入した覚えがある。

Vfsh0168 この「パイプロイド」が、先日訪れた文椿ビルヂング(この中のカフェ「ニュートロン」が、僕と奥さんの結婚式の二次会会場でした)内の「クレエ」店舗限定のコラボ・モデルを発売していたので、今度は自分用に購入してきた。

それがこの犬型ロボット、「バウワウ・ジョン」である(同店舗限定モデルには猫型のミュウミュウ・ミケ(マイク)もいる)。

Vfsh0164これを夕べ作ってみたのだが、ほんとにすぐに作れる。はさみがあれば誰にでもできて、失敗しない。ペーパークラフトっていうものは一様に、作り手の几帳面さとか器用さが出来に如実に反映されるものだが、これなら誰が作ってもほぼ同じクオリティにできるだろう。

画像は、二枚目が「おあずけ(ちょっとがまんできない)」、三枚目が「お手」である。三枚目の画像でサイズがお分かりいただけると思う。

Vfsh0167

こんなふうにいろんなポーズが取れるのが、糊を使わない「パイプロイド」の優れたところだが、バウワウ・ジョンの場合は設計がちゃんとしているので「マーキング・ポジション」を取ることもできる。こういう芸の細かさは嬉しい。

さらに最後の画像では調子に乗って逆立ちをさせてみたが、これも根気よくバランスをとってやると支柱なしにクリアする。ここまでやってくれるとなんとなく駄犬的な愛着を感じてしまう。

Vfsh0171 ちなみにこのバウワウ・ジョンとミュウミュウ・ミケ(マイク)、文椿ビルヂング内の「クレエ」さんにお邪魔すると、実物大モデルを見ることが出来る。実物大を見たからといってさほど感動しないところが、こいつらのすごいところである。

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赤メック会議(プロジェクトTNT)

京都観光の二日目。遅く起きてゆっくりとホテルを出、11時頃にお気に入りのベーカリー&カフェ「ル・プチメック」へ。

ここは最近、衣棚通御池上ルに2号店を出店したのだが、その新店は黒ずくめのスタイリッシュな外観/内装から「黒メック」と呼ばれている。それに対して我々が通うのは「赤メック」。もちろん、ファサード(通りに面した外装)が赤いからである。

この「赤メック」にて、自宅で消費するパンを買い込む。奥さんがここのパン(競争率が高くなるといけないので敢えて品名を伏せる)を気に入っているので、10個近く買う。それでも「今回は少なめ」。

その後、サンドウィッチとカフェオレでブランチ。ここのカフェオレは本当においしい。何度も書くけれど、滋養がたっぷりと全身に沁みわたるような味である。サンドウィッチは、あいにく僕のお気に入りの鶏肉のプロヴァンス風がなかったので、何肉だか忘れたがパテのサンドウィッチと、ローストポークのサンドウィッチを食べる。シンプルだがバランスのいい、ちゃんとした味。

奥さんは基本中の基本、カスクルート。ハムとチーズだけのシンプルなサンドウィッチだがこれがいちばんおいしいかもしれない。僕も一口もらって「うん、これ正解」と思わずうなずいた。

ただ、確かにおいしかったのだけれど、最近の「赤メック」に関しては、行く度に不満が募ってくるような気がする。食べながら、そのことを奥さんと確認する。

というのは、僕らはもうここを贔屓にして長いのだけれど、悲しいかな最近、人気が出てきたせいか、客層も変わってきたし品揃えにも不満が出てきたのである。

客層について言えば、以前は近所のマダムや外国人が中心だった客層が、明らかに一見さんの観光客が中心になってきたし、その中にはオーダーのシステムすら知らない人もいる。現に僕らが滞在している間にそういう客が二組も来た。

もちろん、そのおかげで繁盛はしているのだが、繁盛するというのは、いいことばかりではない。というのは、あまりに客が入りすぎて製造が追いつかないのか、結果的に品揃えがぐんと減ってしまったのである(黒メックに人材と品数がいっている、ということもあるのかもしれない)。たとえば、好きだったプリンの類はすっかりなくなってしまったし、イートインの席のすぐそばのテーブルを埋め尽くしていた焼き菓子も忽然と姿を消した。

こうなってくると、贔屓の店とは言え、複雑な思いである。ここのところ、「さらさ富小路店」「オー・プティ・ピエ」と贔屓の店の消滅が続いただけに、「赤メック」には踏ん張ってほしいとは思うが…。

などと複雑な胸中のまま、烏丸御池へ移動。奥さんのお気に入りの手芸店「BOBBIN ROBBIN」へ。僕は手芸にさほど関心があるわけではないので、決して広くはない店内、すぐに見終わってしまうのだが、奥さんは仔細に個々の品物を検討している。どうやらこういう時間が楽しいのだろう。北関東にいてはなかなかできないことなので、そっとしておいてあげる。

Fl000014_2 結局この店ではレース地の布などを購入。その後、すぐそばの文椿ビルヂングへ。ここの二階に入っているインテリア・ショップ「クレエ」などを見て回る。奥さんはここでも春の七草柄(?)の布を購入。近々何か製作するようだ。クッションカバーにでもするのだろうか。

僕はここでパイプロイドROOTOTE2ウェイバッグを購入。

このバッグ、ネットで調べて初めてブランド名を知ったのだが、「クレエ」さんで定期的に入荷している品らしい。はじめは買うつもりはなかったのだが、デザインのかわいさについ購入してしまう。ああ、カバンなんて今は特に需要はないのに…。

でもこのカバン、なかなかあなどれない品物である。HPを見るとメインのラインは女子向けのトートのようだが、「クレエ」さんでも扱っている「Be」のラインは男子にも使えるものになっている。中にはフランス軍とかドイツ軍のデッドストック毛布地などを使ってミリタリーふうに仕上げた品番なんかもあり、絶妙に男の子心をくすぐる。僕の買ったモデル、Liverpoolはミリタリー関係の生地ではないが、プリントからするとどこかの郵便局の集荷袋かもしれない。

よし、次の週末、名古屋に行くときにこれを肩から提げていこう。とテンションが上がる(3月9日付記:実際に行きました)。

そのテンションのまま、SACRAビル、カフェ・アンデパンダンなどを訪問。レトロビルのたたずまいがとてもフォトジェニックだったのでHOLGA135で激写して回る。が、LOMO LC-Aと違い、レンズカバーをはずさなくてもシャッターが下りるので、一昔前の間抜けなお父さんみたいな真っ黒写真を撮っていないかそれが心配。

Image19_2 カフェ・アンデパンダンだが、ここは本当に京都老舗カフェの雄である。思えば僕がLOMOに目覚めた最初の年に撮った写真の一枚がこのカフェのものである。2000~01年頃だろうか。僕はまだ20代の青年だったが、そのレトロ(というかほとんど廃墟)なたたずまいにいたく感銘を受けたのを覚えている。

そこから、フードの内容とか微妙な営業形態の変更はあるものの、全体の雰囲気を守りながら営業を続けている。あちこちレトロなカフェがなくなる昨今、ぜひとも生き残っていてほしい店である。

当日はあいにく貸切パーティ(たぶん、結婚式の二次会)が夕方から入っていたので長居はできなかったが、それでもここでしっかり休憩。心も身体もリフレッシュした。ウィルキンソンのジンジャーエールの辛さが心地よかった。

しかしのんびりしていたのもつかの間、その後我々夫婦は急いで帰途に。京都駅の伊勢丹でお漬物とお弁当と大学の学科へのお土産をあわただしく買い込み、17時ごろ、疲れ果てて新幹線に飛び乗る。今回も非常にせわしない旅であった。

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モリカゲシャツを買いに(プロジェクトTNT)

大学の講義が終わったにもかかわらず、3月は不思議な忙しさである。毎週末に新幹線に乗り、京都、名古屋、浜松と出かけることになっている。

その第一弾として、週末に京都へ帰省してきた。我々夫婦の入籍が3月3日、結婚記念日が12日なので、そのささやかなお祝いをかねた気晴らし旅行である。

といっても、前回の帰省は正月なので、これはごく客観的に見れば「しょっちゅう帰省している」というレヴェルなのかもしれない。しかしながら個人的には、帰ってくるたびに懐かしさを感じるようになってきているのに気づく。

北関東の住まいに鍵をかけて、新幹線に揺られて約4時間。京都駅に降り立ったときに感じるギャップが、回を追うごとに大きくなっているのである。常に、前回以上に新鮮な目で、京都の町並みを見つめるようになってきている。

これはおそらく、次第に北関東での講師生活に順応しつつあることの表れなんだろう。

このことについては複雑な思いがある。北関東の暮らしを悪く言うつもりはないけれど(関東には関東の、関西には関西の文化がある、というだけのことである)、やっぱりそこには「ないもの」があり、京都に「あるもの」が自分には馴染んでいるのだと思う。

やはり僕は根っからの関西人なのだ。

…とそんな感慨はそこそこにしておかないと、時間には限りがある。ということで今回も、夫婦で京都の町を栗鼠のように忙しなく歩き回ってきた。

Fl010002 まずは土曜日、寒さのぶり返した昼下り、一乗寺にある書店「恵文社一乗寺店」へ。ここは京都の繁華街からだと京阪電車>叡山電鉄と乗り継いでいかなくてはいけない、多少不便なところにある。

けれども我々夫婦がそこに足繁く通うのは、やはりここが全国的に見ても類を見ない書店になっているからである。というよりも、「書店」という概念の枠をどこまで広げられるか挑戦しているような、そんな書店である。

店の構えとしては、京の町伝統の町家風になっている。そこがもう珍しいのだが、その黒光りする木々に支えられた店内には、カルチャー系の書籍がずらっと、しかもかなりの審美眼をもって揃えられている。

たとえば、カート・ヴォネガットがずらっと並んでいる横にエドワード・ゴーリーがあり、夢野久作があり、ジャック・デリダがある、というそんな品揃えである。

さらにここは雑貨も扱っているのだが、その守備範囲も幅広い。モレスキンの手帳に始まり、「アルネ」系の食器、アンティークの一点ものアクセサリなど実に充実している。

この見事なコンセプトの打ち出し方が我々夫婦にとってはまさにつぼである。おまけに我々は二人とも、大型書店なら一時間でも二時間でもいられるという書店好きである(そのわりに奥さんは活字を読まないから不思議だ。「書店にいる時間」÷「読む活字の文字数」というものを計算したら、うちの奥さんはギネス級かもしれない)。

この「恵文社一乗寺店」に向かうべく、まずは出町柳駅(京阪電車の終点かつ叡山電車の始点)へ。ここで小腹が減ったので「ファラフェル・ガーデン」に立ち寄り、ファラフェルサンドをテイクアウトする。

8個入りと5個入りがあったので、僕は8個入り、奥さんは5個入りにしてみたのだが、明らかに8個入りはオーバーサイズであった。「おやつ」という量をはるかに上回っている。

が、僕の胃袋は宇宙なので難なく完食。

叡山電鉄では珍しい貸切電車を見た。中でミュージシャンがバンジョーやアコーディオンの生演奏をしながら、京都の山を上って行く、という面白そうな企画物だった。なんとなくエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』のエンディングを思い出したが、そういう縁起の悪い喩えは失礼か。

Fl010004 「恵文社」でひとしきり書籍の渉猟を楽しんだ後、歩いて北白川のカフェ「prinz」へ。できてからだいぶ経つのでけっこう建物はくすんできたが、中のカフェはけっこうまったりできる。ちょうど夕暮れ時だったので、ネストール・アルメンドロスの映像のような柔らかな光が気持ちいい。この光の中で、半地下のカフェの窓から、庭の芝生をいじっている業者のおじさんを眺める。その黙々とした作業を眺めながらカプチーノを飲み、ここのところの多忙な日常の喧騒をしばし忘れる。

でもここのギャラリーの展示はちょっと首肯しかねるものだったし、ついでにいうとソファーがちょっと座りにくかったけど。ミッド・センチュリー・モダンという雰囲気はいいけれど、全身を預けるとまるで美容院で髪を洗ってもらうような姿勢になってしまうのはいかがなものか。

「prinz」を出て、市バスに揺られて河原町丸太町に移動。今回の旅のメイン・イベントである「モリカゲシャツキョウト」を訪問。お正月にバーゲンで買ったガーゼ生地のレトロっぽいジャケットに合わせる、洗いざらしで着られる白いシャツをずっと探していて、いろいろ考えた挙句「モリカゲシャツ」に行き当たったのである。

ここは予想以上に楽しい空間だった。一見白いボタンダウンシャツだけど後身頃がギンガム・チェック、とか、ボタンホールが全部鮮やかな緑色、とか、小技の利いたシャツがずらりと並んでいる。人と違うものを求める向きには最適である。

いろいろ見て回った結果、生地の耳を使った切りっぱなしが面白い「ウラモリカゲシャツ」のボタンダウンを購入。大満足の買い物となる(3月11日付記:HPを見たら、グレーと黒のステッチが入ったヴァージョンもあったんですね。こっちもよかったなあ)。

Vfsh0154 その後は河原町を南下、途中「一保堂」さんに寄って本店限定のお抹茶と煎茶を購入。抹茶の方は奥さんが近々パウンドケーキにしてくれるそうである。煎茶の方は、先日谷中で買ったおせんべいをまた買いに行って、京都のお茶と東京のせんべいによる優雅なお茶の時間を楽しみたいと思うが叶うかどうか。

その後はアンジェやBALなどを見て回ってから「みよしや」へ。奥さんの好物でもある名物のみたらし団子を堪能。ここのはたれが黒蜜ベースだということなのだが、詳細はともかく、あっさりしていてくどくなく、みたらし団子がさほど得意でもない僕も軽く食べられる。程よく焦げ目のついた団子がとても香ばしい。

普段は行列しているのだがこの日に限って難なく入手できる。団子には二種類あって、たれだけのものと、それにきな粉をまぶしたものがある。どちらも値段は一緒で一本90円(2008年3月現在)。きな粉は一本だけ頼んでもたっぷりまぶしてくれるので、こんなふうに一本だけきな粉にして、残りの団子は気が向いたら余ったきな粉をまぶして食べる、というのがおススメ。何せエコである。

さらにこの直後、そのみたらし団子の風味も口の中に残っているくらいの時間差で、「ウシノホネズット」に移動。ここでも夫婦の好物である名物「うしのほねシチュー」を唸りながら堪能し(ここにきてこれを食べないのはもぐりである)、今季最高のブリトロに舌鼓を打った。

夜は日航プリンセスへ逗留。二人とも夜は気を失うように眠ってしまった。

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