レビュー:『ノーカントリー』後編(ネタバレ&長文必至)
話の続き。
コーエン兄弟は環境音を「サスペンスを盛り上げるための道具」として使っている、という話であった。どのようにか。
そのもっとも端的な例は、最初にモス(ブローリン)にシガー(バルデム)の追っ手がかかる、一つ目のモーテル(リーガル・モーテルだったか)での場面に見出すことができる。
ここではモスがふたつの部屋を借りて、一方の通気口から入れた大金のトランクを、もうひとつの部屋の通気口から取り出そうとする。この場面で、モスに追っ手がかかっていることを知らせるのは、シガーの撃った消音機つきのショットガンの「音」、それから犠牲者となった哀れなメキシコ人の「声」、なのである。
また、狭い通気口の中ではトランクがぶつかり、不用意に大きな「音」を立てるのだが、この音も「これでモスがシガーに気づかれるのでは」という恐怖を観客から引き出すのに成功している。
さらにコーエン兄弟が抜かりないのは、こういう「聴覚のゲーム」に観客を抜かりなく参加させるために、それに先立つ場面で、モーテルの中のモス(ブローリン)に、耳を澄ますアクションをさせているところだ。これは観客に対する「耳を澄ませ」という合図なのである。また一方で、カメラが靴を脱いだシガー(バルデム)の靴下だけの足首を執拗に映し出すのも、同様の「聴覚のゲームでは音を立ててはいけない」という合図だ。
ここまで書いてきて、「えー、本当にそんな大げさなものかなあ?コーエン兄弟じゃなくたって、そんなのはサスペンス映画やホラー映画なら誰でもやってるんじゃないの?例えば『暗くなるまで待って』とかさ」という批判の声が聞こえてきたので(その批判はある意味当たっているのだが)、ここである比較をしよう。
その比較対象はヒッチコックの『サイコ』である。
これも都並が鬼の首を取ったみたいにえらそうに言うまでもなく、映画好きなら誰もが、この映画と『サイコ』の類似点に気づくだろう。モーテル、殺人鬼、マクガフィンとしての大金を持った逃亡者…(たとえば内田樹先生のブログを拝見すると、先生もそう書いている)。
しかしコーエン兄弟の偉いところは、単にこのヒッチコックの名作をオマージュ※としてサンプリングしているのではなく、その説話の技を完全に換骨奪胎しているところにある。端的に言うと、『サイコ』は「視覚のゲーム」であったのだが、それをコーエン兄弟は「聴覚のゲーム」に造り替えているのである。
※単なるオマージュとしては、同じアメリカ/メキシコ国境を舞台にしたオーソン・ウェルズ監督主演の映画、『黒い罠』へのオマージュなら、この映画には存在するかもしれない。いちばんわかりやすいのは、ウディ・ハレルスンが演じるのはカーソン・ウェルズという人物だし、『黒い罠』の冒頭は有名な車の爆発ショットなのだが、この映画にもシガーの起こす車の爆破のショットがある。そう思ってみると、ジョシュ・ブローリンはなんとなくチャールトン・ヘストンと似たタイプに見える。
例えば『サイコ』では、大金を持ったマリオン・クレーン(ジャネット・リー)が、車を買い替える場面がある。ここでは中古車販売店の向かいに巡回中の警察官がいて、マリオンはその「視線」をしきりに気にしている。さらにマリオンは、新聞の販売機で新聞を買い求め、自分の起こした横領事件が記事になっていないかを「見て」確かめる。ここでは「見ること」が「知ること」と一致しているのである。
このことを裏付けるように、その後、ディーラーと商談が成立したマリオンは、代金をバッグから取り出すためにトイレに隠れるのだが、この個室に隠れるのは「見られる」=「知られる」ことを避けるためなのである。
こうした「視覚のゲーム」で最後にマリオンには何が起こったか。彼女は最終的にベイツ・モーテルで、壁の覗き穴からベイツに「見られ」、「視覚のゲーム」に負けて、殺されてしまうのである。
このモーテルを舞台とした「視覚のゲーム」を、「聴覚のゲーム」に置き換えて再構築したところに、『ノーカントリー』のすばらしさがあるのである。「箱庭」感から議論を進めてきたが、気がつけばこの映画でもまた二人は「新しく作られた映画による、過去の映画の批評およびオマージュ」を行っていたわけだ。確かに、聴覚を用いたサスペンスやホラーはたくさんあるだろうが、その「聴覚のゲーム」を、ヒッチコックへのオマージュともとれる手法で再利用したところに、コーエン兄弟の手腕が光っているのだ。
さらに映画本編から論の補強材料を探すなら、もうひとつのホテルでのモス(ブローリン)/シガー(バルデム)の対峙のシークエンスを思い出すとよい。
ここではモスはついに、自らを追跡する発信機の存在に気づく(この発信機と対になる受信機も、ランプの点滅とともに、警告音のインターバルで発信機の遠近を知らせる、「聴覚」の道具であった)。そしてシガーの到着を待ち構えるのだが、このときも彼は「耳を澄ます」のである。そして遠くにシガーの足音が聴こえてくる。
しかしこの「聴覚のゲーム」でモスはひとつ誤りを犯す。彼は、ドアの隙間からの光でシガーを「見よう」としてしまう。「見る」ことは、この「ゲーム」ではルール違反である。そのためシガーによって廊下の照明を消されてしまったモスは、シガーの不意打ちを回避できなくなるのである。
…長々と書いてきたが、最後に改めて、ヒッチコックに比肩しうるテクニックを手に入れたコーエン兄弟のキャリアを祝福したい。これからの作品も、これまで以上の期待を込めて、観続けていきたいと思う。
難しい話を気取って書きましたが、興味のある人はぜひ観てください。一度観た人も、今度は耳を澄ましてもう一度見てください。この映画の音響効果のすばらしさに気づくはずです。環境音の細やかな配慮のおかげで、どの場面でも「まるで同じ場所に自分もいるかのような」臨場感が半端ないです。小理屈は抜きにしても、単純に音効さんを褒めて差し上げたい、そんな作品です。もちろん100点。
追記:ネット上でヒッチコック作品と『ノーカントリー』を比較したものを探すと、『サイコ』とともに『鳥』を挙げているものがあって、これは興味深い見解だと思った。その筆者いわく、『サイコ』のノーマン・ベイツはまだ理解可能な人間的側面を持っているが、「純粋悪」とも言われるアントン・シガーはまるで「壁」みたいなもので、到底理解できない、人間的でない存在なのだから、そういう意味では『鳥』の災厄の方が近い、というのである。なるほどな。
追記その②:この映画を端的に人に説明するなら『サイコ』×『黒い罠』×『激突!』(純粋悪の追跡という意味で)×『ターミネーター』(自らの怪我を治療するバルデムの鉄面皮ぶりに、同じようなモーテルでのシュワちゃんの振る舞いを思い出したのは僕だけではないはずだ)になるだろうと思う。そういうことを本文にうまく入れ込みたかったが入れられなかったのでここに書く。



























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